旅行記 の日記群

雨の動物園に思う

最近思ったコトがある。世の中で一番虚しい職業は「佐渡トキ保護センター職員」かも知れない、と。

本日は高校2年の校外学習の引率で上野動物園などの上野公園周辺を散策してきた。上野動物園には様々な籠があったが、大型の鳥類の籠ではしみじみとした悲しさを感じた。特に雨に打たれる「モモイロペリカン」なんかは。
そんな籠・壁、幼かりし頃は気づきもしなかった。ランラン・カンカンを見るために並んだ記憶くらいしかない。コドモには子供の、オトナには大人の動物園鑑賞法(動物園の存在意義)があると思った。少なくとも私自身については。

旅立ちの日に

本日から4泊6日で修学旅行引率なのでした。行き先はフランスのパリであります。
3年前にやはり高校2年の担任をしていたときも、修学旅行では同じ行き先を予定していたのですが、9/11の同時多発テロの直後だったため国内旅行に変更になったのです。
では、そろそろ家を出発しますかね。

パリ旅行記-1-

2月17日から22日まで、修学旅行の引率でフランスはパリへ行ってきた。その間の出来事を。

17日
成田空港からシャルル・ド・ゴール空港へ12時間超のフライト。直行便ではあるのだが、何しろ長かった。使用したのは全日空NH205便。日本を正午前に出発し、時差で日本から8時間遅れのフランスに着くのは現地時刻の16時半頃だった。以前から私の中で懸案事項であった10年前に発行された未読書籍『ソフィーの世界』を機内へ持ち込んでみたのだった。あの本の作者はノルウェーの生まれだそうだが、その上空を飛んだわけですな。結局たいした量を読むことができなかったのでした。また、私が座ることになったのは窓際の席だったので、窓からの眺めを楽しみにしていた。チナミに私の隣の席はなぜか一般客2名(修学旅行生と一緒なんて可哀想)。太陽を追いかけて飛ぶ便なので、照明?的には問題無かったのだが、シベリアからヨーロッパ上空は雲が多めであり、ほとんど地上を望むことができなかった。飛行機がフランス上空へ入った頃、久しぶりに地上が目に入ってきた。まず思ったことは「畑がきれいな国だなぁ」ってコトでした。さすが農業と原子力の国である。広くて平らな緑の絨毯(おそらく麦が主だったのでしょう)が広がっていたのが印象的であった。飛行機は無事着陸して誘導路を走っているとき、白いものがチラチラ動いているのが目についた。さすがヨーロッパである。ムーミンに出てくる「ニョロニョロ」がたくさん生えて...いるワケがない。白いものはウサギのおしりであった。背中側は灰色に近いのだが、おしりやお腹、しっぽの裏側は白いのですねぇ。空港内でヒト以外の動物をあれほど大量に目撃したのは初めてでしたなぁ。そして、飛行機を出て最初に思ったのは「香水臭せぇー」ってコトであった。さすが「おフランス」である。空港からホテル(メルキュール・パリ・ポルト・ド・ベルサイユ・エクスポ)へ向けてクラス毎にバスで移動する途中、エッフェル塔が見えたときはちょっと感動した「写真と同じだ」って(アタリマエ)。その日は時差の影響もあまり感じず、軽い夕食を食した後に教員のミーティングを行い、眠りに就いたのでした。

18日
最初の見学地はモノプリ(MONOPRIX)というトコロでした。日本で近いキャラ?っていうとイトーヨーカドーかしら。なにしろ見学の都合上、最初の訪問地がスーパーマーケットなのでした。ま、あれはあれで面白かったですね。私自身も日本で買い物する場合はスーパーマーケット(最近はほとんど「いなげや」)が多いですし、庶民?の暮らしを見ることができますわな。とりあえずワインを買ってみようとしたのだが、どのワインが良いのやら?棚の前で悩んでいるところへフランス男性がツカツカと寄ってきて、棚から同じ白ワインを3本カートへ突っ込んだのでした。その男性が関わっている飲食店用の買い出しだったにしろ、彼の自家消費用だったにしろ、とりあえず同じワインを3本も買うということは、味とコストパフォーマンスのバランスが良い商品だろうと思ったのですね。私も同じワインを買ったのでした。モノプリは開店直後だったため、客が選んで棚から持っていった商品がすぐ分かる状況だったのは良かったですね。ポテトチップやその他のスナックについても、棚から若干目減りしている商品を選んで私のカゴに入れましたとさ。ポテトチップスは先日食べましたが、おいしかったデス。じゃ、その時のワインは何処で飲んだのかって?不思議ですねぇ。で、集合時刻になったのですが、生徒は集まりきれません。なにせ大半の生徒はレジで行列してたから。朝早くだったのでレジのねぇちゃんたちも頭数が揃っていなかったのでしょうね。とりあえず買い物は終了し、ベルサイユ宮殿へ移動しました。

パリ旅行記-2-

18日(続き)
そしてベルサイユ宮殿へ。有名である(らしい)「鏡の間」は補修中で一部分しか見れませんでした。私が何よりもビビったのはその庭園の馬鹿デカさでしたね。日本式の庭園って、池とか石とか木の配置によって何か?が表現されているような感じがあり、十把一絡げに扱われる存在ってのは「砂利や苔」みたいな小物って感じがあるのですが、ベルサイユでは「高さ数mもある立派な樹木」が「十把一絡げ」に扱われていました。別の言い方をするならば、木々は「その他大勢の仲間の木々と共に、遠景として存在させられている高さ数mの生け垣の一部」となっていました。何しろ、池もデカかった。で、昼食後はオルセー美術館へ向かいました。ミレーとかモネとかマネとかゴッホとか、美術の教科書で見たような有名どころの絵が並んでいて、お買い得感?が感じられる見学場所でした。その美術館で一番印象的だったのは男子用小便器の位置の高さでした。日本の由緒正しき(短足)老人なんかだったりすると、便器の下端に尿排出部が届かないんじゃないかしら?日本でも時々、高い位置にある男子用小便器(もちろん、女子用便器を見る機会は基本的に無いのだけれど)を見ることがあるが、それはある程度意図的にデザインされている気がする。それに対して、オルセーの小便器は「素」で高い位置にあったような気がするのだな。ま、日本人に限らず、短足なヒトは大便用の便器を使用すれば良いのでしょうけれどね。でもそれじゃあ悔しい気もしますわなぁ...
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パリ旅行記-3-

今回一緒に引率に行ったKセンセ、夜中の乾燥を避けようとしてバスタブにお湯を張り、トイレ兼バスルームのドアを開け放って眠りについたそうだ。私もその技をどこかで聞いたことがありましたので、同じく最初の晩は洗面台にお湯を張っておいたのです。使わない大量の水をバスタブに張ったりするのは申し訳ない気がするとともに「どうせ水は漏れてしまうだろう」とも予想していたから。その翌朝、予想通り私が使用した部屋の洗面台の水は流れ去っていましたが、予想以上にフランスのホテルは乾燥していましたね。洗面台とかバスタブってヤツは使用後にどうしても水滴がついてしまうのでありますが、前夜にシャワーを使用したにも関わらず、翌朝にはバスルーム内のすべての壁や床がきれいさっぱり乾いていました。日本ではあまり見ない光景ですわなぁ。で、当然の事ながらバスタブにお湯を張ったKセンセの場合も、バスタブはきれいさっぱり乾いていたそうです。おかしいのはそのセンセのハナシなのです。彼女は空になったバスタブを見て「まぁ!こんなに乾燥しているのかしら!?」って思ったそうなのだな。うーん、さすが。ま、その後には考え直して「水が漏れたのねぇ」と気づいたということも、彼女の名誉のために申し添えておきます。

パリ旅行記-4-

19日
ケチくさい日本の旅館とは違って、泊まったホテルのテレビは無料だった。しかし、1つのチャンネルを除き、使用されている言語がことごとくフランス語だった。それはそれで異国情緒を感じられるというものかも知れないが、何しろ日本の様子が分からなかったのでありました。パリの朝は2日目だったのですが、自分にも英語教育が施されていたことを確認しましたね。前述の「1つのチャンネル」ってのはCNNでありました。フランス語はほぼ100%聞き取ることはできないのだけれど、CNN は若干聞き取れましたから。ま、大学を含めて8年間の英語教育は無駄ではなかったということですね、私においては。
私の担任している6組と行程が同じもう一つのクラスである4組、その日最初はルーブル美術館に向かいました。有名な地下1階の「逆ピラミッド」では、アヒルの腹を見ることができました。水鳥の腹を見る機会、普通の人にはありませんよねぇ。私もアヒルに関しては普通の人?なので、ガラス張りの天井を歩くアヒルさんがいてくれた今回、初めて水鳥の腹を見ることができました。アヒルとか鴨とかの歩く姿って笑えますよね。下から見た彼らの歩く姿は、なかなか面白いものでした。

パリ旅行記-5-

世の中は4月にもなろうかというトコロなのであるが、私の日記は2月半ばなのだった。でも、まだ続く。

19日(続き)
ルーブル美術館は何しろ広かった。絵よりは彫刻の方が面白かったかしら。「モナ・リザ」を初めとした名作だらけで、ある意味疲れましたね。また、あまりにも有名なヤツが多すぎて、有難みに欠けるような気がしたッス。絵画よりは彫刻の方が面白かったですね。数百年~数千年昔のモノ達がちゃんと残っているってのは凄いことでございますな。で、ルーブル美術館ってところ、年令を証明できるもの(ま、普通はパスポートですな)を見せれば、18歳未満は入場無料だったりするらしい。で、現地のガイドさんに連れられてルーブル美術館を見学し「皆さん、解散しますから各自好きな場所に行くなり、買い物をするなりしてくださーい」って解き放たれたのは、ルーブル美術館出口改札?を出てからだったのだ。一応入り口改札?のヒトに「私は教員なのだが...」と(英語で)伝えたつもりであるものの、「ダメよ」と断られてしまったのだった。あれが今回の修学旅行で一番悲しい出来事だった。入場料払って再入場するのも癪だしねぇ。
昼食後、バスにてフォンテーヌブロー城へ移動した。今回の旅行で一番印象的だったのがこの「バスでの移動」である。前にも述べたが、フランスは畑のきれいなクニである。それを堪能できたのが高速道路でのバス移動だった。東京ってか首都圏ってのは人が住んでいない場所が無い位に家だらけじゃないですか。畑もあるにはあるが、税金対策風の小規模農園が多い気がする。また、そんな町中を走る日本の高速道路ですから、防音壁が道路の両側に屹立しており、当然景色はあんまり良いわけがない(そして馬鹿高い料金だ)。それに対して、パリってのはフランス最大の都市なのだそうだが、それでも人口は200万を超える程度なのだそうで。だから、高速を数十分も走れば周りには畑の広がる風景が出現するのだ。もちろん防音壁も存在しない。さらに「フランスだなぁ」と思ったのは、高速道路脇の道をロードレーサー集団が走っていたことだ。恐らく自転車チームのトレーニングだったのじゃないかしら?日本では集団チャリダーはほとんど見ませんわなぁ、趣味のサークルみたいなヤツですら。
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パリ旅行記-6-

19日(続き)
フォンテーヌブローはこぢんまりとした城だった。といっても住居としては十分にデカいのですけれどね。クソ寒い中での見学だったが、綺麗な芝生が印象的でした。面白かったのは館内の壁でしたね。部分的には大理石が使ってあるのだが、その一部、というか大部分だったのだろうか?漆喰だかなんだかで作られた壁の上に、近くの大理石(マーブル)と同じに見えるようにペイントが施されていたのですな。一般人ではそのことに気付かずにフォンテーヌブロー城を去ってしまう可能性が高いだろう。たまたま?私は大学で岩石学を専攻したこともあって、石の模様が気になるのだ。そしてその「偽大理石」に気付いたのだ。チナミに大理石という名称は中国での産地、雲南省大理に由来するのだそうだよ。これを知ったのは数年前でありますが。
館内の見学後は庭園を見学しました。城の屋根の上かどこかでは、聞き慣れない声の鳥が鳴いていました。スパナで油の切れたナットを締め込んでいるような鳴き声でした。また、その庭園に生えている植物も日本のものとは明らかに違うものが多かったですね。しかしながら、私は理科教員ながら生物名にやたらと暗いため、どういった鳥や植物が生息していたのかはあんまり分かりませんでした。ホテルへ帰る途上の車窓では、雲間から差し込む日差しと緑色の畑、そして曇り空を背景にした葉を落とした木々が印象的でした。
ここ数回の日記群は修学旅行のしおりに書かれたメモ書きを元に文章を起こしているのです。例えば「蛍光灯パリは少ない」ってメモがあります。フランスに於いて、照明に使われているのは基本的に電球でした。更にメモ書きに「王制とチップ?」というのも残っているのです。が、私は何を考えていたのか忘れてしまいました。チップという風習について、旅行を一緒に引率した先生方とチップの由来について何かを考察したことまでは覚えているのですがねぇ。

パリ旅行記-7-

ご無沙汰しております。このページ群の更新が滞っていたのは、個人情報保護法の施行も中国の反日デモも関係有りません、多分ね。年度の切り替えってのは毎年一番忙しい時期なのですけれど、ここ数日やっと仕事に追われなくなってきたのです。では、2か月前のコトを記しましょ。

2月20日
ホテルを出発し、その日最初は朝市へ行ってきました。パリ市内で市が立つ場所(変な日本語?)とその曜日は固定されているそうです。私たちのクラスが覗いたのはメトロが高架になっている部分の下でした。小雨が降っていたのけれど、高架下だから快適でありました。売り物で面白かったのは「ブタの耳・謎の生物のタン(舌)・羽を抜かれた丸ごとの鳩・血のソーセージ」などでしょうか。また「文化?が違うなぁ」と感じたのは、青菜が株ではなくて葉っぱ1枚1枚にちょん切られて売られていたことですね。ホウレンソウだと思うのだけど、ザルの中に葉っぱがパラパラ盛ってありました。私の感覚からすると葉っぱが萎びてしまいそうなのだが、少なくとも朝市ではあの売り方が基本の様子でした。
その後はエッフェル塔登頂です。各自ザイルとピッケルが与えられ、優勝者には名物「エッフェル饅頭」が与えられると聞き、私も結構真面目に登りました。そうです、嘘です。塔に登る前に近くの庭園でバスを降り、記念撮影タイムがありました。当然の事ながら、塔に寄りすぎるとカメラのフレームに収まりきらないのですね。だからある程度離れた場所でバスを降り、記念撮影をしたわけです。気温はさらに下がり、雨が雪混じりになっていました。撮影タイムの後はバスにて塔のふもとへ移動。エレベーターに乗って展望台へ。凱旋門やモンマルトル、ルーブルその他の美術館の位置関係が分かりました。高いトコロってのは単純にそれだけで楽しいですよね。クソ寒かったのが難点でしたけれど。塔は徒歩で降りてみました。エレベーターに乗っても良いのだけれど、普段からエレベーターをなるべく使わないコトを心がけて生活している私なので、当然の選択?として歩いて下ったわけです。可能ならば歩いて登りたかったのですけれど、生徒と一緒の行動である以上、それは叶いませんでした。
バスへ戻ってパリの市内観光です。オペラ座の周囲を徘徊し、ヴァンドーム広場はバスから車窓見学。川沿いのレストランでは昼食にエスカルゴを食しました。味はニンニク入りの普通の貝でした。ま、カタツムリは貝類と同じく軟体動物ですから当たり前です。しかし、貝殻の模様は見慣れた「デンデンムシさん」だったとです。なぜか少し心が痛みました。マサキです(ヒロシ風で)。1時間程度の食事の合間にも、雪が強くなるかと思えば日が差してきたり、何しろ目まぐるしく天気が変わる街でした。
昼食後はコンコルド広場へ。オベリスクとやらは滅茶苦茶に巨大な石でした。そしてやはり滅茶苦茶に寒かった。そこからシャンゼリゼ通りの散策です。コンコルド広場から見た凱旋門と片側5車線くらいあるシャンゼリゼ通りは、テレビや写真で見慣れたものでした。

ヒトは何故に記憶と一致するものを見たり聞いたり読んだりすると、ある種の感動を覚えるのでしょうかねぇ。何の予備知識が無いヒトに対しても、「初対面で感動させてくれるモノ達」こそ本当に素晴らしいものなのではないかとも考えたコトがある私です。しかし、絵画・音楽などに限らず、山とか海などの風景でも、まずは「フツー」のレベルのものを見たり聞いたり(普通の定義も難しいですけれど)するという経験があるからこそ、とんでもないレベルのものを見たときに、記憶の中の「フツー」と比較し、感動が生じるのでしょう。結局のところ経験と感動は不可分なのかも知れませんねぇ。だから「わー、写真と同じだぁ」という喜び方は観光慣れした俗物っぽいものでありながら、純粋な感動であるとも言えるのかも。
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パリ旅行記-8-

20日(続き)
シャンゼリゼ通りは凱旋門へ向けてなだらかな上り坂になっていました。ルイヴィトンを初めとした有名ブランドのショップが並んでいました。日本でいうならどこに当たるのかしら?やっぱり銀座なのですかねぇ?凱旋門の周りはロータリーになっています。日本では「ロータリー」というと駅前くらいにしか存在せず、街道が交わるトコロの車の流れは基本的に信号で制御されていますわなぁ。それに対して、ヨーロッパの大きな交差点はロータリーになっている場合が多く、その周囲は常に車が周回しています。そんなわけで凱旋門の真下へは地下トンネルを使用しました。一度地上へ出た後、凱旋門の片側から内部に入りました。その内部には地味な螺旋階段がありました。エレベーターも存在しているのですが、基本的に使用できないような感じがします、net上での日本語による凱旋門情報を検索してみても。ま、グルグル階段を登る方が楽しいからエレベーターが故障?していて良かったと思います。凱旋門の天井真下に当たるフロアには、昔の戦争写真が展示されていました。100年以上昔の写真を見て「ネガやプリントという形で保存されていたから、この現代まで残っているのだろうなぁ」と思いました。私もパリにはデジカメを持って行きましたが、その際に撮影した画像が何枚かあります。それらのデータは人に渡すもの以外はプリントせず、半分以上はハードディスクの中にデジタルデータとして保存しているわけです。保存性というコトを考えると、プリントとデジタルデータはどちらが有利なのかと考えるのですが、プリントの方に軍配が上がるのではないかと思うのですねぇ。そして今(5月14日)ふと思い出したのが、伊豆の天城は浄蓮の滝。その横の石碑に彫られた石川さゆり。あれは保存性良さそうですなぁ。

パリ旅行記-9-

20日(続き)
凱旋門を後にした我々は「シャイヨー宮」なる場所へ行きました。今ネットで検索して改めて思い出したのですが、あの場所は博物館が入っていたのでした。それらの博物館には全然入らず、パリで一番のルックスとなるそうなエッフェル塔を眺め、写真を撮影してバスへ戻りました。その日はパリ最後の夜でしたので、7クラス全部が中華料理店へ集合して夕食を摂りました。それまでは朝食も昼食も夕食も、場所が時刻やバラバラだったのですね。中華料理自体は良くある感じ?のメニュー構成でした。スープ・麻婆豆腐・酢豚・青菜の炒め・炒飯等々...。最後近くに出た焼きそばは中国風でしたね。日本の焼きそばっていうのは大概麺が太めでモチモチしてますが、中国本土や香港で私が食べた焼きそばってのは細い麺ばかりだった記憶があります。私はその細麺焼きそばの方が好きなのですな。ヒトによってはあの細麺が好みでは無いそうでありました。食事を終えた我々は、各クラスごとにバスに分乗し、ピカピカ光るエッフェル塔その他を車窓見学しながらホテルへと向かいました。エッフェル塔の光りっぷりはなかなか美しかったです。塔の全体にちりばめられたフラッシュがやたらと点灯するのですが、普通に長時間露光で写真に撮ってしまうとフラッシュが全部記録されてしまい、電球を全部点灯した紅白歌合戦の小林幸子みたいな状態になってしまうのですね。一応デジカメで録画してみたのですが、あんまり画質は良くなく、それでいて10MBくらいの容量なのでした。何しろ肉眼で見た方が美しかったですね。

パリ旅行記-10-

21日
パリ最終日、荷物をスーツケースに詰めホテルを後にした私たち、最初の見学地はノートルダム大聖堂でした。大聖堂の内部には、ステンドグラス・壁画・彫刻がありますし、外壁も彫刻で装飾されていました。現地ガイドの方に教わって知ったのですが、あれらの装飾は教会を威厳づけるために存在しているわけでも、来たヒトを感動させようとしているわけでもないそうで、第一の目的は「文盲(もんもう)のヒトがキリストにまつわる物語を理解できるように」というコトなのだそうでした。ま、巨大な建築物ってのはそれだけで威圧されますし、見たときに感動を覚えるのは確かですが、寺院の基本は布教活動なのだなぁということを改めて認識しました。チナミに「ノートルダム(Notre-Dame)」ってのはフランス語で「私達の貴婦人」という意味で、英語なら「Our Lady」ってコトになるそうです。この「私たちの貴婦人」ってのは聖母マリアに与えられた称号なのだそうで。そんな感動的なノートルダムの周辺で、一番面白かったのは「怪しい日本語」でした。周囲の売店とかも含めて、看板とか庇とかには様々な言語で歓迎のコトバが書いてあるわけですよ。「Welcome」とか「Willkommen」とかね。で、日本語はどうなっていたかというと「よこそう」なのですね。「ようこそ」って書きたかったと思うのですが、「よこそう」。で、その後よくよく考えたのでありますが、ヨーロッパ系言語を扱う人々にとっては「ヨーコソ」よりは「ヨコソー」のほうが言いやすいのでしょうねぇ。「ヨーコソ」でも「ヨコソー」でも日本のヒトなら意味は通じますから、ある程度日本語が喋れるヒトが自分の喋っている挨拶を「ひらがな化」すると「よこそう」になっちゃうのでしょうね。本日(5月25日)、「よこそう」をググってみたら、結構なヒット数がありました。そんなページの中には、ネイティブの日本語使いでないヒトが、完全に「ようこそ」と書き損なっていると見受けられるヤツもありました。結構奥が深いですねぇ。と、いうことで日本語ネイティブの私、「ようこそ」の語源を調べてみたところ、やはり予想は当たっておりました。「よく来そ」の音便形なのだそうで。なにしろメッセージは伝わればよいわけだから、「目くじら」立てる程でもねぇやな、ノートルダムの「よこそう」。シテ島周辺はバスを停められないそうでして、ラ・セーヌの周辺を散策し、パリ市街の小道を抜け、リュクサンブール公園まで市内見学の散歩を行いました。そんなのんびりとした時間のなか、朝食の際に水を飲みすぎた私は、散歩途中から尿意を催し、既に公園内では気もそぞろでありました。現地ガイドさんに有料トイレの場所を聞き、生徒を置き去りにして小走りで有料トイレに駆け込んだ私、チップを支払う余裕さえありませんでした。背後からは「ムシュー、ムシュー!」という管理人のおじいさんの声も聞こえたのですが、とりあえず便器へ。後から一応チップを払ったのですが、おじいさんの非常に冷たい視線が辛かったとデス。チップのお釣りもくれませんでした。チップ制トイレ(男性の定価は15ユーロセント)のお釣りはあるのかどうか判りません。それ一度しか使わなかったから。楽しく有意義な修学旅行引率だったのですが、その出来事さえ無ければ完璧だったのにねぇ。スイマセンでした、おじさん。リュクサンブール公園横でバスに拾われた私たちは、昼食場所のレストランまで移動しました。それまでは生徒が寝ようとも私自身はバス内では寝ないように心がけ、それを実践していたのですが、その日は気が付いたら生徒と一緒に眠っていました。そんなわけで、ガイドさんの声に起こされたトキ、バスは停まっていました。昼食後はモンマルトルへ。ムーランルージュ横を過ぎ、モンマルトルを登り始めました。振り返ってパリ中心部を眺めると、曇り空ではあったものの、その隙間から日差しがこぼれており、大変美しい光景でした。また、サクレクール寺院の中はとても綺麗で厳かな雰囲気でありました。私はそこで「キリスト教に感心する前に、自分と関わりが深い仏教をちゃんと勉強しなきゃなぁ」と思ったのでした。とか言って、今日『修学旅行のしおり』を見直すまでそういった決意をしていたことをすっかり忘れていました。あれから3ヶ月。中国近現代史の勉強はしたものの、仏教の勉強はしていませんですなぁ。モンマルトルには鳩や雀がそこそこ生息していました。私の見る限り、ドバトは日本もフランスも見栄えに差がないのですが、スズメのルックスは違ったように感じましたね。具体的に「どこがどう違う!」とは指摘できないのですけれど。で、例によってネット上の複数のページで調べてみたところ、都会に住むハトはヨーロッパでも日本でもほぼ同じ種だが、都会に住むスズメについてはヨーロッパと日本では種が違うというような記述をみることができました。(Wikipediaその他によると、ヨーロッパは「イエスズメ」で日本は「スズメ」だとか?)。自分の観察力をちょっと見直した、晴れた5月の午後なのです。話は戻ってパリへ。美しい風景と美しい寺院を見て何となく敬虔な気持ちを取り戻した私でしたが、もうパリともお別れなのでした。現地のガイドさんにはモンマルトルの麓にて、この旅で新しく覚えた別れの挨拶「オールボアー(正確には「オー ルヴォワール」みたいです)」で別れを告げました。そしてバスはシャルル・ド・ゴール空港へ。空港に着いたときは曇り空だった気がするのですが、出国手続きや買い物その他を終え、搭乗口近くへ行ったときには驚きましたね。何せガンガン雪が降っていましたから。と思ったらその直後に日差しが出現し、と思ったらまた雪が...。私は朝の天気予報(聞き取れないフランス語のテレビ)を思い出しました。太陽と雪のマークがほとんどフランス全土を覆っていたことを。「こんな天気予報、日本ではあまり見ないなぁ」と、記憶に残っていたのですねぇ。きちんと天気予報は当たっていました。あまりに雪が降ったため、飛行機の羽根にも雪が積もってしまったそうで、それを取り除く作業が入ったために飛行機の離陸が遅れました(確か30分間)。日本からパリまでインフルエンザウイルスを運んでしまった生徒がいた様子で、旅行中はクラス内で体調を崩す生徒が数名出たものの、とりあえず死ぬことも怪我することもありませんでした。で、参加者全員、無事に日本に帰ってきたとさ。おしまい。
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世界報道写真展行ってきた

先日、『世界報道写真展2005』とやらに行ってきた。
この写真展に行くのは、昨年度に続き2回目であった。前回は職場に置いてあった「招待券」を貰って行ってきたのだった。学校という場所は結構「招待券」がやってくるところなのである。昨年初めてその写真展を見たときの印象は「紛争というのは世界の至る処で起こっているのだなぁ」というものであった。かなりヘビーな写真展である。あの写真展を見ると、自分の無力さを感じ、自分は平和な世界にいるなぁ、と思うのです。少なくとも「簡単に命を落としてしまうような場所に居ない」ということを認識します。ま、この文章を作成している数秒後にこの東京に巨大地震がやってくる可能性もあるのでしょうけれどね。
今年、職場ではタダ券がどこかに置いてあるコトは無かったのだが、写真部顧問の理科の先生がタダ券をくれたのだった。再び、写真展を見ての感想は、「昨年は「いろんなところで紛争が起きているのだなぁ」というコトを思ったっけなぁ」でしたとさ。ヒトというのは忘れっぽい生き物なのだと改めて思いました。
その写真展では「ポートレート部門」というのがあるらしく、入選した作品集の中には「イラク戦争で負傷した、アメリカ合衆国軍の帰還した兵士(の肖像)」がありました。また、「現代社会の問題(だったかな?)部門」では、「中国の工場で働いている最中に、体の一部を失った青年たち」というのもありました。写真というメディアによって「物理的に傷ついた人」を見ると、生き長らえて写真に収まったヒトの裏に、死んでしまったヒトが居ることが連想されます。(実際には写真展の作品に「この後、写っている兵士は殺された」というものもありましたが。)ニュースの報道による「数十名(数百名・数千名・数万名)の死者」というフレーズを、スッと聞き流してしまうような日常を送っている私ですが、死というモノをもっときちんと想像し、戦争や紛争といったデキゴトに慣れないようにしたいと思うのでした。ただ、あんまり本気で見知らぬ人の死を悼みすぎていると、ココロが辛くなってしまうでしょうね。また、地球上に生まれた人が皆んな天寿を全うできたらば、食料はもっと大幅に足りなくなり、さらに紛争も頻発してしまうことになってしまうのかも知れません。

昨今は子供の数が減っており、私立学校どころか、公立の焼酎学校じゃなくて小中学校も、生徒募集の営業活動をする時代である。
で、私立中高に務めるワタシは、公立中学に営業に行くわけさ。ま、最大最良の営業は「授業をキチンとやる」コトではありますけれど、学校の知名度を上げるコトも重要なワケで。

文京区の中学巡りをしてると「すげぇなぁ」と思うコトがある。それは「緯度経度を表示した杭(?)がほぼ必ず埋まっている」というコトだ。あれは小中学生が「地球」というモノを理解する手がかりになるだろう、確実に。
太陽電池パネルとかの「変に誰かが儲けてそうな設備」より、数段有意義で金のかからない教材ですよね。あれは良い。
(しかし昔、文京区教育委員会と杭業者?間で、何らかの政治的決断がなされた可能性は否定できない...カナ?)

時間差日記(12月27日)

NH903便にて成田空港から中国・大連へ向かった私であった。
北からの季節風のためであろう、飛行機は北に向かって飛び立った。飛行機の離着陸には細かな規程がある様子である。
概略は滑走路におりる方向についておしえて!に。

機内はガラガラに空いており、半分以上が空席であった。チェックイン時の希望によって窓際の席を確保した私は、窓からの眺めを満喫する事ができた。また、隣の席も空いていたので、トイレに行くのも気が楽だった。
北に向かって飛び立った機体が右に旋回するにつれ、筑波山・霞ヶ浦・北浦・カシマ(鹿島)スタジアム・犬吠埼・海ほたる・羽田空港 等々を見る事ができた。富士山も見えました。何度見ても不思議で綺麗な山だと思いますね。
日本海側は雲に覆われており、あまり地上を見る事ができなかった。日本海を越え、機体は韓国上空へ達した様子だった。韓国の地形は全然詳しくない(当たり前?)なので、何処が何なのか分からなかったが、高速道路網がやけに目立った気がしました。
飛ぶコト約3時間。飛行機は大連空港へ降り立ちました。空港を出た時の寒さには驚きました。日中で陽が差していましたが、気温は氷点下。
「とりあえず食事を」というコトになり、空港近くの食堂へ。サヨリの唐揚げが一番おいしかったです。ワタリガニの鍋もツブ貝の炒めもおいしかったけれど。
大連は海産物の豊富な土地だそうでした。

リアル日記・時間差日記

-----リアル編-----
今日は結構真面目に活動してます。

惰眠・都庁で公文書請求・年賀状投函・クリーニング済のコート受け取り・チャリンコのパンク修理・洗濯物の取り込み・食料の買い出し・散髪・駄飲酒・駄文作成 等々。
職場に出勤した日の場合、その日の出来事を記そうとしても、「職務上知り得た情報」を披露するコトに繋がってしまう場合が多いため、「こんなコトした」とか「こんなコトがあった」とは記しづらいのですねぇ。今日なんかは日記を記しやすいですね。

で、今日も年賀状が届いていたのですが、「私の旧居宛てになっていた賀状」が届いていました。郵便局の皆様ありがとう。
「ゆうびんホームページ」から「然るべきフォーム」を探し出して礼を言うという戦法?もあるが、その場合、私の感謝はどこかへ埋もれてしまうだろう。こうして私の感謝を駄文として披露した方が、結果的に「よりよい世の中」になるだろうから、披露させて頂きました。オス。
全体的には郵便局員さんって好印象な気がします。まあ、新聞の集金をしているヒト・宅配便のドライバーさん・床屋さんなどで悪い人には出会った事少ないけれど。本日お世話になった東京都生活文化局の方もとても良い感じのヒトでした。私も良いヒトであろうとしていますけれど。

社会生活を行っていて、(私ですら)時々ムッとするコトがあるのはコンビニのアルバイト店員とかですかねぇ? ま、頻度は低いですけれども。


-----時間差編(12月27日 その2)-----
その日の夕食は「火鍋」でした。日本でいう「しゃぶしゃぶ」に近いですね。以前に上海で食べた火鍋とは異なり、一人一人に鍋がセッティングされていました。鍋の下には固形+液体燃料があり、1時間以上にわたって燃え続けていました。

中国の火鍋の肉は、かなり薄切りであります。そして、牛肉か羊肉が出てきます。
チナミに、中国語で「正宗」ってフレーズは「本当の」みたいな意味があるらしいです。道路に面した看板ではやたらと「正宗」が目立つのですね、「正宗牛肉」とか。日本で「正宗」というと日本酒ですよね。有名なのは「菊正宗」、次点は「草野マサムネ」。

私が日本で羊の肉を食したコトあるのは、「ジンギスカン」か、焼肉での「ラム・マトン」でした。どれも比較的厚切り(数mm?)でありました。薄切りにした場合、羊の肉っておいしいのですね。私は牛肉よりも羊肉の方がおいしいと思いました。茹でても柔らかいのです。

中国の火鍋は潔く、最初から最後まで肉が薄切りでした。日本の「(牛肉)しゃぶしゃぶ」が薄切りである場合、「肉質をごまかすため」である気がしてしまいませんか? 特に最初の肉(ウェルカムミート?)が多少厚切りだったりした場合ナド。
なにしろ、羊の方がお薦めです。数回しか食べていないけれど。

香菜(シャンツァイ:パクチー)や春菊もうまいですね。日本の春菊とは姿が違いますが、香りは同じでした。歯応えなどを含めると、味は日本より良いと思います。

そして、私は太り始めるのでした。

続・時間差日記

ほとんど観光しなかったため、12月28日以降の記憶がやたらと曖昧になるのです。写真もあまり撮りませんでしたし。
なにしろ、大連は寒かったです。おそらくマイナス10度くらいまで体験したハズ。近くの銭湯(洗浴中心)へ何度か行ったのですが、帰り道、髪の毛が凍ったコトもありました。

一回遠出したと言えるのは、旅順へのドライブです。たしか大晦日のコト。大連の中心部から旅順の中心部までは約30kmですから、かなり近いです。
海沿いの寒空の下、完全な露天市場がありました。買ったのは丸ごと1個で5元(約75円)のウニなど。メバルみたいな魚たちは500gで10数元くらいでした。大連のヒトはナマコ好きらしいです。これが結構高価でして、500gで100元(約1500円)でした。チナミに、大連のデパートでは旅順露天価格の数倍でナマコが売られていました。500gで数百元~千元超といったトコロ。

大連の風景を数点。
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やたらとイルミネーションの配置してある広場は「星海広場」というトコロです。Googleの地図の衛星画像でも、その広場(約1平方km)を確認できます。大連の飛行場や中心部から南へ下った海岸沿いです。これはかなり綺麗でした。上から見るのも綺麗ですが、元旦の夕刻に車で広場を横切ったトキも「綺麗だなぁ」って思いました。

イルミネーションってのは、「エネルギーの無駄遣いだなぁ」って思う私です。日本でも、海外でもね。そして、「このエネルギーがあれば、アフリカなどでどれほどの人命が救えるのだろうか?」って思っちゃいます。まあ、飛行機での移動や自家用車の存在自体が相当な環境破壊ですけどね。
まあ何しろ、広場が美しい事は確かなのですね。そのイルミネーションを見たヒトのココロは、「何か」から救われるのでしょう。

真漂亮

完結・時間差日記

大連で印象的だったのは「車道のど真ん中(?)で立ち止まりながら、その道を横断しようとしているヒト」であった。

大連は一方通行の道が多い。そして、大通りは4~6車線くらいあった。

「ニホン」って国に生まれた私は、車道を渡る際「赤信号になる前にその車道を渡りきるべき」って交通ルールが浸透している気がする。ニホンの都会には、信号のサイクルが短かい横断歩道が存在するコトがある。そいつを渡りきれずに「中央分離帯付属の横断歩道中間点」に留まってしまった場合は、ソコハカトナキ不安を覚えたりする。「クルマが突っ込んできたらどうしよう...」って。

大連では、数十m道沿いに歩けば「横断歩道」があるにも関わらず、フツー?の車道をバリバリ横断するヒトだらけだった。私が見る限り、「ニホンなら車に轢かれて即死」というようなロケーションでも、大連の人々は果敢に車道を横断していた。
車道の端からスタートし、至近の車線に車が来ない時に横断。車線を区分するライン上は一応「安全地帯」らしい。

大連のドライバーは「急停車できる速度」で車を操っていた気がします。「割り込み優先」なのは上海と同じでした。

何しろ、他のクニに行くのは面白いのです。

何度か中国に行った私です。その中国における携帯電話や電気製品について、分かったコトを記します。
unicom.jpg mobile.jpg
上の画像は私のケータイ画面のキャプチャ画像である。私が使っているケータイは Vodafone702nk ってヤツであります。然るべきソフトをインストールすると、画面キャプチャができてしまうのですね。中国□通は英語名(?) ChinaUnicom であり、中国移□は英語名(?) ChinaMobile であります。ケータイでも文字化けするわけですね。
私のケータイは日本語仕様であり、中国特有の文字が化けてしまうわけです、日本語のパソコンと同じように。

ありがたい?と思うのは、このケータイを海外に持っていき、現地のローミング対象エリアに入ると、「海外ではこう使ってね」ってメールが届くのですね。「おお、私の移動を検知してたのかい」って思うのです。
で、結局ケータイが海外で使えると何が良いのか。それは「エロ系SPAMが海を越えて届き、海外にいる間はSPAMをケータイから削除できなくなる」ってコト!(笑) 2006年8月追記:5月と8月の上海ではメールの削除ができました。ただし ChinaMobile に接続している場合のみの様子でした。
9日間の中国滞在で、20通前後のエロSPAMが届きました。メールのヘッダ部分の数十文字は受信無料だから別に良いのだけれど。

海外での接続先を「自動選択」として放っておくと、中国に行った場合は接続先が「中国□通 ChinaUnicom」になってしまうコトが多かったです。そっちの方がローミング代金が高いのですね。可能ならば「中国移□ ChinaMobile」に手動設定すると良いのでしょう。

そして、下の画像は「コンセント」です。
socket.jpg
新しい建物やホテルなどはこのタイプであるコトが多いので、ニホンのケータイやデジカメを持っていく限りは、変換プラグは持って行かなくても大丈夫な場合が多いです。日本の電気製品のプラグは、上の穴にサクッとはまります。
中国は過去にいろんなクニに植民地支配されたため、コンセントも多種多様になっているらしいです。もちろん電圧は日本と異なりますから、それ相応のアダプターなどである必要があります。
日本のコンセントはアメリカに支配されたからアメリカ型なのだそうですよ。

参考文献:世界の電源事情(その2) なぜ中国のコンセントは多様なのか(いつものきりんとうさぎ)

Googleデスクトップは便利です。
上のサイトはそれ(Googleデスクトップ)で発掘しました。

ダメダメ土建国家

昨日は初訪問の土地?2箇所に行ってきた。

東京私学教育研究所あたりが関わっている「理数系教科研究会」の「見学研修会」として、「独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所」に行ったのである。そこの見学に行くまでは気付かなかったが、その研究所は東京国立博物館の裏手にひっそりと佇んでいた。あたかも付属品のように。その研究所筐体は強烈にカネがかかってそうな、内部には木材と岩石が目立つ建物であった。研修としてそこに勤めている方の講話を聞き、その建物内の見学をした。そこで仕事をしているヒト達は、滅茶苦茶高価そうな建物内部で仕事をしていた。それにも関わらず、彼らの会話を聞くうち、その半数以上の方々からは「シゴトするにも予算が...」というフレーズが発せられたのだった。
とても不思議な場所であった。別に土建国家ニッポンでは不思議ではないのかも知れませんけれどもねぇ。

研修が終わり、その周囲を雨の中散歩した。すると、聞いたことある菓子店の名前が目に入ってきた。パティシエ イナムラ ショウゾウである。折角だから、ケーキを買って帰宅することにした。ビビッたのは、店の前にガードマン?が立っていたことだ。そんなケーキ屋初めて見ました。正確に言えば「ドアボーイ」ですかねぇ。ケーキは美味しかったです。ま、安くはないですけれどね。私の配偶者の両親には、とても好評の様子でした。彼らが食べたのは「特製苺ロール」でした。私が食べたのは確か「ショコラフロマージュ」ってヤツ。初めての食感&味覚でありました。私は、年を取るほどに美味しいケーキに巡り会ってきた気がします。昔よりもケーキの質は全体に上がっていると思うのです。値段が高い店で購入していることもありますけれど。

で、帰宅してパソコンを眺めていたら、「Winny(とそこに生息するウイルス)でNTTの顧客情報が流出」とか聞きました。それよりも、防衛庁の方が拙いと思うのだが、不思議に報道は少ない。2ちゃんねるなんかによると、「自衛官にパソコンが公費で支給されるなんて夢の夢」みたいな書き込みもありました。

以下は「防衛庁・自衛隊:海上自衛隊の秘密情報流出事案への対応について」から引用

海上自衛隊の秘密情報流出事案への対応について 平成18年2月24日  標記事案を受けて、防衛庁として次のとおり対策を行うこととしましたのでお知らせします。

(中略)

2. 私有パソコンによる業務用データ取扱いへの対策
 私有パソコンからのデータ流出を防止するため、緊急の対策として次の事項を実施。

 職務上使用する私有パソコンについて、ファイル共有(交換)ソフトの削除を確認
 私有パソコンに保存されている業務用データについて、秘密の情報・必要のないデータを削除
 現在、許可を得れば職場において私有パソコンによる秘密の情報の取扱いが認められているところ、これを全面禁止


前述の「バカ高い建物内で"カネがない"ってヒイヒイ言ってる独立行政法人職員」や、「怪文書を発表するような自衛組織」を雇っているクニに生まれたコト、とても有り難く思えます。

日本では結構"Made in China"の品物を目にすることが多い。特に衣料品とか生活に関わる小物などでは。私が知る限り、配偶者が何度も中国に運んだのはソープディスペンサーであろうか。

東急ハンズで同じ製品を何度も買った。何でも彼女のお母さんが気に入ったそうで。そいつは見事に"Made in China"であった。中国で生産しているのだが、その「おしゃれっぽいソープディスペンサー」を中国(上海)で見つけることは難しいらしい。
また、今回は「私の配偶者の従姉の配偶者」にスーツを持っていった。買ったのは日本だが、こいつも"Made in China"。10年くらい前は中国製のスーツは少なかった気がするのだが、最近は縫製がしっかりしている中国製のスーツが日本に入ってきている。最近AOKIで買った私のスーツも中国製であった。

今回も、私は中国で衣料品を買った。ってか、配偶者に買わされた。いや、買ってもらった。
彼女が言うには「(私の)ファッションセンスが無い」のだそうで、日本でも衣類を買う場合は選択の主導権を配偶者に握られつつある。で、太平洋百貨にてシャツやパンツを買ったのですね。

生地も縫製も良いです。さすがに現地の大手デパートで扱っている商品だけのことはあります。綿のパンツと半袖シャツで数百元(日本円で1万円弱)でした。これはメチャメチャ高価な品であります。大体、直径約4cmの焼き小籠包4個
yaki.jpg
が1.8元(30円弱)、ソラマメ(サヤ込み)は2kgで4元(60円弱)という世界ですから。同じパンツとシャツを日本で買うと、一体いくらになるのでしょうか?よく判りません。

で、一番ビックリしたのは「裾上げを人力(手縫い)で行う」というトコロでした。「15分ほど待て」と宣った(私が聞いたわけではなく、配偶者が聞いた)店員のお姉さん、私たち以降の接客?もこなしつつ、手縫いで裾上げをしていました。「中国の底力(ソコヂカラ)を見た」と、勝手に思った私でしたとさ。

上海住宅事情

7月30日から上海に滞在している。
上海は劇的に都会である。面積もそれなりに広いが、上海市には楽に1000万を超えるヒトが住んでいるらしい。しかも、1000万というのは「公称」であり、実際はもっと多いとのコト。私は今回改めて知ったのだが、上海市は省というものに属さない存在らしい。
で、やたらとヒトが多い上海市内なので、マンションも超高層化している。
私が滞在しているのは、マンションの25階なのである。

このマンションは35階まで部屋があるのだが、階数が飛び飛びになっている。4,13,14,24,34階が無いのである。なので、「35階建て」といっても実質30階建てであり、「25階」といっても実際には21階なのだ。しかしまあ、上海の建物は高層であることには間違いなく、日本に比較するとやたらと細っこいビルだらけなのである。地震がないから許されるらしい。まあ、それは上海などの話であって、雲南などの方は地震が多発しているから事情は違うハズです。
また、上海のすべての高層建築物の階数が飛び飛びになっているワケでは無いです。というか、このマンションが変わっているみたいです。

中国電飾事情

8月6・7日と、杭州へ連れて行ってもらった。
杭州は上海の南西およそ200km に位置している、浙江省に存在する古都である。西湖を中心に発展した町であり、今でも市街地の真横にそれは横たわっていた。
大都会の横に周囲20km弱の湖があり、その向こうには山が見える。湖の周囲は観光用の車が走り回り、湖には遊覧船がプカプカと浮いている。なんだか不思議な町であった。
高層ビルが乱立する大都会と、結構大きな湖が同居している観光地なんて、日本では思いつかない。
水道水も上海より臭わない、滞在していて快適な場所であった。

杭州では、霊隠寺に参詣し、超有名レストラン(であるらしい)楼外楼で東坡肉(トンポーロー)やジュンサイのスープなどを頂き、遊覧船で西湖上の名所を巡ったりした。

中国に来る度、日本と違うなぁと感じることの一つに「古刹等の電飾」がある。
日本ではここ数年、古寺や神社等がライトアップされていることが多くなった気がする。私が小さい頃、お寺のライトアップなどは少なかったように記憶しているのだが、それは時代の流れというヤツなのだろう。
私が中国に初めて来たのは3年前のことであるので、それ以前の中国の電飾については知らない。私が見る限り、中国では結構な割合で、お寺などの屋根の稜線や縁に「電球入りチューブ」がネロネロと這っている。
日本のライトアップは、あくまで「外から照らしますよ~」というタイプである。投光器やらスポットライトやらを建物(歴史的建造物)の周囲に配置し、周囲の風景から建造物を浮かび上がらせるように仕向けられている。
中国のライトアップはもっと豪快である。オレンジ色の電球や赤色の電球が入っているチューブ(クリスマスの時に使われる電飾をもっと丈夫にし、点滅機構を排除したもの)を、屋根の上とか、屋根の縁とか、建物の輪郭線などに合わせて配置してあるのだ。遠くからその塔なり伽藍なりの建築物の形が確認できて有り難いような気もするが、建物に申し訳ないような気もする。
もし、チューブの電灯が点滅していたら、日本の歌舞伎町か何かみたいになってしまうだろう。今後もそれは避けていただきたいと勝手に思っている。

今気づいたが、上海の外灘の建物群は、既に昔からスポットライト風の電灯でライトアップされている。ただ、外灘の建物の電飾では、電飾が建物の外壁に据え付けられているので、「中国日本折衷式」あるいは「東京タワー方式」とも言えるのだろう。
今後は、中国の観光地などでも、徐々に日本方式のライトアップが増えていくのかも知れない気もするし、現在の方式のままで21世紀を突き進むような気もする。どちらの見栄えが良いとも悪いとも言えないが、何しろ今後の「中国ライトアップ事情」の展開を見守ろうと思う私なのだった。

ここ1年以上にわたり、ずっと欲しいと思っていたものがあった。
今回の中国旅行でそれを手に入れることができた。

parker.jpg
画像の上側にあるペンがそれだ。
パーカーの(ちょっと高級な)ローラーボールである。「ソネット」という製品だ。夢見る三十路の詩人には「うってつけ」のペンであろう。

画像下側のペンは、配偶者から約2年半前に「タイ土産」として貰ったものである。このペンと同じようなものは、空港の免税店などへ行くと5本セットで安く売っている。パーカーの「ベクター」という製品だ。「ソネット」も「ベクター」もローラーボールだから、書き味はほとんど変わらないのである。

仕事をする上で、ペンはそれなりに使う機会がある。今までは大してペンにはこだわっていなかった。職場にあるボールペンや、貰い物のボールペンを適当に使っていたのだ。しかし、この「タイ土産」の使い心地が気に入り、日本で買っても1000円強のペンに、わざわざ数百円のリフィルを購入して使用していた。しかし、この「ベクター」には難点があった。ペンの本体とかキャップが構造的に弱い様子で、ひびが入ってしまうのだ。そのため、ここ1年以上にわたり、頑丈そうなローラーボールを探していたのだ。

日本国内のそれなりの文房具店で店員さんに尋ねたこともあった。しかし、ローラーボールは置いていないことが多かった。また、デパートなどに行けばパーカーのローラーボールを置いてある場合もあったが、1万円を超えるようなペンは買う気にはなれなかった。ネット上の通販ではいろいろパーカーのローラーボールが売られているが、わざわざそこまでして文房具を買う必要も感じなかった。

で、今回このマットブラックのソネットローラーボールを手に入れられたのだ。

上海浦東空港の免税店では、そいつが52アメリカドルで売られていた。パッと見で気に入ったし、並んでいるペンの中では一番安い部類だった。ちょっと悩んだ末に購入した。浦東空港の免税店は人民元とアメリカドルに加え、日本円も使えるのだそうだ。配偶者からそのことを聞いていた私は、日本円でこのペンを購入することにした。チナミに「ドル→円換算」は私のお気に入りのケータイ 702NK のコンバータ機能を用いた。このケータイには様々な通貨のレートを予め入れておけば、好きなように通貨の換算ができるのだ。店員さんに購入の意志を伝える前に、念のため計算してみた。以下の画像のように、7月末時点の(ほぼ正式)レートならば、52ドルは6千円弱だった。
usd_jpy.jpg
店員さんに「日本円で...」ってニホンゴで伝えたら、「6100円」と教えてくれた。

日本に帰ってきてから、このローラーボールの定価が9千円であることや、通販で買っても送料込みだと7千円くらいになることを知り、だいぶ得をした気分になった。
なお、おまけ知識として記すと、パーカーのローラーボールは M(Medium) が太字で、F(Fine) が細字である。どちらも結構太いですけど。

狭い日本...

世の中には嬉しいことや、腹立たしいことや、悲しいことや、面白いことがある。
ニュースなんかを見てると、色々腹立たしいことが多かったりするが、テレビの前で一人憤ってみても、特に何かが解決するわけでもない、当然のことだが。
というコトで、めちゃくちゃ身辺の話題を。


私は、ここのところ常々疑問に感じていることがある。
それは「電車の乗り降り、特に降りるトキ、やたらとヒトの背中を押してくる輩がいる」という現実だ。

少なくとも1週間に1回以上は遭遇しているだろう。今朝も新宿で山手線を降りる際、20代後半と思しき、全然麗しくないネーちゃんが、私の背中を押してきた。
彼女は、何だか急いでいるらしく、早足気味にホームを歩き、地下へ向かう階段の方へ移動していった。彼女のルックスが麗しくないことが分かったのは、ホームで私を追い抜いていったからだ。

混んでいる電車に乗り込むときに、押し合いへし合いになるのは仕方ない。通勤ラッシュは日本の名物である。しかし、私が電車に乗る時刻は、押し合いへし合いにはならない時刻だし、電車を降りる際にも普通に順序よく出口へ向かえばコトは済む状態だ。

オバサンに背中を押されることがある。オッサンもあるなぁ。しかし、私と同じかそれ以下の年齢の男性に背中を押されるコトは無かったような気がする。なお、傍若無人な私立・国立小学校のガキどもは別扱いとする。

空いている電車を降りるとき、何でヒトの背中を押す人がいるのだろう。押したところで、何かが解決するわけでもないのに。更にタチが悪いのは、ヒトを押しつつホームに降り立ったのに、歩くのがトロいオバハンだ。速く歩かないんだったら、ヒトを押してまでして急いで下車する必要ないじゃん。


まあ、もしかすると、トキには身内に出産間近の妊婦や危篤の老人を持つ人に遭遇しているのかも知れない。また、今朝の彼女は愛育病院への特別な出勤の途中だったのかも知れない。が、だいたいの場合、背中を押してくるネーちゃん・オバハン・オッサンは単なる出勤だったり、外出だったりするようである。
ヒトの背中を押したくなるほど急いでいるのだったら、もっと早く家を出てゆっくり交通機関を利用すれば良いのにと思う。そう伝えてあげたくなる。
しかし、ホーム上でそんな説教を展開するヒトは尋常ではないし、私は尋常なヒトであろうとしている。
で、結局のところ、このわけの分からない愚痴めいた文章を記して溜飲を下げたような気持ちになるのだった。

杉並社会保険事務所を探訪

ここ1年間くらい気になっていたコトがあった。
それは、「国民年金と私学共済の統合」である。
ただし、以下に記すのは「ニホンコクに於ける各種年金システムの統合」みたいな「大がかり」な話ではなく、個人的な話である。


私が20代前半を過ごしていたのは実家である。学生時代、国民年金は親が払ってくれていた。大学を卒業したら、自分で国民年金を払っていた。大学卒業後の2年間は私立学校で非常勤講師をしていたから、国民年金を継続して支払ってた。
その後は専任教諭として私立学校に拾われた為、私学共済に加入することになったのだ。

約2年前、引っ越しに際して実家を訪れた際に「そういえば、アナタの年金手帳があるわよ。渡しておくわ」ってコトで年金手帳を貰った。

約1年前、手元にあった重要文書を整理していたら、「基礎年金番号」を記した封書を再発見した。
その封書が送られてきたのは数年前のようだった。封書が届いた当時、私はアパートを借りて住んでいた。封書には「年金手帳を持ってたら、期限までに連絡してね♪」ってメッセージが入っていた。結果的に、そのメッセージをバッチリ無視していたことに気付いた私だった。

約1か月前、本年度から供用され始めたらしい 社会保険庁:年金個人情報提供サービス を利用し、私の年金納付状況の確認を試みた。

ユーザIDとパスワードの発行には約2週間必要だそうであり、実際2週間後にそいつらが郵送されてきた。
上記システムを利用した問い合わせの際には、基本的に「基礎年金番号」が必要になる。しかし、私は間違えて「国民年金番号」で申請してしまったのだった。オンラインでユーザIDの発行申請した数分後、そのことに気付いた。仕方ないのでそのまま2週間待った。ばっちり「アンタは"not found"よ」ってメッセージが帰ってきたのだった。そして、改めて申請し、約2週間待機。

無事に交付されたユーザIDとパスワードを用いて、納付記録を確認することができた。私学共済の納付記録はバッチリだったが、「国民年金の納付記録」が無かった。予想通りであった。


で、本日、杉並社会保険事務所へ行ってきた。
ものの5分で納付記録の統合は完了した様子である。窓口のニイサンは真面目だった。まあ、相当にドヤされてきた成果なのでしょう。
これで無事、20歳から15年間以上にわたり年金を納付したことになった(ハズ)。
以前にも日記で記したように、私自身が年金を貰うことにはあまり期待していない。しかし、今までに納めた金が「未納」扱いされてしまうのは滅茶苦茶に無駄だ。それが回避されて良かった。

日本を離れます

「成田空港」は北ウイングよりお送りしております。
100円で10分使えるパソコンから。

IMEが違うと使いづらいのでありました。
msnにログインしてみたら、アカウントを保存させている方がいらっしゃいました。残り使用時間は、2分25秒です。

言い忘れてましたが、北京、そして天津へ向かいます。天津と北京は100km程度しか、離れていないそうです。また、天津甘栗は「出荷する港」が天津だっただけで、別に栗の産地では無いそうです。まめ知識終わります。

では、ごきげんよう。

天津日記

天津古文化街にあった喫茶店で、烏龍茶とプーアル茶を飲みました。
私が初めて飲んだ、中国の作法に従った中国茶でした。

配偶者の父親曰く、「きちんと淹れると、お茶の味が違う」とのコトでした。
味が違うのかどうかは、同じ葉っぱで淹れ比べていないので分かりませんが、お茶がおいしかったのは確かです。「サントリーの烏龍茶」よりも香りがよく、甘かったです。熊本ラーメン「桂花」のプーアル茶よりもおいしかったです。
どちらも比較対象としては適切ではないのかもしれませんけど。

で、夕ご飯は「狗不理」という有名(だそう)なお店で、いろいろ食べてきました。また食べ過ぎて体調不良にならないように、気をつけたいと思います。


ま、中国も日本と同じく「クリスマス」なワケですが、面白いと思ったのが「照明がほとんどついていない飲食店」の存在です。
私は最初気づかなかったのですが、配偶者が「人がいるよ!」って示した方向を見てみました。外から見る限り真っ暗なレストランとか、焼肉店とかのガラスの内側で、ヒトらしきものが「ごそごそ」動いていました。
あそこまで真っ暗な店内は、かなり危険なんじゃないかと思いました。
そんな真っ暗な中から見える主な夜景は、「派手な電飾のサウナのみ!」みたいな店もありそうで、「そこまでして見る夜景かしら?」なんて、余計な心配をしてしまった私でした。

702NKについて2題

数日前に発覚した。私のケータイ 702NK は、やはりマイク周辺が壊れていたらしい。
ケータイから、家の電話にかけてみた。ケータイからの音声は届かなかったものの、プッシュ音はきちんと届くことが分かったから。そして、2分程度待っていると、ケータイのマイクが生き返ってきたのだった。なんとも不思議なものである。
ケータイ電話は、立派なデジタル機器?なのだから、「生きるか、死ぬか」であってほしい。なんとなくだけど。
ま、これで 705NK に買い換える踏ん切りがついた。めでたく昨日、702NK を使い始めて1年6ヶ月経過したはずだから、機種変更(買い増し)の価格が安くなるはずだ。そして予想通り、705NK は未だ発売されていない。予定では12月中に発売だったらしいが。

で、これは今日の話。ケータイが中国の回線に繋がらなくなったのだ。
昼過ぎから、何度「ネットワーク」の設定をいじっても、telecomにもmobileにも繋がらなくなった。
「どうも、これはケータイがまずいのじゃなく、ネットワークそのものに問題がありそうだなぁ...」って気づいたのは、夜になってから。
結局、台湾での地震が影響しているらしいことを、ニュースサイトで知りました。
大して、ケータイは使っていないのですけれど、迷子になったら使うはずなのです。しばらく、迷子になるのはお預けのようです。

ノーム、濃霧、Gnome

27,28日の天津は快晴だった。
その前の2日間は、ほとんど朝から晩まで霧の世界だった。
やはり、霧よりは晴れているほうが気分が良いのである。

霧は本当に洒落になってなかった。日本の基準ならば、1km先が見通せなければ「霧」だったように記憶している。って、いい加減にしておく理由もないから、ちゃんと調べてみた。気象庁のページより引用。
http://www.kishou.go.jp/know/yougo_hp/kori.html

霧 微小な浮遊水滴により視程が1km未満の状態。
濃霧 視程が陸上でおよそ100m、海上で500m以下の霧。

25日の夜、天津市内をタクシーで移動した。一番霧の濃い場所では、前を行く車のテールランプもぼやけていた。「視程」は20mも無かったのではないかと思われる。完全なる「濃霧」であろう。


ところで、私が「濃霧」という言葉を知ったのは、耳からだった。ラジオの天気予報から。
私が小学生になったかならないかの頃だと思われる。住んでいたのは茨城県千代田村。両親の実家は東京都豊島区と茨城県古河市だった。週末は両親の実家に車で移動することも多かった。
日曜夜、自宅へ戻る車の中では、よくラジオが流れていた。そして、天気予報がよく流れる。
「茨城県南部には、"ノームチュウイホウ"が出ています」というフレーズをよく聞いた記憶がある。湖や川も多く、霧が出やすい地形だったのだろう。

小学生の私は「チュウイホウ」は何となく理解できるのだが、どうしても「ノーム」の意味が分からなかった。また、何となく「ノーム」という響きが北欧を想起させるのであった。「ノーム」が「濃い霧」であることを知ったのは、確か数年後のことである。


って、またまたネットで改めて調べてみた。
私は、百科事典で「ノーム」を調べたらしいことに、約30年ぶりに気づいた。
多分、私は「濃霧」ではなく、「Gnome」の項を見てしまったのだろう。

Gnomeの説明文と、「ノームチュウイホウ」の「ノーム」が一致しないらしいことに、幼い私は納得がいかなかったのだろう。
頭の中には、妖精を生み出した北欧のイメージだけが、澱として残ったのだろう。
そして今日、この文章として結晶したわけだ。
つまらない結晶ですけど。

softbank(旧vodafone)の中国でのローミングについて、記していなかったコトを記します。

私の使っているケータイでは、どのようなメールでも最初の数十文字は無料で受信できるのは確からしいです、日本国内でも、海外でも。
で、前回(2006年8月)の中国旅行の際には、不要なメールが届いた場合、ケータイを操作してvodafoneのサーバーから削除しました。で、その月の請求書が来てビビリました。不要メール1回の削除につき、通常のSMSの送信と同じく、100円が「国際ローミング(SMS)使用料」として請求されていた様子でした。1700円ほど請求されていたから。手元に請求書が無いので分かりませんが、電話代は電話代として、それとは別に請求されていた気がするのですね。

http://mb.softbank.jp/mb/support/3G/global_service/attention.html にもそれらしき記述がありました。

海外でのサーバーメール操作(リスト更新・メール削除など)には、国際ローミングS!メール通信料がかかります。頻繁に行いますと高額となる場合がありますのでご注意ください。

今回の中国旅行でも、ケータイへSPAMがバンバン届いていたので、1通だけサーバーメールを削除してみました。
請求はどうなることでしょうか?


この約2週間、外食が何度かありました。1回の食事では、1人当たりで数元(約100円)~300元超(約5000円)までの幅がありました。料理店が高級になればなるほど、味付けが無難になっていくコト、改めて知りました。
北京の食堂で4元(約60円)の麺は、かなり美味しかったです。配偶者が注文してくれ、私はただ食べるだけでしたけど。
死んでしまったサメには申し訳無いが、私はフカヒレにあまり有難みを感じないのですねぇ。高級店でのフカヒレでだいぶ高価だったらしいのですけれど。とりあえず念のため(?)完食しました。

今回の中国旅行でも、無事に食べ続け、見事に太ってしまいました。予想通りですが。


ってコトで、明日の朝の飛行機で日本へ戻りまーす。

パリから帰った

修学旅行の引率から帰ってきた。旅行先は、フランスはパリである。日本より時刻が7時間遅れている地域である。4泊6日(機中泊1回)の日程であった。帰国したのは昨日。帰宅できたのは夕方であった。

疲れもあったのだろう、昨晩は22時過ぎには寝てしまった。そして、今朝は6時過ぎに一度目覚めた。飛行機の中では、水を控えめにしていたこともあるのだろう。のどが渇いていたので、水を大量に飲んだ。また寝た。

起きたらビックリした。
13時を過ぎていたのだ。せいぜい10時過ぎだと思っていたから。
まあ、パリ時刻に換算すれば、ちょうど「空が明るくなってくる頃」である。日本時間の13時過ぎというのも、「起きるに値する時刻」であることは確かなのだろう。

以後、随時『パリ旅行記』を記すことになると思います。

焼酎のペリエ割り

今回、パリへ旅行へ行って知ったことがある。それは「ガス入りの水は、それなりにウマい」というコトだ。

以前まで、日本でガス入りの水を飲むトキは、しみじみ味わいながら飲んでいた。日本の無色透明な炭酸水といえば「三ツ矢サイダー」である。しかし、「ペリエ」などはサイダーほど甘くない。若干苦みがあるし、「変な味で妙に高価」って認識だけがあった。

今回のパリ旅行で、ガス入りの水ってのは「ビールのように、ノドで味わうものだ」ってコト、とある酔っぱらいの先生に教わった。
アルコールに慣れている私である。ビールが好きだ。料理を食べる際、「単なる水」を飲みながらってのはあんまり面白くない。そして、ガス入りの水はそれなりに「ビールの替わり」になるコトを知ったのだ。ごくごく飲むと、ビールのような気分になる。
それからはガス入りの水にハマッた。


昨日、たまたま配偶者が「ビールの替わりに」ってコトでペリエを買ってきた。ビールは痛風に良くないというのが、日本でも中国でも定説らしい。

焼酎のペリエ割りはウマかった。
あれれ?

パリの朝市でポケモン

パリの修学旅行引率では、「朝市」の見学?に行くのである。
剥きウサギや剥きネコが陳列されているのにもビビるが、今回一番ビックリしたのがロマネスコである。(画像ググリンク)

本当は、野菜を売っているオジサンに「この野菜は何ですか?」って尋ねようかとも思ったのだが、別に買うワケじゃないから、質問は控えておいた。そして、当然のコト?ながら、私はフランス語は得意ではない。
デジカメでその「奇天烈な風貌」を撮影しようかと思ったが、「誰かが既にネット上に置いてるだろう」って考えたのだった。そして、それは当たっていた。

修学旅行の事前学習の為に、教室には数冊の「パリ関係書籍」が置いてある。本日、何となくその1冊を事後学習(?)としてパラパラ眺めていた。そのうちに「そうだ、あの"フラクタルな野菜"のコトが書いてあるかも」って気付いた。やはり、その野菜の画像があった。そして「ロマネスコ」ってお名前も知ることができたのである。

チナミに、その本は文化出版局が出している『パリの朝市ガイド』って本である。
出版社のページ
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文化出版局ってのは、私の「職場」の遠い親戚(?)である。

その「ロマネスコ」は人目を惹くらしく、生徒もちょっと注目していたようだ。ある生徒が「ポケモンみたい」って言っていた。私はポケモンに全然詳しくないので分からないが、あの「ねじフラクタル」なモンスター?が、ポケモンの世界には居るのでしょうね。

修学旅行の引率で訪れたパリのホテルでは、洗面台に以下のようなメッセージが置いてあった。
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裏面はフランス語でした。読めません。
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フランス語は読めないが、英語は読めるのは、8年間の英語学習の成果なのだろう。

2年前に同じホテルを利用した際には、このような表示はなかった。
ホテルと私の意志に従い、使ったタオルだけバスタブに放り込むようにした。

Le Système International d'Unités

私が小学生の時、算数の授業で教わったことに「10デシリットルは1リットル」ってヤツがある。
数式?で記すなら" 10dL = 1L "ってコトになる。

で、小学校以来「デシリットル」なんて、使ったこと無いですね、ほとんど。厳密に言えば、医学関係では 100mL を基準とすることもあるようだ。血糖値とか、尿酸値とか。

そして、時代は下る。
飲酒するようになってから気づいた。ワインやウイスキーに" cl "あるいは" cL "って文字列があることを。さらに何本だか、何十本だかの空き瓶を見るうちに、「そいつら」が「センチリットル」を表していることに気づいた。何故かちょっと感動した。

パリでそのことを思い出した。また、新しいデジカメの「接写機能」を試したかったので、以下の画像を撮影してみた。
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思えば、日本産のワインとかで「内容量" 750mL "」とか書いてあっても、厳密には 749mL 以下のこともあろうし、逆に 751mL 以上のこともあろう。そういった「数字の厳密さ(有効数字)」という意味においては、" 750mL "と記すよりも" 75cl "と記す方が、誠意があると言える気がする。それは「745mL 以上 かつ 755mL 未満」を意味するのだろうから。

飛行機雲で井桁

3年前にパリに行ったときは、かなり寒かった。
今回のパリはかなり暖かかった。そして、晴れの日が続いた。

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上記画像、よく見て頂けば分かるのだが、飛行機雲が3本ほど映っている。2年前は基本的に曇り空ばかり見ていたので、飛行機雲を見る機会はなかった。気が付けば、空に5,6本の飛行機雲が見えることもあった。ってか、「たくさん飛行機飛んでるなぁ」って思って、しょっちゅう空を眺めていたのだ。

パリは「飛行機の往来における要衝」なのだろうなぁって思った。まあ、シャルル・ド・ゴールやオルリーという空港がパリの街に近いと云うコトもあるのだろう。東京だと高いビルが多すぎるので、広い空を眺めることが少ない。空港も東京の中心からは遠い。

過ぎたるは...

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「味の素」の素に肉薄

一昨日、以下の会に参加してきました。
「第8回 関東地区中高教諭とケミカルエンジニア交流のための見学講演会・研究協議会」
エラく長い名称。
会場は「味の素株式会社川崎事業所」でした。

日本大学生物資源科学部の今井正直氏から「エマルション(Emulsion:ググリンク)」についての講義を聴いたり、味の素株式会社の研究員である三原康博氏から「核酸系うまみ調味料」の開発方法についての講義を聴いたりしました。
しかし、パワーポイントを用いた講演の内容がマニアックであり、資料も頂けなかったので、かなり私にとっては難解でした。
質疑応答の際に、他の(高校の?)先生方からの質問があり、それは参考になりました。
「サトウキビから味の素」とは言うものの、味の素(グルタミン酸ナトリウム)の材料には窒素を含むものも必要であるらしい、等々...

味の素の歴史についての展示で知ったのですが、昭和の初期には「味の素の材料は蛇だ」という流言があったらしいです。私は小さい頃、「石油からできている」って聞いたこともありました。
蛇からできてるのも嘘だし、石油説も嘘らしいです。
「蛇説」が流れた当時、「味の素」は小麦から作っていたそうです。現在は皆さんご存じの通り、サトウキビが主成分であり、そこに菌を作用させて作るそうで。

以下の写真は、京浜急行鈴木町駅のホームから撮影した、川崎事業所敷地内にある「菌保管庫」の後ろ姿です。
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「工場内は撮影禁止」って言われてたので、駅のホームから撮影してみました。なんでも、この建物(右側手前の茶色いヤツ)の内部は、マイナス80℃になっているとか。「味の素」の「キモ」とも言える部分に、こんなに近づけるとは思いませんでした。もちろん、保管庫には入れてくれませんでしたけどね。


「川崎区鈴木町」という場所には、味の素の工場しかないそうです。
この周辺にまつわる簡単な年表を。

1909(明治42)年 鈴木三郎助(すずきさぶろうすけ)により、うま味調味料「味の素」一般発売開始
1912(明治45)年 (資)鈴木製薬所(1907年設立)を(資)鈴木商店と社名変更
1914(大正3)年 鈴木商店川崎工場完成、操業開始
1929(昭和4)年 京浜急行電鉄「味の素前」駅開業
1937(昭和12)年 「八幡塚」と「久根崎」の一部が「鈴木町」となる
1944(昭和19)年 京浜急行電鉄「味の素前」が「鈴木町」に改称
1946(昭和21)年 味の素株式会社と社名変更

第2次世界大戦中の駅名変更は、「防諜上の理由」だそうです。それが今に至るようで。非常に入り組んだ歴史ですね。

夏の思い出

この夏は、パスポートを使う機会がなかった。
あんまり外出もせず、「食っては寝、時々ゲーム」の日々を送った。そのため、私は過去最高の質量を保有するに至った。簡単に言うと「過去最悪に太った」と云うコトだ。78kgぐらいまで増加してしまった。チナミに身長は177cm前後である。

今日の昼食はコンビニのおにぎり2個である。
ここ2日ほどはビールも飲んでいない。しかし、昨日は夕食後にアイスを食ってしまった。
本気で痩せる気になれば10kgくらい落とせるのかも知れない。しかし、無理なダイエットは体に悪い。少なくとも数日のうちには、70kg台前半までは戻したいものだ。

そんな堕落した日々だったが、数少ない「若干の遠出」に「埼玉方面へのドライブ」があった。
首都高から関越を経由し、寄居・長瀞(ながとろ)・秩父周辺を日帰りで巡ってきたのだ。

長瀞にあった「埼玉県立自然の博物館」に寄ってみた。
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長瀞は日本に於ける「地質学発祥の地」であると言われる。
今から18年前となる1989年の秋、私はこの場所を訪れている。東京学芸大学教育学部の「小学校・中学校・高校理科」に属する百数十名の一人としてだ。「岩石学・地質学・古生物学」などの授業の一環であった。

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こんな石碑は記憶に無かった。裏側を見て納得した。平成5年に設置されたものらしい。揮毫はその当時の埼玉県知事によるもののようだった。

その石碑の前で思い出した。博物館の目の前の旅館「養浩亭:ようこうてい」こそ、長瀞の実習で宿泊した宿であることに。

そして更に思い出した。馬鹿な(元)学生達のハナシを。


大学1年生というのは、その大半が未成年である。
しかし、私が18歳だった当時、「大学生ならば酒を飲んでも良いだろう」というのが、ヨノナカの一般的な認識だった気がする。今も同じなのだろうか?
当然のコトながら、その実習の宿でも学生の宴会は行われるのだった。引率?の教官も、見ぬ振りをしていてくれたのだろう。

私が所属したのは「初等教育教員養成課程」というトコロだった。俗に「A類理科」と呼ばれており、18組と19組の2つに分かれていた。その実習には中学校の教員を目指す「B類」、高等学校の教員を目指す「D類」も参加していた(類の名称は当時のもの)。

実習が終わってから噂で知った。B・D類の輩は「とんでもないこと」をやったらしいと。

彼らB・D類も飲酒をしていたそうだ。そして、飲み過ぎたヤツが居たらしい。「寝ゲロ」か「覚醒ゲロ」か判らないが、布団に「ブツ」を放出したそうだ。
それだけでもかなり馬鹿なのだが、コトもあろうに彼らは「ゲロ付き布団」を畳み、押入にしまい込んでしまったというのだ。
宿からの連絡があり、その悪行が発覚したと聞いた。

その「悪行」のため、長年利用してきた「養浩亭」が使用できなくなり、長瀞実習は無くなったと記憶している。ま、長期休業中の3日間の実習が無くなったから、後輩の学生は感謝しているのかも知れませんけどね。

しかし、小学生じゃあるまいし「ゲロの布団を隠す」ってねぇ... orz

今朝、JR 新宿駅12番線ホームで中央線快速を待っていた。通勤途上のことだ。時刻は8時少し前だった。
「試験休み」中なので、出勤時刻は若干遅くても良いという「お達し」があってのことだ。

目の前の13・14番線ホームに何となく目をやった。というか、放っておいてもド真ん前のホームは目に入ってくる。そのホームに「しゃがんでいるヒト」が居た。

ダークスーツを着ており、右手には薄っぺらい黒いカバンを持っているようだった。そして、右手とカバンは地面に触れていた。彼は「うんこ座り」をしているのだが、右手でも体重を支えている様子だった。そして、彼は口から液体をデロデロ出していた。俗に言うゲロだろう。

あまりにもその姿は自然だった。というか、無理に吐いている気配はなかった。「勝手に口から出てくるんです」という雰囲気を放っていた。
確かに朝の新宿駅では、線路に向かって吐くのは自殺行為だろう。電車が入線してきて、頭を強打するに違いない。また、朝の駅の男子トイレは、個室が劇的に混んでいるハズだ。確認するまでもない。
結局、一番楽にゲロが吐けるのは、彼が選んだ「ホーム上、両側のレールから最も離れた場所」なのかも知れない。
そのうち、駅員さんが彼に近づいてきた。排泄がほぼ終了したのだろう。彼と駅員さんの間にアイコンタクトがあったように見えた。駅員さんは、おがくずらしきものをパラパラとふりかけた。

そのうち、快速青梅行きが入線してきた。


今、更にしみじみ思い返してみたのだが、あれは朝方に飲んだジュースの類だったのだろう。固形物っぽいのは見あたらなかったから。そして、それすらも吐かずにはいられない体調って、相当な二日酔いだと思う。そんな中出勤する、ダークスーツのお兄さん。お疲れ様です。
そして、朝からおがくずを播いていた駅員さん、お疲れ様です。

そして、更にしみじみ思った。あの「おがくず」って、どこから調達するのだろう。

私は地下に関心がある。

これは新宿の地下通路などを記した地図である。
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その拡大図
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"1→"と"2→"というのは、以下の画像を撮影した位置である。

画像1
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画像2
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これらの地下道が突然出現したのは数年前と記憶している。営団(現東京メトロ)西新宿駅の開業と同時だったのか、別だったのかは定かではない。写真だと大げさになっているかも知れないが、「画像1」の地下道はかなり広大である。周囲に西新宿のビル群が林立している状態から、これだけ無駄に広い空間を掘り上げる(?)のは、至難の業だろう。最初からこの空間があったと考える方が自然だ。上に存在している道路と同時に作成されたのだろう。
不思議なのは「画像2」の方である。最初に提示した地図では、相当に広い地下道があるような表記になっているが、実際は謎のオブジェと壁で通路が埋められているのだ。あの長方形の壁の内側には何があるのだろうか? 通るたび疑問に思う私である。


関連する過去の日記
アングラ好み

リトル上海最終日

先日の日記に書いた「リトル上海」、チェックしてきました。

こんな感じでした。朝の7時40分前後の画像です。出勤前に見てきました。
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予想通り、かなり空いていますね、自転車レーン。
車道は特に渋滞している風はありませんでした。ま、もともと路駐の車があったりして、片側1車線に近い状態の道路ですからね。
多分、車線を減少させても影響の少ない道路が選ばれたのでしょうね。歩道自体も閑散としています。
もともと、阿佐ヶ谷駅へは、放射状に近い状態で道路が集まってきています。

だから、中杉通りの歩道を歩くヒトも少ないのじゃないかな? 普段の朝の状態はよく知りませんけれども。

これは駅ホームから撮影した画像。
nakasugi3.jpg

chaos と cosmos

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3月28日に作業(?)しました。混沌の極みです。
10年くらい前、職場に走るパイプに適当に巻き付けた LAN ケーブルを、未だに流用しているのでした。

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4月1日の撮影です。
武蔵野大学構内のサクラであります。ここのサクラはかなり美しいと思うのです。

本日、山手線内で「雪山獅子旗」を手にした家族を見た。若い夫婦で、ベビーカーに赤ちゃんが乗っていた。お母さんが旗を手にしていたが、ベビーカーにも旗が付いていた。
帰宅後に知ったが、新宿あたりではデモ行進も行われたらしい。その家族はそいつに参加した帰りだったのかもしれない。

それだけならば、特に「目イルカ」を立てるまでのことではない。私の感覚では。


で、そのベビーカーには「DFSギャラリア・沖縄」のバッグもかかっていた。おそらく、その家族は沖縄にある免税店に行ったのだろう。念のため記すと、私は「沖縄に免税店がある」と知ったのは、先ほど"DFS"で検索してみたからだ。Google では初っぱなに、その「沖縄の免税店」のページが来ていた。

その家族は、「ぱっと見」は日本人だった。もしかすると、沖縄在住なのかもしれない。また、可能性は低いが、中国籍だったりするのかもしれない。しかし、中国籍(漢民族?)のヒトがそんな会合に出たらば、抹殺されちゃうんじゃないかしら。良く知らない、知りたくないけれど。何しろ、嬉々としてそんな「沖縄の免税店」のバッグを使っているってコトは、東京在住なのだろうと解釈したよ、私は。


沖縄だって、相当に中国や日本に虐げられてきた過去がある。未だに日本全体を代表(?)して、アメリカ軍に占領されていたりする。そんな沖縄ってトコロに観光に行ったことを、ことさらに誇示する「お気楽家族」が、「フリーチベット!」と叫んだところで、説得力は非常に乏しい。  ...んじゃないすかねぇ?

5号館のつぶやき : POWERS OF TEN で、こんな動画があることを知りました。

静止画のダイジェスト版?を、月刊雑誌の Newton で見た気がします。動画は初めて見ました。
対数の威力を思い知る気がします。

芝生の上のカップルがどんどん小さくなっていき、シカゴの町並み、ミシガン湖、五大湖...と、ズームアウトしていく様は、"Google Earth"を彷彿させます。
動画"POWERS OF TEN"の天体軌道の表現を見たとき、"Mitaka"を思い出しました。多分、"Mitaka" の作者は、"POWERS OF TEN"を見たコトあるんだと思います。

これは、動画からのキャプチャ。
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これは、"Mitaka"から。
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"POWERS OF TEN"ってのは、超名作だと思います。IBM が関わっていたのですね。
茨城県東海村にある原子力科学館には、そのパクリが置いてあります。
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数日前、職場の数学科「酒任」のセンセに「国立天文台の"ミタカ"って、知ってる?」って言われました。「はい、知ってます。ありがとうございます」と伝えました。
わざわざ、このソフトの存在を教えてくれるなんて、ありがたいと思いました。そして、そのソフトの存在を知っていたので、ちょっと面目を保ったような気がした私でした。

吉池 GJ! (御徒町賛歌)

御徒町は侮れない町である。


アメ横。
中田商店で買った ALPHA の N-3B は、社会人となった最初の冬に買ったはずだ。もう15年にもなるが、ずっと使っている。アメ横にはニキニキニキニキ「二木の菓子」もある。

2年くらい前まで知らなかったのだが、東(高速道路・4号線の向こう)へ行くと多慶屋がある。強烈な紫色のビル群だ。いろんな物を安く売っているが、特に文房具が安いと思う。私のお気に入りであるパーカーのローラーボールのリフィルも安い。値段忘れたけど。

で、吉池というデパート? が駅前にある。何度か入った事がある。何を買ったか忘れたけど。
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このビル、くすんではいるが、よく見ると結構おしゃれな外壁になっているのだ。タイルにて模様が描かれている。
で、よくよく見ると、その上にネットが張ってあるのだ。外壁落下防止なのだろう。この画像じゃ、ちょっと分からないかも知れません。スミマセン。


「構造物の外壁が落下して怪我人が出た」というニュースを聞くことがある。
最近では、「永田町の不審者」の親類だか何だかがやっている土建業者が、九州で活躍してくれたようだ。幸いにして、ヒトには当たらなかったらしい。さっさと踏襲補修してくれ。ミゾウユウの惨事が起こる前に。


で、「私達は、外壁が壊れても大丈夫なように、その上にネットをかけています」ってな主張をするカイシャ、あまり聞かない。
吉池はきちんと外壁にネットが被せてある。非常に好感を抱いた。とても地味ではあるが、それなりに金はかかるコトと思われる。

チャラチャラした新興繁華街や、祖先のコネで仕事を持ってくる土建業者とは、一線を画している気がする。
それだけ。


御徒町万歳。

中国上海市内は、かなりの割合で有線テレビが導入されているそうです。
テレビ塔は、場合によっては肉眼で見える(別の日記で記すつもり)が、そいつは上海市内ではあまり使われていないというコトのようで。

以下にいくつか画面を羅列しますが、モニタ(ふつうのテレビ)の上にある、黒い箱がチューナーユニットです。そこからコンポジット出力(普通の黄・赤・白のヤツ)でビデオ接続されています。

トップ画面
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ニュースを選択してみた。
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国際新聞を見てみよう。
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記事一覧をダウンロード中...
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国際ニュース見出しの一部
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一つ、選んでみた。
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ネットから遮断された生活を送っていましたが、このように、部分的には日本のニュースは入ってきました。バリバリに「中国の検閲済み」のネタでしょうけど。
新幹線が止まったことや、いろんな品種のイチゴが作られたらしいって記事も見ました。

で、私の中国語の読解力では、日本マクドナルドのニュースが、どうしても理解できませんでした。
"マクドナルド"と"クォーターパウンダー"と"労働"って単語は読めるのですが、どうつながっているのか、全然わからなかった。何で、労働問題とクォーターパウンダーが繋がるのか。
帰国してからわかりました。

マクドナルドもくだらないコトしてますね。
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でも、「タウンミーティングのやらせ」よりは、数段マシな気もする。
どちらも、全然褒められた行為ではありませんが。

余談だが、クォーターパウンダーって、私が小学生の頃にもあった。間違いない。江古田のマックで食べた記憶がある。
"クォーター"ってコトバが"4分の1"だというコトは知っていたが、その当時、質量の単位は知らず、「何で、大きいのに4分の1なのだろう?」って、なんとなく不思議に思っていた。
数年後に理解した。

およそ30年後、季節はずれのサクラと共に、クォーターパウンダー、再出現。

『おくりびと』は良い。

『おくりびと』が「第81回アカデミー賞最優秀外国語映画賞候補」となったと聞いた。

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『おくりびと』は同僚のセンセイや、他の学校の情報科の先生もブログに書いていた。それらの記事はネタバレを含むので、リンクしません。

私は映画館にはまず行かない。最近映画館で見たのは『ハウルの動く城』で、その前は1985年公開の『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』だったりする。その前は1981年公開『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』のハズ。
昨年末、上海へ向かう際、機内で見られる映画に『おくりびと』があった。上記先生方が褒めていたことを思い出し、何となく見始めた。で、見始めたのは良かったのだが、見ている途中(映画の残り10数分?)で、飛行機は着陸態勢に入った。上映打ち切り。大体、見始めたのが遅すぎたのだ。
後ろ髪を引かれながら、浦東空港に降り立ったのだった。その時点での最大の心配事となったのは「1月に日本に帰るトキ、『おくりびと』は放映リストにあるか?」だった。

日本へ帰る際、映画・音楽等の紹介パンフレットではリスト下位に移動してはいたものの、『おくりびと』は見ることができた。わざわざレンタルする手間が省けた。うれしかった。
で、飛行が落ちついたところで、続きを見た。泣いた。
最後の10分を見られて良かった。というか、最後の10分を見ないと、あの映画を見たことにはならないだろう。

絶対、端から見たら変人だ。齢四十を間近に迎えたオッサンがボロボロ泣いてる。飛行機が飛び立ってから間もないので、映画などを見たとしても、全然佳境に入っていない時間帯だ。
キャビンアテンダント、旧称スッチーも大変な職業だ。私だったら、そんな乗客には絶対関わりたくない。


飛行機は、かなり空いていたので、離陸後すぐに窓際へ移動してあった。
私は地図マニアだから、日本の上ならば、海岸線を見れば大体どの辺を飛んでいるのか分かる。飛行機は、可能な限り窓際に座りたいクチである。配偶者などには「子供のようだ」と言われる。言われても窓際に座る。

今回、久々に日本上空で分からない地形があった。その後、ハウステンボスの特徴的な地形が見えてきた。機内の地図で確認したところ、分からなかったのは五島列島と判明した。不覚である。
大阪湾の関空や、特徴的なカタチの知多半島なども、雲の隙間から見えた。富士山はてっぺんだけを雲の上に出していた。上空からの場合も、晴れている方が、富士の山容は見応えがある。

変わりゆく上海(2勝1分け)

今回の上海訪問では、3つほど変化を感じた。

1.車のクラクションが減った (勝)
2.物価が上がった (勝敗不明)
3.水道水がマシになった (勝)


クラクションが減った気がするのは、気のせいではないらしい。配偶者は上海出身なのだが、彼女が昨年末に久しぶりに上海に戻った際、同じことを感じたそうである。
昨年は北京オリンピックが行われた。来年は上海万博がある。

徐々にマナーが向上しているという面はあるのだろう。路線バスに殺到する人々の姿は変わりありませんでしたが。


物価は確実に上がっている。上海市内のチェーン店「豊裕」の生煎(焼き小籠包)4コは、1.8元から3元になっていた。なお、簡体字だと「丰裕」となります。「丰(漢数字の三に縦棒)」は、文字化けではありません。音から来る表記なんでしょうけど、読めねぇッス。
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水道水は、墨汁臭が減少していました。以前はシャワーを浴びても、その臭いが少し気になったのですが、今回はそんなことは無かったです。でも、初めて上海に行く方ならば、やはり気になるレベルかも。

日本は水道水がガブガブ飲めて、スバラシイと思いますね。そういったインフラを整備する方々の努力に感謝します。
私が行ったことある海外は数カ所と少ないが、どこも水道水など飲めなかった。「海外では水道水を飲むな」というのは、よく言われるコトですが、日本に戻ると改めて有り難さを感じます。

昨日の話の続きのようなもの。

DC-8 は旅客機の型番? でもあるが、NOKIA の製品の型番でもある。(画像ググリンク)

年末年始、上海に行ったときに、そいつを購入した。
258元だったハズ。

私は、上海の電脳街である徐家汇(Xujiahui って今、ソラでピンインを書けた。自分、すげー。発音は下手だけど)で、コイツを求めてさまよい歩いた。
徐家汇は配偶者の自宅から、歩いていける距離である。私にとってはありがたいコトだ。電気街巡りは面白い。

基本的に、電気街の客引きのヒトは、私を現地民と思うようで、思いっきり中国語で勧誘してくる。そして、私は曖昧な顔をしながら、あるいは、無視しながら、ウインドーショッピングをするのである。以前に、朱家角に行ったときも、近くにいたオバサンに、バスの時間を尋ねられた(らしい)。
私の顔は、普通に上海の街に馴染むようである。
関係ないが、フランス・パリに行ったときは、やたらと韓国語で話しかけられたっけ。
まずは「あんにょんはせよー」、続いて「こにちわー」って。何しろ「ベタな日本人」には見えないってコトか。とりあえず、優越感を持つことにする。

合計10箇所くらい、大型・小型店舗を巡り、最終的に充電器"DC-8"を発見したのは、丸、というよりも球体のビルの中だった。(徐家汇の画像ググリンク)
正規の NOKIA のショップが入っていて、そこに吊されていた。

ブツは置いてあるが、価格が表示されていなかった。私はお店のヒトとの会話が不自由なので、筆談でもしようかと思ったが、それも舐められそう&ボラれそうなので、止めておいた。

結局、後日配偶者に同行してもらい、価格を知ったのだった。
300元(≒4500円)くらいまでだったら、買っても良いかと思っていたのだ。で、価格は前述の通り。
ケータイ本体も一緒に買えば、充電器は100元で売ってくれるって、店の兄さんは言っていたそうだ。(もろに伝聞)

そんなわけで、この充電器がもったいないから、私はしばらく NOKIA から離れる予定は無いのだった。


昨日更に調べてみたら、私がケータイに求める機能、「メール」「電話」「Bluetooth によるパソコンの Outlook との同期」などは、"X0*HT"というケータイで実現されるっぽい。

今度、機種変更するとしたら、そいつになるのであろう。

秋葉原と錦糸町、必ず連休中に行こうと思っていた。

秋葉原では、「不要なパソコンソフト」を売り払うつもりだった。錦糸町ではオリナスに行き、ちょっと前に貰った「福引きの券5枚」を消費してくるつもりだった。


連休中に実家を訪れた際に、「絵馬が付属した破魔矢」とか「お守り」とか「お札」など、「湯島天神関連グッズ」が再発見された。なお、絵馬は巳年だった。私が大学受験した年である。

職場の個人ロッカーには、湯島天神のお札がちゃんと置いてある。
大学時代の旅行サークル帰路の長崎でゲットした「亀山社中の木製お守り」とか、勤務先の修学旅行引率で買った「太宰府天満宮のお札」とかと一緒に。
私は割と信心深いのかも知れない。「無神論者」を自称している割には。


実家の「湯島天神グッズ」は、20年近く置きっぱなしになっていたようだ。妹の分(だと思う)も一緒に湯島天神にお返しするコトにした。

公式サイトのFAQには、以下のような記述がある。

Q 古くなった御神札(おふだ)・お守りはどうしたら良いのでしょうか?
A 御神札・お守りはお受けになってから一年ほどしましたら新しいお御神札・お守りに受け替えていただくのが一番よろしいかと思います。古い守札は境内に「古札納所」がございますのでお納め下さい。

「古札納所」とやらがあるコトを、そのサイトで知った。


で、実家に行った翌日、矢やお守りをお返しすべく、さらっとお参りしてきた。現在の住居からは、自転車で楽に行ける距離である。秋葉原や錦糸町を含めて。


上野公園をサンダル&ママチャリですり抜けた。「私は地元民だよーん」って主張しているようで、ちょっと誇らしいような気がした。単なる自意識過剰である。

秋葉原の歩道は混んでいたが、ソフマップの買い取りセンターは空いていた。

福引きでは、微妙な「福」を引いた。最下等である6等賞の「ポケットティッシュ」を5個ゲット。
電車やバスを使わなくて良かった。アシが出る。


大学時代に所属したサークルは「伸歩会」という名称で、年に3回ある長期休業中の「徒歩旅行」が最大の行事だった。
「そのサークルに入ったから歩くコトに興味を覚えた」のか、あるいは「歩くのが好きだったからサークルに入った」のか、定かではない。ま、何しろ歩いたり、チャリンコで移動するのは嫌いではないのである。


見知らぬ土地を歩くのは面白い。
もちろん、見知らぬ土地自体を訪れるコト自体が面白い。だから、初めての場所に、無理に徒歩でアプローチする必要なんて無いのである。若さって素敵。
もちろん、「車窓見学」ばかりの旅行は味気ないケド。

自転車や徒歩の利点は、「普段、自動車や電車で通り過ぎてしまうような場所を、比較的ゆっくりと移動し、その周辺についての情報を得られる」って点にあるような気がしている、ここ数年。


で、気になっていた「東京スカイツリーの根元」も行ってみた。
住み処から買い物のために錦糸町へ車で向かう際、その横を高速通過していたからだ。
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地味に人出があった。

8年前に私が危惧した「地上波デジタル化の成否」は、今も流動的である気がする。
しかし、スカイツリーの現場では、鉄骨を組み上げる努力が続いている。
「構造」を設計した職人、「業務遂行方法」を設計した職人、「鉄骨そのもの」を組み上げる職人。

私も私なりに、職人として精進したい。

道の駅「尾久橋」

遠景
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寄ってみた
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私のココロの琴線にバント&ラン(意味不明)。
訪問4回目にして、やっと撮影しました。


似たような日記
過ぎたるは...

鶏について 2009

マクドナルドの「黒辛チキン」は、中国のファストフードの味がする。日本ではほとんど使われない(と思う)スパイスが入っている様子。
そのスパイスの名称が分からない。上海の屋台の串焼き肉に、良く使われているスパイスだ。

鳥とスパイスは似ている。
鳥は「姿」「声」「名前」の3つを一致させるのが難しい。
スパイスも「姿」「香り」「名前」がなかなか一致しない。

コストコの「ロティサリーチキン」はうまい。
塩分が足りないと思われる場合は、クレイジーソルトをかけると良いだろう。

さっき検索し、「黒辛チキン」は販売が終了したことを知った。残念である。二度しか口にできなかった。パン付きと、現物と。
「ロティサリーチキン」はいつも販売されている。ただし、コストコというテーマパーク自体にあまり行かない。


「チキン」で忘れられないのが、ノースウエスト航空だ。
機内食が配給される際、"beef? or chicken?"って尋ねられた。私は「チキン」って言った。伝わらなかった。
その後、どんなやりとりをしたか忘れたが、何しろ数秒後、スッチーのネーちゃんが"Oh! chicken!"と。

"chicken"は「チキン」じゃなくて「チェキェン」であることを知ったッス orz

大閘蟹(上海蟹)のふるさと

昨年12月29日、配偶者のいとこカップルや義父と、阳澄湖(陽澄湖)ってトコロに行きました。上等な大閘蟹(上海蟹)の産地として、有名なところだそうです。車で2時間弱でした。
12月の終わりというと、上海蟹は旬を過ぎています。脚の中の身などは、やせ細っていても不思議はない季節です。
しかし、産地で頂いたカニは確かにおいしかったです。脚の方まで身がきちんと詰まっていて、カニの味がしました。もちろん、本体のミソは非常に美味でした。

その料理店のオーナーは、カニの養殖もなさっているとの事でした。自家用車はポルシェだそうです。凄い。
食事後、養殖池に連れて行って貰いました。下の地図にある林场(林場)って場所、"场"って字の右上あたりのハズです。

幼い頃住んでいた茨城の霞ヶ浦に、何となく似ているような気がしました。
日本でGoogleマップを見るまで分かりませんでしたが、阳澄湖は全面的に生け簀になっているんですね。湖畔からは分かりませんでした。

なお、茹でた「川エビ」様の海老も美味でした。上海では定番の料理です。
私は昔からの(居酒屋に於ける)習慣で、川エビは殻ごとバリバリ食べてしまう事が多いです。しかし、基本的に中国のヒトは、頭や殻を食べませんね。バリバリとエビを丸ごと食べていると、「幼子のように、殻を出せない不器用で可哀想なヒト」と思われてしまうらしいです。エビって、殻もうまいと思うのですけどねぇ...

崇明島へ

初めて「ようつべ」にアップロードしました。アシ原はとても寒うございました。

中国本土から、長江の下のトンネルをくぐり、長江を渡る橋(下図)から崇明島へ行きました。12月30日のことです。
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名前は「島」ですが、ぶっちゃけ「中洲」ですね。ただし、すさまじく巨大。
中国ってクニとしては、台湾島、海南島に次ぐ、第3番目の島らしいです。本日の段階では、地下トンネルや橋は地図に反映されていないようです。下の地図の中心が、湿地見学場所の入り口です。

大きな地図で見る

お昼ご飯を食べた場所付近の画像。
現地の醸造酒「老白酒」とやらを頂きました。香りの強い蒸留酒の「白酒」とは違うものです。酸味と苦みがあり、ワインとマッコリの中間みたいな味がしました。甘くない甘酒とも言えるかも知れません。私は好きな味でした。ま、酒ならほとんど何でもうまいと思ってしまうワケですが。
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同じ場所。しっかりと「ケータイ(?)の電波塔」が屹立。
多分、下水は整備されていません。あの周辺は、標高低すぎます。そもそも中洲ですから。
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動画を撮影した湿地の入り口。いかにも中国っぽい看板(石碑)がありました。この画像にある「あずまや(?)」にて、動画を撮影しました。
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「あずまや」の手前にて。アシだらけ。多分、日本の関東平野も元はこんな感じだったのだろうと思います。
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まいうー上海

2月13日から21日まで、またもや上海に行ってきたのです、実は。

上海の食べ物で、以前から美味しいと思っていたのは、青菜です。今回、いくつか写真を撮ってきました。
青梗菜(チンゲンサイ)は、日本のものよりずっと小さいです。大きくなる前に収穫するようです。大きさが分かるような画像を撮影したつもりです。
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後ろにあるのは 550mL の PET ボトル。
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家庭での調理(油炒め)後。
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奥から時計回りに、チンゲンサイ・クローバーみたいなマメ科の菜っ葉・セロリです。
日本みたいに生長したセロリも売っていますが、小さいものの方が歯ごたえが適度で香りもあって美味しいです。クローバー風の菜っ葉は、日本では見たことがありません。歯ごたえがあって美味しい。

今回は撮影していませんが、「妙に赤い色素(アントシアン?)が出る葉」や「ホウレンソウ(これも小さい)」や「春菊(やはり小さい)」も私は好きです。
セリ、ニラ、ニンニクの芽及び葉、ナズナ、ダイコンに似た葉...などなど、上海は青菜の種類が豊富であり、それぞれ香りが高くて美味です。


この冬に初めて食べ、とてもハマッたのは「トウガラシと山椒の実で煮たカエル」です。かなり辛いです、でも美味い。
一応画像を撮影しました。色温度が変だったり、食べた後で汚かったりしますが、まあ載せます。
撮影したのは「和記小菜」ってチェーン店でして、上海では人気になりつつある店だそうです。私は龍華店と徐匯店に行ったことになります。いずれも配偶者の親戚との会食でした。

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赤や緑の果実はトウガラシ、丸い緑の粒が山椒。少し食べた後なので、あんまりカエルが見えない。

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骨は皿などに吐き出します。汚いように見えますが、中国の作法です。
カエルの肩甲骨や大腿骨、脊椎が見て取れます。カエルの身は鶏と魚の中間みたいで、軟らかく美味です。ま、両生類は鳥類と魚類の狭間にある生物群ですから、当たり前といえば当たり前かも知れません。


上海に行ったのは、一度「春節の花火」を見たかったからです。数年間機会を伺っていました。今年を逃すと、またしばらくは機会も無さそうなので、職場に迷惑をかけつつ、行ってきました。
凄まじい花火その他については、また別に記事を作成する予定です。

春節の上海(凄まじき花火)

この動画を撮影したのは2010年2月19日の0時過ぎです。
旧暦の元旦は2月14日でした。その日の方が全体的には花火の量が多かったです。この動画でも、街中にしては十二分の量の花火が打ち上がっていますが...

配偶者曰く「19日(旧暦の1月5日)は『商売人』が景気づけ(?)に花火を打ち上げる日」とのこと。その日は、滞在した親戚のマンション真下から、花火が飛んできました。あまりにも近くで花火が炸裂するのが面白かった(危なかった)です。

私が中国に着いた13日(旧暦の大晦日)の夜遅く、遠く浦東の方ではヘリコプターが何十機も飛び立っていました。小さな蜂がシゴトに行くみたいで、見ていて可愛かったです。その晩は花火がうるさくて、熟睡できませんでしたとさ。

盧浦大橋行ってきた

念願だった「盧浦大橋登頂」レポートです。先月の19日に行ってきました。
馬鹿だから、高いところに登りたくなるんですね、どうしても。


地下鉄に乗って移動します。チケットは suica 風なヤツで、何度も使用されます。多分地球に優しい。
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なお私は、この登頂の帰り、電車の中で思いっきりチケットを無くしました。親戚宅の最寄り駅の駅員さんは「しゃーねーなー」って改札を通してくれました。

地下鉄路線図。
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この図には工事中の路線も描かれています。例えば2号線(東西に走る黄緑色)は2つの空港を繋ぐ予定だそうですが、まだ完成していません。
私が最初に上海に行った時は、1~4号線くらいしか無く、環状線である4号線すら完成していませんでした。

現時点では、鲁班路駅が最寄り。
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ホームにはドアが付いています。壁面の広告はケンタッキー(肯徳基)ですね。向こうの KFC は、使われている肉がジューシーでうまいです。日本と中国を比べると、マクドナルドや KFC は中国の方が美味だと思います。

交差点。
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看板に東西南北が書かれています。日本も導入すれば良いのに。鲁班路を南下すると、目指す橋です。

橋に登るためのビルが見えてきた。
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橋脚。
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やたらに細い。これは、最初に中国に行った時にビビりました。
大体、20階を超えるような高層マンションも、鉄筋コンクリートなんですよね。基本的に鉄骨を使わないようです。ま、地震がないから大丈夫なのでしょうね、多分。

登頂料は、大人38元。子供や18歳以下の学生は28元。日本で買ったガイドブックの記述(68元)と異なりました。
そして、定番の海宝くんが出迎え。欢迎光临!(歓迎光臨)
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ここを登る。
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4方向からの歩道があるのですが、現在は1箇所しか解放されていません。
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登った。
登り口のある上海市中心方向(北)を望む。
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郊外方向(南)を望む。と言っても、十分に高層な住居が林立しています。
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南側下流方向(南東)を望む。万博会場です。赤い建物は中国館。
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北側下流方向(北東)を望む。浦東のビル群も見えます。
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上流方向(西)を望む。
「地平線様の景観」を作る建物はマンションで、そのほとんどは20階超です。
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一応動画。

私が最初にパスポートを使用したのは、およそ7年前です。
30歳を過ぎるまで、ニホンってクニを出たことは無かった。もっと若いうちに、さっさと外国へ出ておくべきだったようにも思えます。

最初に行ったクニは中国でした。ニホンに帰国し、成田空港のターミナル内部を歩いていました。すると突如として「もやし炒め」の匂いを感じたのです。最後に醤油を垂らしたヤツの匂いが。
あれ以降、何度も成田空港は使用していますが、野菜炒めが饗されていそうな店舗なんて、見あたらないのですよね。そもそもイミグレーションの手前ですから、店舗自体が存在していません。しかしなにしろ、初めて日本に戻ってきた(?)とき、醤油の香りを感じたのです。

フランス・パリには2度ほど行ったコトあります。修学旅行の引率で。
初回のトキ、ターミナル内部に入った瞬間に、香水の香りを感じました。「おフランス」に来たのだと思いました。2回目のトキは、それほど香水の香りは感じませんでしたね。

その2度目の修学旅行の出発当日、私は「ゴミ出し」をしました。そのときは一時的に一人暮らしをしていたため、しばらくは家の中が無人となるのでした。
家の鍵は、旅行の準備のため、財布の中に移動しておいたような気がします。なにしろ、通常使っているキーケース(香港で買ったカルティエのヤツ)からは出していたはずです。で、マンションのゴミ捨て場へ行って気づきました。鍵を持ってこなかったコトに。
マンションはオートロックです。ゴミ捨て場の扉も開かないし、自室へも戻れない。修学旅行当日の朝です。
かーなり焦りました。

運良く、別の階のご主人が、ゴミを持って現れました。私が屋外に佇んでいたのは、1分も無かったかも知れませんし、3分くらいは経過していたのかも知れません。何しろ、5分までは経っていなかったような気がします。
何気なく「おはようございます」と挨拶をし、その方が開けたゴミ捨て場へ入りました。混乱していたから記憶が定かではないのですが、そのご主人に鍵を閉めて貰ったはずです。「鍵を忘れたので」とか、「閉めてください」とか、言ったのか、言わなかったのか、記憶にありません。
何しろ、オートロックの自動ドアを開けたご主人に続き、私も自動ドアを抜けました。
外廊下に面した自宅玄関のドアは鍵をかけなかったので、無事に家の中に戻れました。そして、無事にニホンを旅立つことができたのでした。

それ以降、飛行機に乗る日の朝は、そのデキゴトを思い出すのでした。


おまけとして、春節の上海の画像を。

龙华寺(龍華寺) エチゼンクラゲが蔓延
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雨と中央線と私

先日、ソフトボール部の引率で昭島へ行ってきた。多摩川の河川敷だ。
昼過ぎから雲行きが怪しくなり、雷が鳴りだした。
雷が落ちている(私達から100m程しか離れていない高木にも落ちた)間は、雨はそれほど酷くなかった。

その後、立川方面はしばらく大雨になった。
バスに乗りたくなかった私は、雨の中30分ほどかけ、最寄りのJRの駅へ向かった。

傘は後から使用したものの、(下着の)パンツまでずぶ濡れだった。エナメルバッグの中まで浸水していた。
とりあえず、駅のトイレで着替えた。
半袖のシャツ(ポリエステル100%)は替えが無かった。そのまま着続けた。

中央線に乗った。弱冷房車を選んで。


しばらくすると、隣の座席に見知らぬ老女(七十絡みに見えた)が現れた。

私だけに向かって、開口一番「この車両はあまり涼しくないわねぇ」
私「そうですね。弱冷房車ですから(ドア上を指さしながら)」

知らないばあさんと喋るなんて、自分が太宰治と同化しつつあるように感じた。

その後、国分寺駅で
ばあさん「上りの電車は混んでいるわねぇ」
私「はぁ」

その後、新宿に近くなって(私は早朝からの出張で居眠りしていた)
ばあさん「あなたも降りるんじゃないの?」
私「いいえ」
ばあさん「あなたは学生さん?」
無言でクビを横に振る。
ばあさん「起こしちゃってごめんなさいね」
無言でうなずく。

あれほど初対面で「絡んで」くる素面のヒトには初めて遭遇した。
最後は嫌悪感だけしか残らなかった。


後で、私が感じた嫌悪感の原因に気付いた。
それは「弱冷房車の存在を知らないはずのない老女が、『強』冷房車を所望していて、それをネタ(?)に話しかけてきた」というコト。

私にしては珍しく「弱冷房車」に「意図的」に乗っていたことも、嫌悪感が増幅された理由に挙げられる。

东煎饼(東煎餅)まいうー

上海では、ほぼ毎朝「东煎饼(東煎餅)」を食した。1つ3元(今は円高なので、40円弱)と安価である。

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ピントが背景に合ってる...

材料は、こちらのサイトに画像がある。
AZUのサンへーブログ。 : 上海、今のわたしを創った街で...

作り方は以下の通り。
・油を敷かない鉄板でクレープ(小麦粉メインみたいだけど、詳細は不明)を焼く。
・タマゴを1つ割り、塗りつけて焼く。
・味噌風のソース(ピーナッツ入り)を塗る。
・みじん切りの「ザーサイ・ネギ・香菜(パクチー)」を播く。希望すれば豆板醤風の「辛味」も入れてくれるらしい。
・揚げた春巻きの皮を載せ、クレープ風に巻いて完成(最初の画像の状態)。

ほぼ毎朝、配偶者に買いに行かされた買いに行っていたため、煎餅を作っているオバちゃんと顔見知りになりました。向こうは「言葉が喋れない変な兄ちゃん」と思っていたことでしょう。店舗は配偶者曰く「不法営業だろう」とのことですので、詳細は記さないでおきます。トタン屋根のテントみたいな所で販売してました。


配偶者も「クレープ」としか呼ばず、正式名称?は知らないとのコトでした。
日本に帰ってから、オバちゃんのガスバーナーに書いてあった、簡体字の「東煎餅」にて検索したところ、上のブログ記事を発見しました。そこそこ上海では見られる食料である様子です。

ってか、動画もあった。私が通った店のオバちゃんとは、手順が若干違いますね。使っているツールは同じです。香菜などを巻くときは手づかみじゃなく、トングを使ってましたが。

ネット上の情報を見ると、元々は天津が発祥らしいです。天津は一回行ったけど、クレープは食べられなかったなぁ...


過去の関連する日記
ノーム、濃霧、Gnome (2006年12月)
変わりゆく上海(2勝1分け) (2009年1月)
まいうー上海 (2010年2月)

ガイジ(イタイジ)

私は十数年、職場でパソコン関連の業務をやっている。
「外字職人」としても、活躍してきた。あんまり活躍したいわけではないのだけど、要請があるからやってる。
本当は「大学入試センター」みたいに、外字(異体字)を無視する方向で仕事をしたいと思っている。

辺という字には、たくさんの異体字がある。
少なくとも、私の職場では10種類くらい作成されてきた。

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この4つの文字は、少しずつ違う。

で、部首「しんにょう」については、点が1個も2個も「手書き」では区別する必要がないと思っていた。昨年の「常用漢字」増で話題になった領域?だ。私は、上の右端と左端の文字は、どちらも手書きならば以下の字形で良いと思っていた。
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で、昨年末、初めて「私の名字は、点が2つなんです!」という生徒に出会った。
彼女が言うにはこういうコトらしい。
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黒板に彼女の名前を書く時は、常に緊張する。


で、徳という字にも異体字がある。德という字だ。「心」の上に横棒が入っている。
中国では、基本的に横棒が入っている文字を使うようだ。日本では、横棒は省略するのが普通だと思う。
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中国を訪れるたび、簡体字が少しずつ読めるようになっていく。厳密に言うと「日本の漢字(?)では何に該当するのかが把握」できていく。喋ることは相変わらずできないんですけどね...


過去の関連する日記
頭痛(2010年4月)

この夏、初めて長距離ドライブをしました。東京から大阪まで。

以前に私が車で行ったことがある場所で、最も遠かったのは福島県の喜多方です。老舗だという「源来軒」のラーメンを食べました。見た目はフツーなのですが、食べたことのない「まとまり方」のラーメンでした。おいしかった。
そんな私は長年杉並区に勤めていながら、未だに春木屋には行ったことないし、中野の青葉を訪れたことも無いのですけどね。
「二郎という食品」は、荻窪でしか食べたことがない。ま、要するにラーメン界では素人ということです。でも、素人なりに喜多方のラーメンには衝撃を受けたのです。

大阪で宿泊したのは、大阪ガーデンパレスというところでした。私学共済の系列だから、若干安く利用できるのです。
ちょうど、甲子園に出ていた横浜高校が宿泊してました。彼らはとても礼儀正しかった。ので、突如応援を開始しました。途中で負けちゃったのが残念でしたが、そもそも県で一番強いという段階で凄すぎると思いました。

ということで、表題の「たこ焼き」です。
朝食は俗に言う「バイキング」でした。そして、そこには常にたこ焼きがあったのです。「さすが大阪だなぁ」と思い、5日間毎朝食べていました。そして、太りました。8月には77kg前後まで行きました。やはり、食べ放題の朝食×5は危険です。
今は、75kgを割るあたりまで回復(?)しました。本来は71~72kgぐらいがちょうど良いと思っています。私の身長は公称(?)177cmです。標準体重は68kg台だったかな? 経験上、そのくらいまで減ると、かなり速く走れるようになりますね。
ここ数年は、73kgあたりを行き来しています。

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このグラフは私の体重でして、QUPiO なるサイトに記録しているのです。

このサイト、私が希望し、使用し始めたわけではありません。花王(の子会社)が私学共済に「うまいこと取り入った」結果のようです。それとも、私学共済が花王に取り入ったのかな? ま、どっちでもいいや。
QUPiO は私の検診結果を保有しています。拒否する術もなかった。だから、積極的に使うことにしました。

使っているのは体重記録表のみです。一日の歩数とかも記録できるようですが、私はそこまで「健康マニア」ではない。職場では可能な限りエレベーターは使用しないよう心がけるくらいです。たとえ、ホームルームが5階の教室であっても。

なお、正月に体重が増えたのは、上海に行っていたからです。
旅行すると、テキメンに食べているってワケですね。


大阪旅行では、奈良・鳴門・神戸・京都などへも行きました。
アグレッシブだけど、せんべい売りのおばちゃんには従順な鹿たち。やはりデカい大仏。暑かった法隆寺。
巨大な橋と走りやすい高速道路。川よりも速く流れる海と渦潮。妙に美味な中華(上海)料理店天竺園
初めて大文字焼きを肉眼で見ました。ジモティーと観光客の喧嘩に遭遇。人波に溺れました。


で、表題のもう1件です。思いっきり、覆面パトカーに捕まりました。速度オーバーで。
後から調べたら、その「第二阪奈」は「覆面パトカーの名産地」だったみたいです。ま、速度オーバーは確かなので、反省しています。さっさと罰金も払いました。
その際、パトカーに連行される私を見て、子供がとてもビビり、泣いてしまったのでした。「パパが捕まった」って。子供には怖い思いをさせ、可哀相でもありましたが、心配してくれたことについて嬉しくも思ったのでした。

法隆寺 in Summer
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堂島ロール(軽くておいしかった)
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チャリンコ3題

先週、私の勤務先を退職なさった先輩の住処を訪ねた。
多分、私の日記に一番出演なさっている方だ。カメラマニアでドルトニズム(色覚特性アリ)の元生物教員宅へ。

彼は60歳を超えてから、自転車に目覚められたとのこと。
以前から、山行が好きな方ではあった。愛妻家のナチュラリストである。

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彼の愛車

最寄り駅には中央本線の特急で行った。多分、初めて乗ったハズ。

彼の(愛する)ワイフが運転する車で、先輩夫妻は駅へ来ていた。
ワイフ氏は、私のことを「パソコンが得意な後輩の理科教諭」だと聞かされていたそうだ。それはだいたい正しい形容だろう。
んなわけ?で、初対面の際には「ルックスとイメージが一致しない」って思われたそうだ。

送迎のVitzはマニュアル車だった。お宅へ行く際、数分間のドライブ中に尋ねてみた。「マニュアル車なんて、渋いですね」って。ワイフ氏は、大昔に免許を取ったため、オートマ車に乗るのが不安なのだそうだ。なお、先輩は免許なし。

先輩宅では、図版・書籍・オーディオコレクションの説明を聞き、ワイフ氏による昼食をご馳走になった。

その後、先輩とともに200m程(標高差)、自転車で移動する。目的地は「笛吹川フルーツ公園」だった。相当にへばった。還暦越えの方に負けるわけにはいかないので、自転車を降りることはしなかった。

やはり、自転車での移動は楽しいと再認識した。


今週に入ってから、ママチャリの後ろタイヤのチューブ交換を行った。
こちらのサイトを参考にした。
自転車のタイヤ交換 ママチャリ後輪編

3週間ほど前に、パンクに気づいてはいたのである。
気合いが乗らないので、放置していた。

上記ページにも書いてあるけど、自転車屋に頼むのはコストパフォーマンスが悪いのである。
(私の税引き後時給(ボーナス等込)は、2,3年前の時点で1900円だった。一度そいつを計算してからというもの、私は1時間を1900円に換算してしまうのである。ちょっとした告白。)

自転車のチューブは西友阿佐ヶ谷店で確保してあった。900円弱だったかな? ネット上で買うよりは高かったみたいだけど。

結果的には、1時間程度でチューブ交換は完了した。
私は、工具を使って「それなり」の作業を行うと、自己満足を得られる。男性はだいたいそうなのかも知れないが、詳細(各論?)は分からない。
ま、友人のブログに影響されたってコトもあるだろう。


で、実家の倉庫に放置していたロードレーサーを回収してきた。

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放置してきた割に、不具合がなかったことに感心した。置き方が悪く、一時的(数年間?)にリアディレイラー(変速機)に無駄な力が加わったこともあったはずなのだが、特に変速機の異状は無かった。
ヘッドライトや反射板の電池は見事に液漏れしていたが、基板は生きていた。サイクルコンピュータに、改めてギア数等を設定しました。

この秋、ヒマなときにはチャリンコで風を楽しもうと思っているのです。


関連する過去の日記
カリフォルニアロード(2004年3月)
カリフォルニアロードです(2007年12月)

あの方にお会いする

私は6年ほど茨城県に住んでました。4歳から小4の夏まで。
常磐線沿線の神立(かんだつ)が最寄り駅でした。土浦の次の駅。

「牛久大仏」という名前は聞いたことあったのですが、一度も見たことないまま、6年間の茨城生活を終えました。
母親の実家は東京、父親の実家は同じ県内の古河(こが)なので、常磐線や国道6号線にて「牛久」は何度も通過しました。しかし、大仏を見たことはありませんでした。


私は鳥肌実が好きなのです。数年前に映画『けものがれ、俺らの猿と』をレンタルで見た際、「こいつが多分『牛久大仏』なのだろう」とは分かりました。でも、実物は見たことがないままでした。

そんなことも忘れていた先日、その大仏様に、突然お会いしました。
「あみプレミアム・アウトレット」へ向かう途中、作りかけの圏央道からでした。

アウトレットから撮影したお姿です。
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アジアの雷管「北朝鮮」が、巨大な爆弾「中国」に火を付け、黒孩子(ググリンク)までも撒き散らさないか、それが若干不安な年末。
大仏様にも少し祈ったりします。

ビバ、SAKE!

SAKE は「酒」ではなく「鮭」です。サーモン、三文魚。
鮭って、ウマいですよね。


今でも忘れられないフレーズに、「鮭が美味いのではなく『鮭を美味いと思う』ようにヒトが進化した」ってのがあります。
20年近く前、中学校での教育実習中に、お世話になった先生がおっしゃっていたコトバです。多分、それは真実なのでしょう。

教育実習中、食物連鎖とか生物種・個体数についてのレクチャーを受けていた際のハナシです。当方、地学科ですし、生物学はその当時嫌いだった(笑)。で、私を担当してくださった先生は生物が専門だったのです。苦労しました。当方も、そして多分、先方も。

だいたい、私と同じ研究室だったヤツが、教育実習をドタキャンしたんですよね。あり得なさすぎ。
で、私は作成しておくはずの「指導案」を文書化できず、実習に乗り込んだのでした。やっぱり、あり得ない ...orz

ま、授業展開の素案はあったのです。『写真集 水俣』での「強烈な写真」は、生徒に提示すべくコピーしてあったから。

実習初日の放課後、担当の先生が一通りキレた後、私は「一応、授業案は考えたけど、書面にできませんでした」って伝えました。「なんだ、考えてあったなら、ちゃんと『指導案』にしてこい」って言われました。しかし、20年前の私には、文章力も「指導案でっち上げ能力」も欠けていたのです。前日の深夜(もしかすると、徹夜でもしたかも?)まで文書化を試みたのですが、それは叶わなかったのですなぁ...。

その当時、私はパソコンを使っていませんでしたので、その後作成したはずの「指導案」も残っていないのですね。「胎児性の水俣病患者のねじくれた前腕の白黒写真(コピー)」を見せ、「食物連鎖」を気づかせるという「単元の導入」でした。
実習中、私を指導してくれた教官は「君は字が汚いから、ワープロを使いたまえ」っておっしゃいました。ごもっともm(_ _)m
そして、今の私があります。

予想以上に長くなった(笑)。


中国(中華人民共和国)の方は、刺身とワサビが好きなようです。特に「先取的(セレブ?)」な方は。
で、その刺身は基本的にサーモンです。

私は、未だに寿司の「サーモン」はちょっと馴染めません。ま、確かにおいしいのですけどね。
ニホンでも中国でも、「生サーモン」はチリとかノルウェーから入荷されるのでしょう。だから品質は安定しているし、食中毒もない。「ビバ、鮭!」でございます。
ま、私にしてみると、サーモンの刺身や寿司は「諄すぎる」んですよね。なんか「お子ちゃま向け」って思っちゃう。また、中国の「(日式)醤油」は、化学調味料が効き過ぎなんですよね、私が知る限り。
何しろ、中国では「正式な中国料理」を食べた方が良いです。

私が今回の「年末年始上海訪問」で食べた「三文魚の刺身」、そいつはおそらく「『日本から来るオガワ』のため、刺身をメニューに入れよう」っていう親戚のおじさんの心遣いだったはずです。ありがたく頂きました。
でも、やはり味が諄かった...。


で、最後の鮭話。

昔、鮭は「寄生虫がいるから、生食は不可」って魚でした。だから「ルイベ」という北海道名物があった。「凍らせた鮭の刺身」ですね。

ルイベを死ぬ(吐く)ほど食ったのは、北海道のサロマ湖畔です。竜宮荘って名前の民宿でした。
それも、今から20年ほど前の話です。
大学時代の徒歩旅行サークル「伸歩会」、秋休み中の合宿にて北海道を訪れました。7日ほどかけて、徒歩旅行をするのです。民宿を泊まり歩きます。その合宿では、弟子屈(てしかが・現「摩周」)駅から、サロマ湖畔まで歩いたのです。

泊まる民宿の予約は、話し合いか何かで分担を決めるのです。最終日の宿は、私が担当となっていました。
「竜宮荘」は名前で決めました。その当時、1泊2食で4000円台だったはずです。その旅行で最も安かったのは、1泊3食(昼のおにぎり付き)で、3500円の宿でした。屈斜路湖畔の宿。おばあちゃんが優しかったコトを覚えています。朝の4時台に出発したような記憶があります。

竜宮荘では、ルイベとホタテが、食いきれないほど出ました。そして、私たちは飲みきれない酒を近場の酒屋で買い込み、やはり飲み食いしきれず、吐いたりしました。ごめんなさい、ホタテと鮭と酒。

んなワケ?で、私は「1泊1万円超の宿」ってのは、未だにあまり受け付けません。何となく「高いなぁ」って思っちゃう。
そして、鮭というと、竜宮荘を思い出します。


この週末、その「徒歩旅行サークル」での友人の一人が(とうとう)結婚するそうで、式と披露宴に呼ばれています。
そんなこんなで、鮭がらみの日記を作成してみた次第です。中国で「ネットから遮断されていた」トキに、この駄文の構成を思いついたのでした。

5年ぶり3回目

この文章を作成しているのは、ノボシビルスクの北である。そして、空の上。

本日から、高校2年生の修学旅行(の引率)が始まった。
表題は「パリへの引率」についてである。やっとフライトは中間地点を超えた。12時間45分は長い。残り6時間を切った。
暇つぶしに作文をしている。この文章がサーバーに上がるのは、ホテルに着き「公式なサイト」をアップし終えてからであろう。

近年は世界中ネット接続が楽になった(ようだ。別に私は世界を股にかけているワケではないので、エラそうには言えない)。
勤務先では、この「パリ修学旅行」が開始された当初の2001年から、パリでの状況を公式ページにアップするということを続けている。ま、ブッチャケ言うと、私はそういう「オプション」の仕事ってのは「やらなくても良いじゃん?」って思っているのである。まずは、旅程の安全確保が第一であり、教員は睡眠時間を削ってまでも「公式サイトの充実」などを図らなくてもよいだろう、ってスタンスである。
というのも、もっとも初期は「モデム(!)」を持参し、公衆回線を使用してニフティ(か何か)の「アクセスポイント(死語)」に接続し、本当に睡眠時間を削ったヒトが居たからだ。私は画像が添付されたメールを受け取る側だったけどな。接続が悪く、画像を送るのに何十分単位の時間が必要だった(と、苦労した人は言っていた)。
受け取った画像は杉並区の学校でhtmlとして成形されたのち、同じ校内のWebサーバーに上げられていた。その時点で、やっとパリでの情報が保護者等に伝わったわけだ。

職場でパソコン関係をまとめていらっしゃる先輩とは、そのあたりのバランス感覚、つまり「旅行を引率した教員が、そこまで苦労すべきか否か」について議論をしたことがあったが、それは平行線のまま、結論を得られずに終わった。(議論はメールでのやり取りだった。そいつを一太郎で成形したものは、未だに職場のパソコン内に保存してある。)
結局、毎年毎年、この「旅先からの画像の送信」は行われている。教員が文書や画像を日本へ送ることもあれば、旅行の添乗員さんが日本の職場にメールで送ってくれた年もあったようだ。
私は約10年間、その過程を見て見ぬふりしてきた。

のであるが、今回はそいつに加担するコトとなってしまったのである。
CMS(こんてんつ・まねーじめんと・しすてむ)環境が発達したということもあり、前述のネット環境が充実したということもある。普通に言うと「旅先のホテルからネット接続し、ブログとしてアップすることが簡単になった」からである。

職場では、公式にtwitterのアカウントを持っており、情報を発信している。
ま、実は最初、私はtwitter導入に否定的だった。「別に、(内容が古くなりすぎてるヤツもある)公式サイトの情報を充実させれば良くね?」って。その意見は職員会議か何かでも披露したように記憶している。ま、結局のところ、アカウントは作られ、情報発信は始まった。ま、未だに「私企業(twitterやfacebook)のサーバーを用いて、公式な情報を発信する」ってコトについては、完全に納得しているわけじゃないのだけど。とはいえ、私の勤務先も「単なる私企業」ですけどね。
しかししかし、youtube上に「公式チャンネル」を作ろうと進言した(そして、作って動画をアップした)のも私ではあったりする。動画の配信は技術もサーバーの能力も必要だから、自前でやるよりは、無料でようつべのサーバーを借りたほうが早いと判断したためだ。

で、およそ1年前、巨大地震が東日本を襲った。
実は、相当にtwitterは役に立ったらしい。公式tweetを作成しているのは、職場の先輩お一人である。彼も「まんべくん」のように、殆ど「全権」を担っていると言えるのだろう。今のところ、問題が生じたことは無い。ま、その辺は私学の「ユルさ」と「先輩お一人」の素晴らしいバランス感覚によるものなのだろう。ま、良いことだ。


結局、何を記そうとしていたかというと、特に目的はないのだ。
機内で「フライト状況」を見ていると、ヘッドホンからは「日本のヒットソング」が流れてくる。もう、2周めかな?
きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」という歌を最初から最後まで聞いたのは初めてだ。

由紀さおりの『1969』ってアルバムが聞けたので、2周ほど、寝たり起きたりしながら聞いた。一緒に演奏しているっぽい「ピンク・マルティーニ」って何なんだろう? マティーニか、お酒飲みたいなぁ...

また、たむらぱんの新しいアルバムもあったので、やはり2周ほど聞いてみた。過去に「ぶたべすと」とかいうCDをTSUTAYAで借りたことがある。(でパソコンに取り込み、私的に聞いている、時々。)たむらぱんってヒトの歌を最初に聞いたのはラジオであった。『機内エンターテインメントのご案内』で初めて知ったが、youtubeからブレイクしたヒトだとか? そういえば、ラジオでそんなことを言っていたような...
あとで、チェックしてみよ。

現在、飛行機は西シベリア低地上空らしい。このパリ行きのフライトでは、一番北極に近いところを飛んでいるのかな?
Times to Paris は5時間を切った。
たむらぱんから次の曲に移った酉の刻、お八つの蒸しパンが届いた。
機体がさっきから揺れているので、とりあえず終わろ。

ロクシタン物語

先日、修学旅行の引率でパリに行ってきた。
配偶者からは「ロクシタン(L'OCCITANE)のオードトワレと練り香水を買ってこい」という指令を受けていた。

今検索するまで、"Eau de toilette"は「トイレ水」だと思っていた。ま、間違いではないけど、正確でもないみたい。
多分、10年以上前に「オードトワレって、直訳すると『トイレの水』なんだよ」って文書を読んだのだ。そいつ、私の脳に強烈に記銘されていた。

パリ入り以降ずっと、ロクシタンのショップを探した。一部生徒も同様だった様子。
スーパー「モノプリ(MONOPRIX:単一価格)」、いくつかの土産店、朝市、シャンゼリゼ通り(の一部)... どこにもロクシタンはなかった。


旅行最終日のルーブル美術館、やっとロクシタンのショップを発見。
美術館見学後、生徒(や教員)もロクシタンで買い物してた。

私もショップ内で品物を物色してたら、クラスの生徒が「まーさま、奥さんにお土産買った?」と聞かれ、「品物を指定されてる(笑)」と伝えた。
そして、奇跡的?に「指定された品物」を発見。「トイレ水」と"solid perfume(練り香水)"その他を手に取り、レジ待ち。...してたら、集合時刻寸前に。

担任の遅刻は洒落にならないので、品物を棚に戻し、買わずに移動したのだった。涙...。(及び「恐怖感」)


シャルル・ド・ゴール空港の免税店内でロクシタンを改めて探した。
「ロクシタンの幟」を発見したので、その免税店の中を徘徊していた。しかし、ロクシタンは見つからない...。

そうしたら、「ルーブルでのいきさつ」を知ってた生徒が、ロクシタン取り扱いショップを見つけてくれた。店員さんに聞いてくれたのだろう。

「私は理科(の評定)5だねっ!」と言っていたが、丁重に拒否。
一応、その生徒にペットボトルの水を奢ってあげた。手持ちのお金を使いきったらしいので。


ルーブルよりも空港免税店の方が、明らかに安かったです。
改めてありがとう、Oさんm(_ _)m

ハワイに行ってきた

「アメリカ放題」って、ソフトバンクのサービスがある。
開始当初は「偉い人」である孫氏が無駄なことしてると思ってた。まさか「そいつ」に世話になることがあるなんて思ってもみなかった。

約3ヶ月前、修学旅行の行き先が変更になった。アメリカ合衆国はハワイに行ってきた。日本に戻っておよそ20時間ほど経過した。人生での「初ハワイ」「初USA」であった。

結局、持参した文庫本は、ほんの少し、帰りの機内で読み進められたただけだった。ま、学校行事の引率なんて、それが正しいのだろう。持って行った本は『坂の上の雲』なのだった。昨年末に四国旅行に行くことになり、11月に読み始めたのだ。4巻までは進んだ。正岡子規は、物語内では随分前に退場してる。現在は 、遼東半島の攻防中。

デルタ航空利用で、機材はボーイング767だった。特に帰りはずっと「日向」を飛行するし、読書をしようと思っていた。成田への帰りも、食事のとき以外は照明が落ちていた。読書灯の明かりが「鋭すぎる」気がしたので、使わずに終わった。あれはLEDなのだろう。特に周りの「読書をしていない人」にとっては、あの明かりは眩しすぎに思えた。

(東)桜島魂不屈の心

「桜島魂不屈の心」というフレーズが、私の記憶に残っていた。私が鹿児島県の桜島を訪れたのは、今から四半世紀前なのであった。
大学の徒歩旅行のサークル「伸歩会」の秋合宿にて、以下のルートを徒歩で移動した。6泊7日の徒歩旅行であった。
えびの駅(旧加久藤駅)~えびの高原~安楽温泉周辺~姶良~(鹿児島市内・フェリー乗船)~桜島古里温泉~鹿屋~南大隅町佐多~佐多岬

で、その4日目、桜島を移動している時に、表題のフレーズを見たのだった。
記憶の中では「桜島魂不屈の心」であった。「桜島は、東京なんかと違って気合いが入っているなぁ...」と感じたのだった。

そのとき、桜島は噴煙を上げていた。ま、通常運転らしい。その中を30km超、7時間前後をかけて歩いた。その間に、目には見えない火山灰が体に付着してきたようだった。その日は「股ずれ」になった。正確には「ケツの穴ずれ」である。肛門周辺が痛くなった。汗と砂でそのあたりが必要以上に擦れたらしかった。古里温泉の浴場にて、ケツを洗った記憶が残っている。

桜島では、「火山灰集積所」がそこら中にあった。ゴミ収集車ならぬ「砂収集車」が回収していくらしい。そのような環境にある小学校の校庭に、その標語があったという記憶が残っていた。

四半世紀前の記憶を確認する為、Google様の地図をスクロールさせてみた。

あった。
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私が徒歩旅行の最中に見たのは「鹿児島市立東桜島小学校」だったことが分かった。

そのような「日々砂が降ってくる」ような環境では、「素直」とか「明るい」とか「元気」などという「生ぬるい目標」の下に成長しても、火山灰に耐えうる「きちんとした大人」にはなれないのだろう。
かなり印象に残っていたので、地学の授業で桜島の話をする時は、必ずこの「桜島魂不屈の心」の話をするのだった。火山灰集積所とか、股ずれの話も一緒に。

記憶の中では「東」という文字は無かった。しかし、実際にその「モットー(?)」が存在していることが確認できて良かった。また、今年の地学基礎の授業でも、この話をすることになるのだろう。

私が高校を卒業し、大学に入ったのが1989年だった。その年、昭和が平成になった。共通一次試験の最後の年だった。天安門事件が起こり、ベルリンの壁が崩された。その翌年である1990年には、東西ドイツ統一という巨大な出来事があった。

その「東西ドイツ統一」を印象深く覚えている。生中継を見たから。

「生中継」は、九州のひなびた温泉旅館で、徒歩旅行サークルの男4名で見たのである。4月8日の日記「(東)桜島魂不屈の心」を見る数日前のことだ。
温泉の名前は「安楽温泉」だったような記憶があるが、定かではない。確実に覚えているのは「木造で川沿いの温泉宿」「泊まった部屋は2階」「掛け布団が毛布1枚だけでとても寒い」「テレビがある」ということである。
酒を飲みながらだったか、酒を飲んだ後だったか忘れたが、テレビを眺めてた。思えば、男4名のうち、私だけは未成年だったのかも知れない。同学年の1名、後輩の2名とも、浪人生(多浪生含む)だったはずだから。
寒い部屋で、テレビの中の花火を眺めてた。「巨大な歴史の転換点に居るなぁ」って思いながら、テレビを眺めてた。


その後、EUというものができあがった。それは、東西ドイツ統一がなければ、できなかった「モノ」なのであろう。
それがまた、徐々に分解していくのかも知れない。まぁ、分解しないのかも知れない。何しろ、今日も「歴史の転換点」なのだろうなぁ...、って思うのだった。

歴史ってのは、ヒトが作るものである。ヒトは「しばらく経つと忘れちゃう」生き物だと思う。こうやって「行きつ戻りつ」しながら、歴史は刻まれていくのだろう。その先がどうなるかは分からないけど。

EU残留も、EU離脱も、どちらも一理あると思うんですよね。
大英帝国EU離脱のニュースは「自分が被害を受けないと思い込んでる、すごく身近に迫っている台風」を眺めているような、ちょっとしたワクワク感を覚えます、私は。

Google日本法人本社に行く

昨日に続き「日本の最先端」に行ってきた。職場で導入する端末候補として、chromebooksが候補に挙がっている為だ。
同僚が「Google本社での端末検討」という場を作ってくれたので、くっついて行った。答案採点の3時間と引き替えに、そうそう行く・行ける場所では無い、噂に聞くGoogle本社を訪問した。

噂に行く聞くように、飲食物はタダだった。アイスカフェオレを頂いた。写真を撮って良い場所は限られていた。また、それら「撮影OK」な場所での画像なんて、ネット上に腐るほどあろうから、特に画像の採取はしてこなかった。

社員の座席は固定だということだった。また「祝○○○○」みたいに、個人の頭の上に手書きの幟(垂れ幕?)が下がっていたりした。体育会系なのか、緩いのか、よく分からなかった。他に見かけた物は、日本酒の一升瓶多数・電車でGO!の筐体・銭湯にあるような富士山の絵・ストリートビュー撮影のための人力車や手押し車(美術館内等で使うらしい)・やたらと多い説明書き・値段表示が無い自販機・金がかかってそうな内装・やたらと多いマックユーザーなどなど...。思えば「森ビル内のオフィス」に、初めて入ったのだった。取りあえず、儲かっていないと入居できない物件だろう。

帰りの電車の中で、貰った名刺を改めて見て気づいた。Google Apps for Education の説明をしてくださった方は、正式な所属先はGoogleではなかったのだった。名刺の表面は「あの4色」があしらってあるし、普段の職場も六本木なのだろうけど、Googleの社員さんではないっぽい。

で、昨日も今日も、10年くらいぶりに自宅で答案の採点をしたよ。基本的には仕事を持ち帰らない主義なのだが、採点が終わりそうに無いので。

今、念のため「google 本社 日本」で画像をググってみた。
ここにある「銭湯の絵」は見た。が、その前の「『やり過ぎ感』のある、銭湯を真似したような内装」は無かったなぁ。普通の什器が入っていた記憶がある。

屋嘉銘茶とラフロイグ

昨年末、2度目の沖縄旅行に行ってきました。義理の父母などと共に、総勢6名の旅行でした。
シーズンが始まったばかりの「ホエールウォッチング」に行くも、季節が早く、クジラには逢えず。そして、私はクルーザーの揺れに酔い、かなり気分が悪くなったりしました。凄く久しぶりに「乗り物酔い」になったのですが、気分が悪くなってくるとテキメンに「視野が狭く」なっていきました。景色は流れるものの、脳の「記憶領域」に全然入らない、そんな感じ。そんな自分を客観的に眺めたりして、何とか吐き気はやり過ごしたのでしたとさ。

で、旅の途中で「沖縄 金武町 屋嘉の緑茶」を購入したのです。
職場で飲む「日本茶」を切らしていたことを思い出し、夕刻の暴風雨で人も少ない万座毛の売店にて500円で買いました。日本茶としては安いですね。で、その封を開けて飲んだのは、1月になってからです。

最初にその緑茶を口にした時、思い出したのが表題に書いた「ラフロイグ(laphroaig)」なのです。今はサントリーの扱いになっているのですねぇ。で、ボウモアもサントリー傘下なのか。何となく違和感がありますなぁ。

「海の匂い」がする緑茶というのは、初めて飲みました。日本茶としては、豪快な見かけです。500円という価格もありましょうが、テキトーな選別で、茶葉がデカいです。味については、なかなかおいしいです。高級な緑茶とは異なる方向性ではありますが、屋嘉銘茶はおいしいです。日本茶と中国(緑)茶の中間的な味わい、そこに加わる海の香り。

私が(数年の時を経て)口にした順番が「ラフロイグ→屋嘉銘茶」だったからこそ、私の脳はお茶を飲んでスコッチウイスキーを思い出せたのでしょう。ラフロイグは強烈な個性があります。私が買ったことがあるボトルは10年物です。高いからあんまり買えないし、飲み屋にてグラスで飲んでも高いです。
もし私が「屋嘉銘茶→ラフロイグ」という順番で出会っていたら、ラフロイグを飲んだとしても、私の脳は屋嘉銘茶を思い出さないのではないかと思います。それくらい、お茶にある「海の匂い」は微かではあります。しかし、私の脳はアイラ島と沖縄(金武町)を結びつけたようです。

面白い体験でした。
屋嘉銘茶で検索してみるも、その(海の)香りについての記述は無かったので、日記にしてみました。

魯迅公園に行く

結論から言うと、公園は広くて空いていて、綺麗だった。「魯迅記念館」なる博物館もあったが、そもそも私はそれほど魯迅には思い入れがないので、劇的に楽しかったわけではない。また、魯迅の生家が近くにあったようなのだが、発見できなかった。魯迅の墓をお参りした。
この公園はある種の社交場になっているようで、もっと早い時間に行けば、人出もあったようだ。私の行った日は雨でもあり、静かだった。少しだけ、合唱してる爺さん達がいたけど。

こちらは魯迅記念館。公園そのものも含め、入場は無料。
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魯迅のかっこいい像がある。
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公園内、突然大きめの時計があった。「中日友好钟座」なるものらしい。
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かれこれ40年近く鎮座しているらしい。
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文学者の墓というと、東京は三鷹で森鴎外と太宰治の墓参りはした記憶があるが、それ以外の記憶はない。
この日(1月3日)は、iPhoneによれば、13kmほど歩いていたらしい。


過去の関連する日記
「文学史」を覚えることの不毛さ(2016年11月)

神田川の桜

私は基本的に城北(北西東京)住まいの人間である。
一人暮らしの7年間を除き、中央総武線の北に住んできた。7年間についても、新宿以西の丸ノ内線の北側だったけど。

で、桜は神田川だと思うのである。3月27日撮影。
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2018夏 道東旅行記録

どなたかの旅行プラン立案の「たし」になるかとも思い、2018年8月上旬、5日間の道東旅行の行程を記します。
北海道の出入りに利用したのは「たんちょう釧路空港」で、レンタカーにて巡りました。
左下の釧路空港から、概ね「時計回り」にて道東を巡りました。
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<1日目>

10時前に空港到着。レンタカーを借りる。
そのまま「釧路和商市場」へ。「勝手丼」が有名らしいので、それを食する。各自、勝手に食べる。そんなに安くはない。馬鹿高いわけでも無いけれど。勝手に選べるという雰囲気が楽しい。平日の早めの時間帯に訪れたので、ゆっくりと食事ができた。

釧路湿原の展望台へ。遊歩道もあったのだが、気温も高く、その後の訪問予定地も多かったので、遊歩道へは行かなかった。この場所で「熊鈴」を買っておくべきではあった。理由は後述。
ハッカ油(道内のそこら中で売っている)は清涼感があり、虫除けにもなるとのことだった。しかし、それを子どもの顔面に(虫除けとして?)散布してしまったグループが居たようで、薄荷の香りと子どもの泣き声(2名分)に出会った。大人でも、あれが目に入ったら洒落にならない。あの後、彼らはどうしたのだろうか...。

オンネトーへ向かう。道東の湖と言えば、摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖がトップ3だろう。で、事前に道東の情報を集めていたところ、「オンネトー」なる場所が美しいらしいことを知る。で、行ってみた。実際に美しかった。
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ただ、5日間を通じ、この場所が一番虫が多かった。虫除けを使わずに車を降りた私は、アブにも少し刺されたのだった。虫が多かったのは、気温が高めであったせいもあろう。

次に向かったのは阿寒湖。
阿寒湖畔エコミュージアムセンターを見学の後、湖畔へ。
泥の温泉が湧いていた。なかなかに面白かった。

その後、摩周湖へ。辿りついたのは17時頃だったろうか。売店が店じまいを始めていた。
私が摩周湖を訪れるのは、29年ぶりであった。大学時代の徒歩旅行サークル「伸歩会」にて訪れて以来である。(なお、北海道を訪れたのは、今回で4回目)
摩周湖は摩周湖であった。前回も今回も、霧にも出会わず、綺麗さっぱり晴れていた。濃青色の湖面やそこに屹立するカムイシュ島(中島)も、記憶とは変わっていなかった。展望台は綺麗になっていた気がする。が、30年前なので、記憶は定かではない。前回は「第3展望台」に行ったような気もする。今回は「第1展望台」から湖面を眺めた。展望台ではエゾシマリスに出会った。

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動きが、

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速い。

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うまく写真は撮影できず。

その後、硫黄山(いおうざん)へ向かう。
火山の噴気に対して、あれほど近づける場所は、他にはよく知らない。
結果的に、駐車場への到着が18時前後だったので、駐車料金(本来は摩周湖第一展望台と硫黄山の駐車場は、駐車料金が必要とのこと。両方の駐車場が利用できて普通車は500円。)を取られることも無かった。ラッキーだったと言えよう。
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この日の宿は川湯温泉に確保した。
翌朝は「雲海」を見に行くことを考えていた。3時過ぎに起床し、峠を目指すつもりだった。一応、目覚ましを設定し、起きてはみた。しかし、屈斜路湖畔である川湯温泉もバッチリ晴れており、「雲海」は発生していなさそうなので、また寝た。


<2日目>

朝食後に最初に向かったのは砂湯。湖畔を掘ると、温泉が出てくる。
硫黄山も砂湯も、29年前、タクシーの運ちゃんが連れて行ってくれたところだ。そして、非常に印象に残っていたので、再訪したのであった。配偶者や子も、この場所は楽しかったらしい。
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美幌峠を通過する。
「熊笹ソフト」は、バッチリ草くさく、美味であった。
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その後、サロマ湖展望台へ向かう。ネット上で検索して知っていたが、途中の路は未舗装路となっていた。それなりの距離のダート路である。雨が降ってたら、行きたくない。
この場所は「29年前に登りたいと思ったが、登れなかった場所」なのだ。サロマ湖は日本第3位の広さの湖(汽水湖)である。「その全景を見たいなぁ」と思ったのだが、徒歩旅行の旅程上、そのときは展望台へ登ることはできなかった。

ここで、展望台にて配偶者が撮影した画像を披露する。

クリックすると、拡大される。画像情報を削除しただけで、縮小や加工はしていない。
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灰色のキノコのような物体が見えることと思う。
私の予想では、iPhoneに映り込んだ「虫の類」だとは思う。しかし、"Identify"はできない。正に"UFO"である。
UFO写真を、生まれて初めて手に入れることができた。
配偶者は、この「不可思議な写真」を撮影してから、数時間「これは何だろう...」と悩んでいたそうだ。そして、私や子に「こんな写真があるのだけど...」と告白。
前後の写真には、この「未確認物体」は写っていないとのことであり、その点について、私も確認した。
謎は謎のままである。

また、この場所ではヒグマに出会いかけた。
一緒に旅行に行っていた義理の母は、展望台を先に降りて、車に向かっていた。その際、熊の後ろ姿を見たそうである。展望台側に引き返し、我々に「熊が居る」と小声で伝えてきたのだった。
結果的には、義母以外に熊を見た人物は居なかった。
しかし、その熊は我々に対して「車上荒らし」を敢行していた様子である。

こちらはテールゲート付近。
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こちらは助手席側のドア。
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熊に会わなくて良かった。
後に、熊鈴を買うことにしたのだった。

サロマ湖を後にした私たちが、次に向かったのは能取岬であった。
この場所は、よく映画のロケ地に使われるようである。特に『非誠勿擾(邦題「狙った恋の落とし方。」)』なる映画で有名となったらしい。この映画は、中国における「北海道観光ブーム」の火付け役となったと聞く。
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草原が広がり、気持ちの良い場所であった。

その後、定番であろう「監獄歴史館」を見学した。2時間弱の滞在であった。
この日は網走湖畔のホテルに宿泊。


<3日目>

ホテルを出発し、北方民俗資料館とオホーツク流氷館を見学。
流氷館は予想していたよりも小さかったが、配偶者と子が言うには「ここの『流氷ソフトクリーム』が一番おいしかった」とのこと。私は食べなかったので、詳細?は不明。

網走には、そのほかにも博物館が存在していることは知っていたのだが、先を急ぐのであった。

今回旅行先を研究していて知った「天に続く道(画像ググリンク)」にも寄ってみた。
確かに、なかなか綺麗で面白い写真が撮影できた。

次いで、オシンコシンの滝へ。
それほど巨大では無いが、綺麗な滝であった。
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この日の午後は、知床五湖のトレッキングに行った。
30分ほどのレクチャー(熊に出会わない方法と、出会ったときの対処法などなど)を受けた後、2時間弱をかけて「大ループ」という「地上遊歩道」を散歩してきた。
その日の午前中は「熊出現」があったため、昼過ぎまでは遊歩道が使用禁止だったとのことだった。
全体的に曇り~雨だったため、知床の山々を見ることはできなかったが、散歩中に徐々に霧が発生し始めたため、幻想的な風景を見ることができた。
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宿は知床半島のウトロだった。


<4日目>

この日は、朝から「知床の観光船」に乗る予定だった。主にヒグマなどを見るために。
朝食も早めに終えたチェックアウト後、車に荷物を運んでいる途中、クルーズ会社からの「本日は欠航です」というメールに気づいたのだった。朝食前にメールは配信されていたのだった。不覚。

前の日に「登れたら登ろう」と考えていた、ウトロ海岸にある「オロンコ岩」に登る。
カモメがギャーギャー舞っていて、なかなか面白い場所だった。時間的な余裕もできてしまったので、のんびりと風景を楽しんだのだった。

この日は、基本的に長距離移動である。
予定していた「標津サーモン科学館」へ向け、知床を横断する。
途中の知床峠では、曇りがちではあるものの、国後島を見ることができた。

昼前には、サーモン科学館へ到着した。
「ドクターフィッシュ体験」「えさやり」「チョウザメ『指パク』」など、なかなか面白い水族館・科学館であった。
展望台から、改めて国後島を撮影。
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当初は、ここから釧路を目指す予定だった。しかし、観光船がキャンセルになったため、厚岸へ向かうことに。配偶者は無類の「生牡蠣好き」なので、その希望に応えることにしたのである。

北海道的な道を進む。同乗者は皆眠っていたので、私の眠気覚ましに写真を撮ったのだ。
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予め調査してあった「エーウロコ」なる漁協の直売店へ向かった。
私も生牡蠣を食べた。2個だったかな? 電子レンジも設置してあり、「蒸し牡蠣」も食べられるとのこと。
牡蠣1つが100円前後から購入できるのだ。値段の詳細は忘れたが、劇的に安いのは確かだ。その時は3種類の牡蠣が販売されており、サイズも幾通りか存在していた。大きいほど値段は高い。と言っても、せいぜい200円前後だった気がするが。
自分で牡蠣をさばく?のはなかなか楽しい体験であった。その方法も、きちんとイートイン?のテーブルに記してあるので、私たちのような初心者が行っても、特に問題は無いだろう。

私はせっかくだからホヤも食べた。グラム売り(画像はそのレシート)であり、刺身への加工賃は別途50円也。
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甘くてちょっぴり苦い、新鮮なホヤだった。そして、劇的に安価。

外にいた「ゆるキャラ」のルックスと設定に衝撃を受け、厚岸を後にした。
今後は、ゆるキャラ界での彼をチェックすることにした。
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途中、セキネップなる場所に行った。すさまじい断崖だった。
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この日は、釧路市内に宿泊。
「炉ばた」なる炉端焼きの店にも行った。高価であったが、美味であった。特にニシンとシイタケは、今まで食べたことが無いような代物であった。「価格表」が無いという点で、かなり敷居は高いのですけどね。

一応、まだ食べていなかった「ザンギ」も、「釧路 港の屋台」なる場所で食べたし、概ね「食」についての目的は達成したのであった。


<5日目>

この日は、午後のフライトで東京へ戻る。

釧路市動物園にて、まったりと過ごしたのであった。
はしゃぎ回る元気なペンギンを見たり、レッサーパンダ他への「えさやり」を体験したりした。

またいつか、知床を訪れることができたなら、是非クルーズに再挑戦したい。
言い忘れてましたが、キタキツネとエゾシカには、きちんと遭遇しました。やはりヒグマも見ておきたかった。

2015夏 北海道旅行記録

前回の日記に続き、2015年の夏に行った、4泊5日の北海道旅行の行程を紹介します。
あまりにも有名なところについては、説明を端折ってます。

やはり、レンタカーを使用しています。
旭川から入り、函館へ。移動距離は結構あります。初日はずっと旭川市内。最終日は函館市内です。
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<1日目>
旭川空港→旭山動物園(午後ずっと)→ジンギスカン(大黒屋)

旭川市内に宿泊すると、「おもてなし券」なるチケットが購入できる。チケット購入日の午後と、翌日午前中に「旭山動物園」に入場できるのである。この券を使用した。
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「オオカミの森」の看板が、童話『あらしのよるに』の「ガブ」にやたら似ていると思ったら、本当に作者の方が描いた看板だったことを知った。子と一緒に興奮したのだった。あの「お話」は面白い。

ジンギスカンは「大黒屋」という店に行った。とてもおいしかった。やはり、本場は違うと感じたのだった。


<2日目>
旭山動物園→美瑛の青い池→美瑛周辺→ファーム富田→旭川ラーメン→蛍鑑賞

午前中は動物園へ。その後、Macの壁紙の池へ。
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昼過ぎから美瑛の「アトリエジョバンニ」を訪問し、ステンドグラス作成の体験を行った。これは、子の「夏休みの宿題」となったのである。ステンドグラス作成は、私も初めてだったので、なかなか面白かった。店主の方(女性)もとても親切だった。
ファーム富田は有名なので説明は割愛する。
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旭川ラーメンは、某老舗を訪れたのだが、特においしくなかった。というか、むしろ不味かった。詳細は控える。
蛍は「ほたるの里」なる場所へ出向いた。私は楽しかったが、配偶者などは暗くて怖かったと言っていた。


<3日目>
ひまわりの里→増毛でサクランボ購入→六花亭の喫茶室(百合が原店)→札幌市内観光(旧道庁・時計台・大通公園)→ジンギスカン(だるま)→大通公園ビアガーデン

ひまわりの里は、まだシーズンには早かったようだが、それなりに楽しめた。
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その後は、ひたすら札幌へ向けて移動した。日本海の海岸(オロロンライン)をドライブした。7月下旬だったが、増毛町の国道沿いには、農園の直売所があり、サクランボを安価に売っていた。

大嶋農園なる看板が上がっていた。
私はこの日ほど、大量のサクランボを食べたことは無い。札幌へ向けてのドライブ中、ほぼずっと食べていた。

六花亭のカフェは東京には無いので、行ってみた。良かった。限定商品のお菓子も食べることができた。

ジンギスカン「だるま」もおいしかった。
ビアガーデンは雨天だったこともあり、少し寒かった。が、楽しんだ。


<4日目>
大倉山ジャンプ競技場→小樽市内散策→(余市→ニセコ→黒松内ICから道央自動車道)→函館市内→海鮮(海光房)→函館山夜景

大倉山にリフトで登り、札幌の街を眺め、ソフトクリームを食べた。
小樽へ移動し、買い物などを楽しむ。
アル中の私としては、余市のニッカウヰスキー工場を見学したかったのだが、運転があるから酒も飲めないし、先を急ぐので通過した。その日は天気が悪く、車内からはあまり風景を楽しむことができなかった。
夕食は適当に選んだ「海光房」なる店で食した。ここで食した「羅臼産根ホッケ」は劇的においしかった。高かったけど。私の生涯に於いて、一番美味だったホッケは函館のこのホッケだ。今年、羅臼で食べれば良かったのかなぁ...?


<5日目>
市内観光(旧函館区公会堂・教会群・函館山)→五稜郭→函館空港

今にして思うのは「ラッキーピエロ」に行くべきだったということだ。


以上、ざっと旅行ルートの紹介をしました。札幌から函館にかけては、もっとゆっくり回った方が良いのかも知れません。

2015冬 四国旅行記録

さらに引き続き、2015年の冬に行った、3泊4日の四国旅行の行程を紹介します。

やはり、レンタカーを使用しています。出入りは高松空港。
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<1日目>
高松空港→がもううどん→こんぴらさん→愛媛県総合科学博物館→道後温泉散策

午前9時過ぎに高松空港へ到着する便を利用した。そのまま、有名店である「がもううどん」へ。
本当に「生活の中」にうどんが存在していることを思い知らされた。普段着のヒトから、私たちのような観光客や、スーツを着たオッサンや。そしてそこは、ものの見事に「農地のなか」でもあった。
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このような場所にある。

印象的な旅のスタートとなった。

次に、こんぴらさんに向かう。石段を登った。達成感があった。
お守りをいくつか購入した。今も大事に家に置いてある。

次に、松山への移動途上にあった愛媛県総合科学博物館に立ち寄る。子どもと一緒に楽しんだ。科学館の類の訪問は、私にとっては飽きることは無い。

道後温泉の有名な建物にほど近い宿に宿泊する。
到着が少し遅れたのであるが、有名である「蛇口からみかんジュース」を体験することができた。わざわざ、私たちのためにジュースを補充してもらえたためである。また、動物好きの我が子は、ゆるキャラの「みきゃん」がいたく気に入った様子であった。
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<2日目>
松山城→とべ動物園→竜串散策→足摺岬の宿

宿を出て、松山城を見学する。配偶者が「中村修二氏を見た」と言っていた。私は確認できなかった。

当時(3年前)は、我が子も小さかったため、意図的に動物園などを旅行の見学地に入れていた。四国は「とべ動物園」が良いということだったので、見学してきた。

その後は、ひたすらに南へ向かって移動した。
足摺岬に着いたのは、暗くなってからだった。


<3日目>
足摺岬散策→四万十川(沈下橋)→道の駅虹の森公園まつの→四国カルスト→高知市内散策

足摺岬周辺を散策した後、四万十川河口から上流へ向かって進む。
我々が訪れたのは12月末だったため、基本的に渋滞とは無縁であった。国道441号線などは、場合によっては相当に混むらしい。確かに、道幅が1車線と少ししか無いような場所が多数存在してはいた。天気も良く、のんびりと川沿いのドライブを楽しむことができた。

当初は予定していなかったのだが、目に入った「道の駅」に入る。その「虹の森公園まつの」は、予想以上に充実した施設だった。
子が「ガラス細工がやりたい」と言い出したので、急遽「ガラス工房」にて「サンドブラスト」を体験することとなった。
「みきゃん」の絵や、自分の名前を入れ、なかなか素敵なグラスが完成したのであったが、そのグラスは数ヶ月のうちに、不注意から破損してしまった。残念ではあったが、それはそれで仕方のないことだろう。

次に向かったのは、四国カルストであった。私が是非とも行きたいと思っていた場所だ。国道197号線を東進し、高研山のトンネルをくぐって愛媛県から改めて高知県へ。
この場所で国道を離れ、林道へと向かった。

結論から言うと、国道440号線以東は「通行止」であり、四国カルストの中心部分にはたどり着くことはできなかった。国道440号以西も、カルスト地形の片鱗は見られたものの、消化不良に終わっている。是非、ここはもう一度訪ねたい場所である。国道440号を南下し、高知市内へ向かった。

はりまや橋などを「とりあえず」見学する。坂本龍馬もこの辺を歩いたのかなぁ...とか想像しながら。そして、鰹のたたきを食べに行く。
「わら焼き鰹たたき 明神丸」なる店に入る。記憶が正しければ、入ったのは「帯屋町店」なる店舗。

はっきり言っておいしかった。今までに私が食べたことのある「鰹のたたき」とは、一線を画していた。我が子もカツオのたたきを気に入ったようだった。一生懸命食べていた。それまでは、それほど青魚が好きでは無かった配偶者と子は、ここのカツオを食べたことにより、青魚が「苦手ではなくなった」ようである。


<4日目>
桂浜→うどん食べ納め→高松空港

市内のホテルを出て、桂浜に行く。そのアクセスは、予想以上に高低差があった。また、その「浜」は想像よりもこぢんまりとした浜であった。
しかし、何はともあれ「桂浜」に行けたのは、何となく嬉しかった。坂本龍馬の銅像も見ることができた。
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子は土佐犬の小さいぬいぐるみを購入した。ぬいぐるみは可愛いが、本物はそうでも無いのだろう。

あとは、一路高松空港へ。
途中の山地は高知自動車道で一気に抜けたが、かなり山深かった。

フライトまで、少し余裕があったので、チェーン店である「こがね製麺所」にてうどんを食べた。やはり、東京で食べるよりもおいしいうどんであった。

そして、東京へ戻った。

28年ぶり2回目

中国地方を訪れた。昨年末である。その旅程は後日記す予定。

最初に彼の地を訪れたのは、例(?)によって大学時代の徒歩旅行サークル合宿である。
この宿に泊まらせていただいた。岩国は錦帯橋の真横。
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その合宿は、広島市から山口県の青海島までだった。確か6泊7日の歩き旅。大学2年19歳、1990年の夏である。
岩国を出発した日は、六日市なる町まで歩いたのだった。本当に今思いだした。というか、津和野経由で萩まで歩いた記憶はあった。
「岩国~津和野」について、グーグルマップで検索したら、1日ではとうてい歩けない距離であることに気づき、地図を見ていて思い出した。泊まりましたよ、六日市。その翌日も別の場所に泊まらねば、とうてい萩にはたどり着けない距離である気がするのだが、宿泊地の記憶が無い。

で、岩国の思い出。

その宿は、どう見ても高級である。28年前も高級感があった。当時はボロかったけど。
2階の大広間に我々は投宿した、と考えていた、最初は。


その「徒歩合宿」では、基本的に「宿取り担当」が民宿等を予約することになっていた。テント泊とかは無い。
その当時の数年間、一番安かったのは「1泊3食(翌日のお弁当付)」で3500円だ。屈斜路湖畔、和琴半島の付け根にあった宿。昨夏の道東旅行では「その宿」を微妙に探してみた。どうも廃業してしまったらしい。ま、当時もかなり高齢のおばあさんが一人で切り盛りしていた宿だったので、仕方なかろうとは思ってはいる。

で、その「高級感ある宿」では、一悶着があった。
宿側では「宴会での予約」と認識していた、ってな話があったと記憶している。食事後か何かに「泊まりのはずです」という話を宿側に伝え、ゴタゴタがあったはず。確かに宿泊代としては安かった。安すぎた。上記金額よりは高いけど。

最終的には「追加料金」を払った記憶は無い。酔っ払ったから、記憶が消えただけなのかもしれない。
何しろ、あの宿の2階広間で、みんなで寝た。翌朝は暗いうちに宿を出た。前の晩、例によって酒を飲み過ぎて気持ち悪かった。未成年だったけど。
朝の暗い中、気持ち悪い中、川沿いの原っぱで天然の蛍を見た。綺麗だった。あの蛍が私の生涯における「ベスト蛍ズ」である。

改めて地図を見てみたが、錦川という川らしい。とりあえず、終わり。

2018冬 山陰山陽旅行記録

2018年末に行った、4泊5日の中国地方旅行の行程を紹介します。
やはり、ツアー同梱のレンタカーを使用しています。広島空港から入り、岡山空港から戻りました。
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今回は阪急交通社の「フリープラン」を使いました。
阪急交通社を使うのは、ずいぶん久しぶりです。10年以上前に海外旅行で利用して以来です。過去(北海道や四国・沖縄)の「レンタカー付のフリープラン」は、H.I.S.を使っていました。しかし、中国地方について、H.I.S.は最大で「3泊4日」までのプランしかなかったため、阪急交通社に申し込んだのです。

H.I.S.も阪急交通社も、どちらも「困った点」などはありませんでした。今後も金額と日程等を見比べ、他社も含めた「プラン」から、ツアーを選択することになるのだと思います。ただし、私は「ネット上でプランが組める」方が有り難い。
ただ、阪急交通社には問題が。
私は指示していないのですが、iCloud上で、阪急交通社からのメールは「迷惑メール」扱いされるようになりました。大体、日に3通は届いてますからね。普通に届いても、読み切れないわ。暇なときには「迷惑メール」内のお知らせを読んでる。

では、本題に。

<1日目>
広島空港→広島市内で昼食(広島焼)→平和記念公園・資料館→厳島神社→広島市内泊

朝6時に起床し、羽田空港へ。午前中に広島空港へ到着。市内から離れた山の上にある空港だった。高速道路で移動して市内のお好み焼き屋さんへ。配偶者はお好み焼きについて「それほど好きではない食べ物」という認識があったようだが、「広島焼」はおいしかったとのこと。また、焼き牡蠣も食べた。

まずは原爆ドーム周辺へ。
広島の「資料館」というと、私はこのことを思い出す。

キャンペーン · 広島平和記念資料館に展示されている、被爆再現人形「生死の境をさまよう」の撤去方針を撤回していただけるよう願います。 · Change.org

大学2年の夏だった。私も「あの展示」を見て、衝撃を受けた一人だ。『はだしのゲン』も小学校時代に読破していた(自宅近くの児童館に全巻あった)私ではあったが、また別の衝撃があった。
「あの展示」は残して良いと思っていたが、その私(たち)の思いは叶わなかった。くやしいのう。ギギギ。
なお、昨年末はまだ「改装」が続いていた。少し狭かったようだ。「全館オープン」は平成31年4月25日の予定らしい。

私の子は、特に「現在の自分と同世代で死んでしまった子」などの資料や文章を、丹念に追っていたようだった。戦争はヤダよね。

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原爆ドームの「てっぺん」は、円では無く「楕円」だったこと、初めて知った。
で、その「てっぺん」、平和の象徴たちが休憩しまくってた。ハトね。
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どことなく笑えた。

その後は宮島口まで移動し、車を停め、フェリーにて宮島へ。
JRのフェリーは大鳥居の正面を通過してくれるということは調査済だったのだが、「なんとなく」駐車場に入ったら、流れで「松大汽船」を利用することになった。乗ってから気づいた。ま、私以外は、その「違い」も知らなかったようなので、特にその点には触れずにおいた(笑)。

フェリーの違い(結構重要)については、以下のサイトが詳しいかな。
【広島】「JR」VS「松大汽船」!『宮島(厳島)』に渡るフェリーはどっちがおすすめ?違いを比較してみたよ | Trip-Nomad

宮島のシカは穏やかで可愛かった。が、焼き牡蠣は不味かった。私たちが入った「土産店併設」の店はね。昼食時の店の方が、はるかにおいしかった。
厳島神社は「行ったこと」が重要なのだろう。大鳥居が結構「いびつ」であることを知った。28年前にも見たことあるはずなのだが。
夕食は市内の居酒屋、宿泊は海沿いのホテルだった。


<2日目>
広島市内→岩国→周防大島・沖家室島→秋吉台・秋芳洞→萩市内泊

まずは岩国へ向かう。錦帯橋を渡るために。やはり、28年前にも渡っているのだけどね。
「錦帯橋・岩国城ロープウエー・岩国城」のセット券を購入し、岩国城まで行ってみた。予定通りに。ちょうど良い散歩になったと言えよう。
我が家の場合だけかも知れないが、「岩国シロヘビの館」にて、結構な時間を費やした。予想していたよりも、面白い施設だった。かといって、あまり期待して入ると、肩すかしを食らうかも知れない。

印象深いのが、入ってすぐに見られる「紹介動画」である。音楽は流れているものの、言葉が一切入っていない、3Dエロゲーを彷彿させる動画だった。別に全然エロ要素は無い、念のため。
私は最初「流れる音声は何語なのかなぁ...」って思ったのですよね。近年は「バリアフリー」が盛んだし、日本語なんて「めっちゃバリア」であることは間違いないから。岩国城で一番多く見たのは中国からの人々だったし。
その動画は、実質「何も伝えてこない」感のある動画だった。とか書いちゃうと、またこの「クソ日記」の読者に先入観を与えてしまうのだろうが、あれほど「情報が無い(わけじゃないのだけど、秋に見た「岩宿遺跡の紹介動画」とは比べものにならない)動画」は、見たことが無い。そのひねくれた私の「思い」も、同行した家族には伝えてないけどな、盛り下げないように。
「ヤカタ」は空いてたので、「シロヘビクイズ」も思う存分挑戦できた。

次に向かったのが「周防大島」である。2018年、一番ホットな島だったはず。
2歳児が行方不明になり、水道が破壊され、警察署からの逃走者も訪れていた島だ。
そもそも何故「周防大島」を訪れたのか。それは配偶者の古い友人が住んでいるという場所だからである。厳密に言うと「沖家室島」なんすけどね。当日までその島の存在を知らなかったけど。

とてものんびりした、良い場所だった。友人氏のお宅は、ヒジキを採取するなどして、生計を立てていらっしゃるそうだ。頂いたヒジキはおいしい。まだ結構残ってる。たくさん貰っちゃったので。

次に向かうは「秋吉台・秋芳洞」である。
結果的には、秋芳洞は全行程?を踏破せずに終わった。我が子は暗闇が嫌いだそうで。残念だが仕方が無い。一応、少し写真を。
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寒かったので、秋吉台は車窓観光とした。小雪が降り始めた夕刻、萩市内へ投宿。


<3日目>
萩城下町→松下村塾→しまね海洋館→出雲大社→米子市内泊

小雪の舞う中、朝から萩の「城下町」を巡る。歴史上の偉人の生家などを見学。さらに松陰神社や松下村塾へ。松下村塾はとても小さな家屋?だった。吉田松陰やその門下生にあやかれたら良いな。

今回、旅行案を立てている途中に知ったのだが、島根県はとても長い。宿の関係で鳥取県まで移動する必要があったため、石見銀山に寄る時間がなかった。また、石見銀山よりは「水族館」と「出雲大社」の方が重要だろうとも考え。

「島根県立しまね海洋館 アクアス」は、想像していた以上に楽しい場所だった。ペンギンの行進とシロイルカ(ベルーガ)のショーが特に良かった。
ペンギンを脅かさないよう、フラッシュなしで撮影したら、ブレまくった。
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シロイルカの技が凄かった。
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我々が見たものと同じような、ちょうど良い動画を見つけたので、貼っておく。

次に向かったのは出雲大社。旧大社駅にも寄ってみた。
とりあえず、願掛けさせて頂きました。
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稲佐の浜は車窓観光とした。
米子のホテルに投宿。


<4日目>
米子市内→美保関→水木しげる記念館→白兎神社→鳥取砂丘→鳥取市内泊

まずは、米子市内在住の「配偶者の友だち」に会いに行く。お土産を渡すなどする。
ベタ踏み坂にも行ってみた。
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その後、美保関灯台と美保神社へ。
灯台近くでの一コマ。雨もあり、隠岐の島は見えず。
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水木しげる記念館やロードへ。我が子は最近『ゲゲゲの鬼太郎』をよく見ているので、とても楽しかった様子。
その後は白兎神社と砂丘へ。あまりに寒かったので、神社は私と子供だけで参拝してきた。他は車で待機。ここで改めて「特急スーパーはくと」と「白兎」が「同じもの」であるコトに気づく。

2003年の1月、鳥取の地に住む大学時代の友人の新婚家庭を訪問したことがあった。鳥取はそれ以来である。当時、友人は鳥取空港まで車で迎えに来てくれた。そもそも、後述の「知り合い」の結婚式があり、そのために鳥取・兵庫を訪問したのであった。そのときは天気が良く、砂丘を駆け下りても問題は無かった。16年前の私。
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新婚家庭にて焼酎などを痛飲し、泊まらせてもらい、翌朝の「スーパーはくと」にて、神戸へ向かったのである。「スーパー吐くと」なんて、俺たちに似つかわしいなぁ、などと話したように記憶している。「はくと」は「白兎」だよ、という話の記憶は無い。鳥取空港到着後に、JRの駅まで友人に連れて行ってもらい、特急券を買ったはず。

話は現在へ戻る。
鳥取市内のホテルには16時過ぎには入ることができた。多少ゆっくりと過ごす。
テレビ「もしもツアーズ」で、ちょうど翌日に訪ねる場所を扱っていた。私は「えー混んじゃうじゃん」って思ったのだった。

<5日目>
鳥取市内→岡山(後楽園)→倉敷→岡山空港

夜の間に、それなりに雪が積もっていた。スタッドレスタイヤの車を運転するのは初めてだった。自分としては慎重に運転していたが、配偶者はさらに「慎重な運転」を要求してきたのだった。ま、それなりに運転。片側1車線の鳥取自動車道、反対車線では、バッチリと事故が起きていた。かなり渋滞が伸びつつあるようだった。自分の側で無くて良かった。
高速を下り、兵庫県(佐用町)を抜ける頃、雪は止んでいた。岡山の後楽園へ向かう。途中、図らずしてSpring-8の横を通過する。カーナビは「播磨自動車道経由」を示していて、それに従っていたらSpring-8に出会ったのである。この地は、大学時代に同じ「徒歩旅行サークル」に居た同級生が働いている場所である。ドクターであらせられるようだ。彼の(一度目の)結婚式は、神戸にて行われたのであった。

後楽園は「三大名園」ってことで、訪ねてみた。ま、庭園だった。
やっと「日本三大名園をコンプ」したことになる。大学時代に兼六園と偕楽園は訪問済。

その後、倉敷の街を少し散歩し、お菓子を食べたりした。15時には岡山空港、正式には岡山桃太郎空港へ。
天候のために飛行機の到着が遅れ、岡山空港発も遅れたものの、一応東京へ戻れた。

28億km離れた双子(四つ子?)

遠くの方
Uranus2

近くの方
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近くの方はここにある。


ちなみに、遠くの方は「天王星」である。太陽系の第7惑星ね。

この数年くらい、ずっとあの「薄緑色の球体(群)」を見るたび、何とも言えない感覚が生じていたのである。その感覚は「どこかで見たなぁ...」という思いだったのだろう。

イタリア旅行記 1

職場の修学旅行の引率で、成田からイタリアに向けて旅立つ。オランダはスキポール空港で乗り継いで、ローマのフィウミチーノ空港へ向かう。
私はカード会社の付帯保険狙いで、京成線は日暮里駅で乗車券を買おうとするも、「このカードはご利用できません」と、2度弾かれた。
あらかじめスカイライナーの指定席をネット経由で予約してあった。いずれにせよ、保険も増額されるはずではある。
何故カードを受け付けてもらえないのか、今ひとつ釈然としないものがあった。

折からの濃霧(と言っても差し支えないと思う)のため、出発は押せ押せになっていた。我々の乗った便は、搭乗が終わった後「離陸は15機待ちで動けない」との機内アナウンスがあった。最終的に離陸は予定より1時間以上遅れてしまったようだった。焦っても仕方のないところではある。生徒たちものんびりと映画を見るなどしていた。
乗り継ぎのスキポール空港において、当初の予定では到着から出発までは90分弱であった。遅延はそれより短いので、「なんとかなる」のだろうと考えた。実際、なんとかなるのではあるが。

私はなんとなく、飛行機に乗る時はコンタクトレンズを着用している。楽に動ける方が良いような気がして。目か乾くのは確かであるが。
近年、老眼が進行している。今回「-1.50」のコンタクトでも、手元が見えづらくなることが分かった。自宅に在庫がある「-1.75」は更に使えないことが分かっていたので、今回は使用していない。

飛行機の中では、以下の映画を見た。
『翔んで埼玉』
『ショーシャンクの空に』
『運び屋』
『カサブランカ』
離陸して1時間程度経過した頃と、着陸まで1時間半くらいの時に、機内食が出た。また、ほぼ中間地点で「ストロープワッフル」なるお菓子が出た。コストコのメール広告で見たヤツかも。甘くて美味であった。

前述のとおり、老眼が進行したことがあり、書籍を読むのはほぼ諦めた。そのために、過去最大の勢いで映画を見続けた。

『翔んで埼玉』は荒唐無稽で楽しかった。原作が『パタリロ!』の魔夜峰央とは知っていたが、読んだことは無い。原作は気が向いたら読んでみたいと感じた。

『ショーシャンクの空に』は、原作を読んだことがあるのだが、そのほとんどを忘れていた。主人公が独房から消えたくだりと、刑務所長の最後については、映像を見ているうちになんとなく思い出した。原作の題名は『刑務所のリタ・ヘイワース』であり、スティーヴン・キングとしては(?)中編小説に分類される作品群の1つだ。気が向いたら、また読んでみようと思った。
もう10年以上、スティーヴン・キングの作品は読んでいなかったりする。私は彼の作品に飽きたようである。
映画を見ていて『累犯障害者』を思い出すことがあった。
また、日本のニュースにおいて「出所後に再犯」みたいなニュースを見ることも思い出した。その状況に対する理解(?)が、ごく微かに深まったような気もした。

『運び屋』はなんとなく選んだ。
「クリント・イーストウッドは監督としても優秀だ」という話を読んだことがあり、選択したのである。
話の筋としては単純なのだが、面白かった。「実話にインスピレーションを得て作成」ということらしい。気が向いたらググってみることにする。(今は、オランダからローマへの機内なのである。暇つぶしに駄文を記してる。本も読めないし。)

『カサブランカ』は「ハンフリー・ボガート」という人名と共に、知識としては持っていた。
「昔の映画だなぁ」というのが正直な感想である。ハンフリー・ボガートは、別にそれほどかっこいいとは思わなかった。「瞳に乾杯」とか「そんな昔のことは...」という有名なセリフは、この映画由来だったらしいことを知った。

そんなこんなでオランダはスキポール空港に飛行機は降り立った。現地時刻で15:30到着の予定だったが、飛行機が停止したのは16:35頃であった。乗り継ぎ便は16:55の予定。
結局、ローマ行きの飛行機は、成田発の我々を待つために出発を遅らせ、17:25に動き出した。スキポール空港は巨大だった。

フィウミチーノ行きの便は、横6席の小さめな飛行機だった。我々数十名を載せずに飛ぶのは、飛行機会社としても、面倒なのは確かだろう。

イタリア行きの座席、隣人はイタリアはトスカーナの方だった(と聞こえた)。フレンドリーで穏やかな方だった。家族複数名で飛行機に乗っているとのことだった。
「どこから?」と尋ねられ、「東京です」と。「大きな町だね」と。
私の語学(英語)力の欠如により、会話はその程度で終了してしまった。

執筆現在時刻は、日本の丑三つ時を過ぎたあたり。
とりあえず、執筆(iPhoneでのフリック入力)を終了する。トイレ行こ。

生徒の8割方は寝ていた。
映画も音楽も供給されないので、寝るのが一番良いのであろう。私も16時間(乗り継ぎ含む)のフライトというのは、初体験である。
おそらく、あと20分程度でフィウミチーノ空港に着陸するはず。
今後の旅程の確認でもすることにする、真面目に。

イタリア旅行記 2

現地から適宜日記を記せると思ってました。暇な時間に。

が、何かの感染症にやられてしまったらしく、3日くらい下痢が続いていました。最初は「油っぽいものを食べ過ぎた」のだと思っていました。
二日酔いでもないのに、あれほど何も食べられなかった日々は、記憶にありませんね。結果的に痩せました。
思い返せば、2日目にローマ市内を歩き倒した後、妙に脚が筋肉痛になっていました。二万歩弱、革のブーツを履いていたとしても。

この修学旅行は、200名弱が3つの航空会社に分乗し、イタリアへ向かいました。
体調不良者が10名ちょっと出たのですが、2名を除いては皆「同じ飛行機」利用でした。私も同じ飛行機だった。機内では、喉の保湿も考えて、ずっとマスクをしていたのですけどね。

傘が無くなったり、スーツケースが割れたりしたのですが、とりあえず生きて帰ってきました。

イタリア旅行記 3

既に昨年11月末の話です。
以前のものにリンクを。
イタリア旅行記 1
イタリア旅行記 2

旅行記(の全て)はこちらにまとまっています。


イタリア修学旅行は、4泊6日でした。
ローマに投宿し、初日は終わりました。
長い一日で疲れました。修学旅行に行って毎度毎度思うのは、旅行会社の添乗員さん達のタフさ加減です。基本的には「好きでやっている仕事」であろうから、あれだけ動けるのだろうと思います。それにしても、タフです。

2日目は、終日ローマ市内観光でした。
そもそも、イタリアに行ったこと自体が、初めてでございました。ローマ市内は予想以上に地形が複雑でした。パリくらいの平坦さかと思っていたので。
ガイドさん曰く「7つの丘がある」らしかったです。
今、ググって知ったのですが、その「7つ」はそれなりに変遷があるみたいですね。「日本三大○○」みたいな、ある意味「いい加減な定義」なのでしょう。

まず向かったのは、真実の口でした。
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もっと街中にあるのかと思っていましたが、「川っぺりの辺鄙な場所」にあることを知りました。で、朝一番だったので「開場前?」でした。ま、現物を見られたからいいや。鉄格子越しだけど。

そこからコロッセオに向かいました。コロッセオは「思ったよりも小さい」という話を配偶者から聞いていました。が、「デカい」という話もある。私としては大きく感じましたね。よく、あんなものを2000年も前に作ったものだ。すごい。
基本的には石灰岩でできているようでした。が、現地ガイドの方は「大理石」というフレーズも発していました。しかし、大理石と呼ぶほど緻密には見えない。
この件も今、ググって確認しました。どうも、チボリ(ティヴォリ)で産出される石灰岩様の岩石のようで...。

コロッセオの近くに、なんだか趣深い丘があるなぁ... と、思っていました。その先がフォロ・ロマーノでした。

フォロロマーノの標高が低いあたりで撮影。
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建物が埋まったり、もっと埋まったり、掘り出されて剥き出しになったり... で、まだ埋まってもいるような... って感じの場所みたいです。インパクトがある一帯でした。ある意味カオス。
9時頃から11時過ぎまで、コロッセオとフォロ・ロマーノ付近の徒歩観光を行いました。

バスにて移動し、昼食は街中のレストランにて。4種のピザを食べました。美味しくいただきました。オーナー風の方は、めっちゃ日本人でしたね。現地ガイドさんとも、昔からの顔見知りだったみたい。約1時間の滞在でした。

またバスに戻り、スペイン広場やトレビの泉へ。スペイン広場は、私が所有していたイメージと、あまり変わりませんでした。トレビの泉は、想像していたよりもデカかった。薄っぺらかったけど。
念のため、ちゃんとコインを投げておきました。あんまり、生徒がコインを投げている姿を見なかったなぁ...。折角だから、やっておけばいいのに... って思いましたね。

泉の近くの提携店(?)にてジェラートを食し、お買い物などをしてバスへ戻ります。スペイン広場とトレビの泉で約2時間の散歩でした。天気も良くて、よかった。

泉から少し歩いたところにあるcoop(スーパー、組合員じゃなかったけど、使えた。日本でも同じか。)では、お土産のチョコレートや、自宅用のサーディンを買ってみました。
唐辛子の効いたサーディンは、フランスへの引率で会得した「お土産選択手法」を用いました。それは「きれいな陳列から、ちょっとだけ数が減っている商品を選ぶ」というものです。
「きれいに陳列されているけど、ちょっと数が減っている」ということは、「常に購入する人がいて、そこそこ捌けていく商品」である可能性が高いと考えます。

この年末年始、その際に購入したサーディンを、やっと開封しました。なかなか美味しかったです。改めてググってみたところ、ポラストリーニっていう、その筋ではちょっと有名な商品だったみたい。
日本語で紹介してるページがあった。阪急デパートのバイヤーさんの記事のようです。
イタリアフェア2014 チャオチャオ!ポラストリーニさんのオイルサーディン!! | 阪急うめだ本店・スタッフブログ

そのあとは、バチカン市国へ向かいました。
サン・ピエトロ寺院とバチカン博物館を見学しました。異常に豪華な場所だった。当たり前か。
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この像が、一番豪華だと感じました。赤い色をした石の「使いっぷり」なんかが。
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これは聖堂の正面。
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日が暮れた後も、バチカン博物館内などを見学しました。なんだかんだで4時間、徒歩で移動し続けました。最後には、システィーナ礼拝堂も入らせて貰いました。が、聖堂周囲の腰掛けに座ったまま、(一時的に)意識を天に召される生徒がちらほらと... いや、大量に。

私は『フランダースの犬』を思い出しました。

パトラッシュ、僕はもう疲れたよ...
場所が違うけど。


20:30頃に、ホテルにて夕食を摂りました。
この日も本当に長い一日だった。

イタリア旅行記 4

4泊6日の旅行の3日目。
ローマからフィレンツェへ移動しました。ローマ出発は8時少し前でした。270kmの道のりを、3時間半ほどかけて移動しました。

私は、バスの中で寒さを覚えていました。後から分かったのですが、何かのウイルスにやられていたのでしょう。その時は「やたらに寒いなぁ...」とだけ、思っていました。バスの中にいるのに、ジャケットに加え、薄めのダウンを羽織っても、まだ寒かった。

そんななか、フィレンツェはミケランジェロ広場に到達しました。
雨の中でした。本当に寒かった。
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でも、元気な生徒は雨の中、薄着で弾けて(?)いました。若いって、素敵だなぁ...。


若いと言えば、同じ職場の同じ教科担当、かなり若い同僚(♂)が居ます。
で、元カノ(この表現は、あまり好きでは無いが、彼がそう言っているから使う)とは、学生時代にイタリアに旅行したことがあったそうで。写真も見せて貰ったことがあります。卒業旅行だったとか何とか?
そしてどうも、今でも未練たらたらの様子なのです。スマホに、元カノの画像を持っています。

その中の1枚には、ミケランジェロ広場で撮影したものがあるそうです。見せて貰った。
その「仲むつまじき頃」と同じ構図で、写真を撮りたがっていました。別の女性教員(既婚者)を隣に据え、撮影してましたね。
私は思うのです。
何で、同じ構図で、写真を撮りたいのかなぁ... って。

私は、こっそりとこの場所で、彼の更生を祈るのでした。
復縁でも、「新カノ」でも、どっちでも良いけどね。


バスで移動して昼食でした。
イタリアを旅したわけですが、スパゲッティ的な乾麺は、結局一度も出てきませんでしたね。
この日はボロネーゼってコトでした。ニョッキが細長くなったみたいな感じのパスタでした。太さが5mm程度、長さが5cm程度、だったような気がする。が、具合が悪くなりかけていたので、記憶が定かではありません。何しろ、そのパスタを「全然食べられなかった」記憶が残っています。食べても美味しいと感じられなかったし。
この生涯、シラフなのに「食べ物を残した」なんて、ほとんどありません。それほどまでに体調が悪かったのでしょう。何しろ、食べられなかった。今更ながら、ビビるわ。

で、体調が悪かろうが何だろうが、生徒を連れて、徒歩移動を続けなければならない。
この昼食時、折りたたみの黒い傘も無くなってしまいました。ま、西友にて1000円で買った傘なので、とても「ありがちなデザイン」ではあるのです。それにしても、持ち物が無くなるのは悲しい。傘立てなんかに預けなければ良かった。

午後はウフィツィ美術館、ドゥオーモなどを見学しました。14時から17時過ぎまで、雨のフィレンツェを巡りました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボッティチェッリ などなどの、超有名な作品を見ました。ということは覚えています。自分で撮影するよりも、「ネット上で見る」方が綺麗だろうから、一切美術作品の撮影はしませんでした。ま、体調も悪く、そんな余裕も無かったのですけどね。


街中は「クリスマス仕様」になってました。
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このヴェッキオ宮殿は、映画『ハンニバル』の撮影に使われたとか。映画を見た記憶はあるけど、よく覚えていない。
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『冷静と情熱のあいだ』は映画も見たし、小説も読んだ。
ドゥオーモですね。
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18時にホテルに到着。
あまりに体調が悪かったため、夕食も摂らず(摂れず)、ひたすら寝てました。生徒の管理等は、他の先生方にお願いして。
25年前後教員やってますが、宿泊行事でこれほどまでに働けなかったのは、初めてでした。

現地の医師(めっちゃ具合が悪くなった生徒が看てもらった)の見立てによると、「行きの飛行機で『何か』を貰っていたのだろう」と。最終的には同じ飛行機を使った人々から、10名前後の体調不良者が出たのです。で、その1名が私だった。

イタリア旅行記 5

4泊6日の4日目です。
最終日みたいなもんですね。
一応、朝食にヨーグルトくらいは食べておきました。不調は続いていました。

その日はフィレンツェからローマに戻ります。途中、ピサに寄りました。
この日の見学ルートは選択制になっており、チヴィタ(チヴィタ・ディ・バーニョレージョ)とピサの二択になっていました。生徒たちは行動班(6名前後)毎に行き先を選択し、教員は適宜割り振られました。

私は心の中ではピサを希望していました。
が、特にその願いは披露するでもなく、「責任者の先生に一任」というカタチになってました。
成り行き上、その願いは叶いました。

チヴィタは『天空の城ラピュタ』のモデルでもあるとか、ないとか?
生徒は圧倒的にチヴィタ行き希望者が多かったです。
私は昔から、その存在を知っている「ピサの斜塔」を見たかった。で、見てきました。

まずは大聖堂に入りました。
ガリレオが『振り子の等時性』を見出すきっかけとなった(という説もある)ランプ。
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その後、洗礼堂も拝観しました。
斜塔前で集合写真。
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斜塔と大聖堂。
微かに雨は降りましたが、どうにかやり過ごした感じです。
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昼食はトマト味のニョッキなどでした。
朝よりは胃腸は回復してきましたが、やはり完食はできず。
全然大した量じゃ無かったのに。

その後は、時に右手に地中海を眺めながら、ローマへ戻りました。
夜はカンツォーネの演奏を生で聴きつつの夕食でした。
その後はホテルに戻り、帰国の準備をしました。


なお、チヴィタ見学グループは、下に示したような光景を見たそうです。この画像を撮影したのは、前述の同僚理科教諭(のはず)。
絵画でも、こんなに綺麗には描けないような...。
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イタリア旅行記 6

4泊6日の5日目以降についてです。
あとは日本に戻るだけです。

前日の晩に受け取っていた「軽食ボックス」の内容物は、十分に大量でした。胃腸の具合が徐々に改善しつつありましたが、サンドイッチなどを食べられず、ホテルの部屋に置いてきました。
フィウミチーノ空港から、再度3つの航空会社に分乗し、ヨーロッパ各地で乗り継ぎを行い、日本へ戻りました。
アムステルダムからの機内では、映画『真夏の方程式』を見たことは覚えています。面白かった。福山雅治はかっこいい。他にも何か見たような気もするのですが、忘れました。1ヶ月半前のことなので。

で、私自身は無事に日本に戻りました。また、徐々に胃腸の具合は回復していきました。が、帰りの便で、スーツケースをぶっ壊されました。

スーツケースの「キャスター」であれば、破損の責任は「自分」であることを知っています。
今回の破損は「ケース本体」に見えました。航空会社の責任だと思いました。しかし、成田空港のお兄ちゃんには「書類は出しますが、キャスターの破損のため、ご加入いただいている保険会社での対応となります」みたいなことを言われました。
航空会社の末端で働いているお兄さんと戦っても、あまり得るところは無さそうなので、というか、戦う気力も無かったので、引き下がりました。が、この破損の「させかた」は酷いでしょ。相当に酷い扱いをしなければ、こんなに割れないと思う。10cm以上、本体が割れてました。
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航空会社が選べるなら、今後「某KLM」は使わないでしょう。

スーツケースはカード会社の付帯保険に委ねました。ほぼ元通りになって、戻ってきました。広島の「第一ボデー」さん(と「りそなカード」)、ありがとう。輸送料等も不要で、3,000円ポッキリでした。(なお、厳密に言いますと「費用はカードから引き落としで3,000円だけ」と聞いています。請求はまだ来ていません。)

つーコトで、これにてイタリア旅行記を終わります。

この夏、初めて「荻窪中華そば春木屋」に行った。
四半世紀、阿佐ヶ谷・荻窪周辺に生息しているわけだが、春木屋には行ったことが無かった。

以前の同僚の「すごく食べる人」から、「荻窪でラーメンならば、やはり春木屋だろう」とも聞いていた。それも10年近く前かも知れない。
25年も荻窪周辺に居るのに、春木屋には入ったことが無かった。大体行列ができてるし、そこに並ぶのも面倒くさいので。

コロナ禍の中、旅行に出ることもできない夏だった。
夏期休業中ではあるが、仕事のために出勤することがあった。その「息抜き」として訪れたのである。小旅行のつもりで。
平日の開店直後を狙って行った。普段の平日は、職場を出ることができない。

一応、ワンタン麺を食べてみた。ワンタンの中にはニンニクが入っているようだった。
美味なのは確かであるが、食べログその他のコメントの通りであると感じた。安くは無いということだ。
また行くかと言われれば、特に行かないかなぁ...。
ラーメン二郎(荻窪店)の方が、行く可能性が高そう。そっちも2回くらいしか行ったこと無いけど。
また、RAMEN CiQUE(ラーメン チキュウ)の塩ラーメンも美味しい。やはり数年前に行ったきりだけど。

とりあえず、ずっと引っかかっていたコトを一つ片付けられたので、良かった。


同じく夏期休業中、阿佐谷ホープ軒にも久々に行ってみた。
店員さん、というか女将は、私が知る限りずっと変わっていない。その「お姿」もあまり変わらない気がする。あのお方は何歳なのだろうか...。
こっちとしては、女将は「知っている人」である。知っているが故に「(麺を)固めで」という依頼をしづらい気がする。そういうこと、無いっすかねぇ?

あの微妙に軟らかい麺は、多分「女将的にベスト」なのであろう。20年以上、そのお姿を拝見しているために、こっちが勝手に「知り合い」みたいな感覚を持ってしまっている。そして「麺固め」という一言を遠慮してしまうのだ、何となくね。
何度かは「固め」をお願いしたことあるけど、今回は言えなかったのである。
固ゆでの味玉も好きだ。
昼だったので、ニンニクなどは投入しないで食べた。職場に来客があるかも知れないし。

阿佐ヶ谷・荻窪周辺のラーメン店だと、やはり一番好きなのはホープ軒かなぁ...。

海産物ベンチマーク

肉と魚、どちらが好きかといえば、魚である。
というか、肉が嫌いだ。

旅行に出るのは、それぞれの地の特産物を食べるためでもある。もう1年以上、旅行に行けていないけれど。
で、昔話を記してみる。

1989年の夏と秋、東北及び北海道に旅行した。大学の徒歩旅行サークルの合宿にて。1年生だった。
それぞれ、1週間かけて徒歩で移動した。夏は十和田南駅から竜飛岬まで、秋は摩周駅(当時は弟子屈(てしかが)駅)からサロマ湖畔は「サロマ湖口灯台」まで。

夏の旅行で、人生で初めて出会った海産物があった。ホヤである。酢の物になっていた。青森県でのこと。
人生で最初のホヤは、非常に新鮮で臭みのないものだった。
私の中のホヤの基準(ベンチマーク)は、約30年前に設定されたのである。

秋の旅行で印象深かったのはホタテである。
常呂(ところ)の宿だったと記憶している。その宿に到着する日の夕刻、夕立に襲われた我々は、強烈に美しい虹を見ることになった。能取湖(のとろこ)を過ぎ、常呂に向かって緩やかな坂を登っていた途中だった(はず)。その虹とホタテ(刺身とシチューだったはず)は、東京では「出会えない」ものたちであった。

また、サロマ湖畔の「竜宮荘」では、(鮭の)ルイベをしこたま頂いたのである。ルイベは「凍ったままの刺身」である。なにしろ「食べきれないほどのルイベ」が出てきたことを覚えている。エビも大量にあった。
その竜宮荘での宿泊は、合宿最終日だった。そのため、無駄に酒を飲み続けた。そういう伝統(最終日はひたすらに飲酒する)だったのである。
男子の小便器にゲロを吐いた同級生(そいつも私も未成年だったけど)が居た。私は介抱しつつ、トイレ掃除をしたようなしないような...、自分も掃除をできる状況ではなかったような...。

在りし日の竜宮荘をネット上に発見した。
1994年北海道ツーリングその3

あれ以降も、ルイベはほとんど食べたことが無い。
そもそも、最近は「(生)サーモン」もそこら中で食すことができるので、ルイベの「ありがたみ」も相対的に低下している気はする。
なにしろ印象深い場所・宿だった。

その翌年の9月末~10月には、九州に行った。キビナゴの刺身も食べた。
特においしいとは思わなかった。酢味噌で頂いた。ネット上を見る限り、秋口は旬とは言いがたいらしいので、仕方ないのかも知れない。
九州では、ほとんど海産物の印象が無いなぁ...。

サヨリとシャコが特に美味しかったのは、中国は大連である。
大連は海産物が全般的に美味しいので、また行ってみたいと思う。
ナマコも何度も食べた。彼の地では高級品であったようだ。(自分では支払っていないので、よく分からない)

2022年1月6日、車で移動する必要があった。午後から夜にかけて、南関東はかなり雪が降った。
車はノーマルタイヤで、(常に)チェーンを積んでいる。


首都高の出入口、「長い急斜面」として私が認識しているのは、小菅と王子北である。どちらも中央環状線の「高い方」に繋がっている。
改めて地図を見てみた。小菅は外回りの入口、王子北は内回りの出口だった。

で、その(南関東としては)大雪の日の午後、東北道の上り線から自宅へ向かっていた。通常、首都高は扇大橋で降りるのである。直前のジャンクションは江北JCTである。そこを直進するつもりだった。時刻は15:30少し前だったはず。雪がそこそこ強めに降っていた。
すると、江北JCT直前の電光掲示板に「扇大橋出口閉鎖中」(だったはず)という文字列を見る。

急遽、右車線へ移動し、江北JCTを右方向へ。中央環状線内回り、池袋・新宿方面へ向かう。
中央環状線外回りをそのまま進み、「扇大橋」の次の出口である「千住新橋」へ向かうよりも、中央環状線の「王子北」の方が楽に帰宅できるからだ。
20220108.png
赤い矢印が「予定していたルート」・青い矢印が「変更後のルート」

王子北のランプの斜面は吹きさらしになっていて、やたらと長い。その斜面にはカーブは存在しない。
試しにブレーキを強めに踏んでみた。微妙に路面が凍り付いていたのだろう、簡単に滑った。ハンドルも微妙に取られた。ABS(Anti-lock Braking System)の動作を確認することができた。「ゴゴゴゴゴッ」って。ABSは素晴らしい技術ですね。

扇大橋でも、路面が凍り付いていて、追突事故が起きたのだろうと理解した。


今朝方(8日の午前)に知って驚いた。あの晩は最悪で10時間以上、首都高では立ち往生が続いたらしい。板橋JCTから江北JCTまで、7kmにわたって路面が凍結していたとか...。
確かに、特に江北JCTの手前、荒川を超えるところは風が強い。路面も凍り付きやすかろう。

そういえば、6日の晩の首都高のサイト、中央環状線の北側は真っ黒(通行止)になっていたっけなぁ...。


あの電光掲示板を見落とすか、無視して直進していたら、私も数時間の足止めを食らっていた可能性がある。あるいは扇大橋出口の下り坂(こちらも短くはない)で追突事故を起こしているか。
幸運だったのだろう。
あの午後から晩にかけて、東京だけでも600件を超える事故があったとは聞いていた。


雪道のスタッドレスタイヤ、一度だけ体験したことがある。山陰山陽旅行の際にレンタカーで。
あの安心感と、(自宅の車の)夏タイヤの不安定さ。本当に雲泥の差である。両方体験できて良かった。

こんにちはヘロン

ひと月以上前、清澄庭園に初めて足を踏み入れた。時間つぶしをする必要があったので。
そこに入り、案内書を見て知った。「都立文化財9庭園」なるカテゴリーがあることを。
私の訪問順に、その9庭園を記してみる。

六義園:約35年前、高校に近かったので、何故か合唱部メンバーで散歩
殿ヶ谷戸庭園:約30年前、大学の近くにあり、その旅行サークルの散歩で
浜離宮恩賜庭園:約30年前、同じく旅行サークルの散歩で
旧古河庭園:約20年前、バラを見に
清澄庭園:今回初訪問
小石川後楽園:未踏破(近くは何度も通過)
向島百花園:未踏破(近くは何度も通過)
旧芝離宮恩賜庭園:未訪問
旧岩崎邸庭園:未訪問

そのうち、行ったことない庭園にも行ってみようと思った。


で、清澄庭園を巡っていたら、見慣れない鳥を発見した。
grey_heron.jpg


近年、我が家では鳥を飼っている。
飼い始めるまで知らなかったが、彼らは同じ種であっても、それぞれ性格や頭の善し悪しがあり、感情や意志がある。
私は相当昔に犬や猫と生活したこともあるが、鳥もなかなかに可愛く、世話の焼ける生物であることを知った。
以前はバードウォッチングという趣味?について、私はココロのひとかけらも理解できなかった。しかし、今は理解できる気がする。鳥の動作も可愛い。知らない鳥がいたら、名前を知りたくなる。で、スマホにアプリを入れてみた。iPhone・Android両対応とのこと。
https://merlin.allaboutbirds.org/
アカウントを作成しなくても、アプリは一応使える。

で、インストールから数ヶ月、やっと「それ」の出番となったわけである。
上記画像の比較的大型の鳥、和名をアオサギというらしい。で、今ググってみたら、スタジオジブリの『君たちはどう生きるか』の主要登場人物であるとか...?
私は、スタジオジブリのその映画は見ていない。あまり興味も無い。家族は公開直後に見に行ったようだ。私は鳥の世話のために留守番をしていたのだ。
まぁ、私は吉野源三郎の書籍で十分だな。そのコミカライズ版も読んだことは無いッス、不要。


で、アプリを利用していて、アオサギはヘロン(グレイヘロン)でもあることを知る。
ヘロンと言えば、山下達郎の歌だ。
このツイートのような話、私も日曜のラジオで聞いた記憶がある。

「これ」が、「それ」かー、と。
ということで、少し寒い秋の日、すごーく印象深いことがあった、という報告でした。

模擬凝灰岩(大谷石)

北千住のマルイ、レストランフロア。行く度に感動してたので、画像を撮影してきた。

すべてのフロアを回ったわけでは無いのだが、このマルイの内装には、大谷石が使われている箇所がある。大谷石は栃木県の宇都宮市大谷町で採掘される岩石である。一般的には凝灰岩と呼ばれる、火山灰が堆積・固結して生じた岩石である。柔らかい、というかとても脆い岩石である。結構都内でも家の塀などに使われていたりする。水に晒される場所に使うのは、風化していくので危ないと思うけど。
大谷石は帝国ホテル(旧館?)の装飾にも使われていたそうで。私は実物を見たことは無いけど。

で、マルイ内部の画像。(クリックでデカくなる)
kitasenju_fake_tuff.jpg

職業柄(?)、勝手に視線が岩石方面へ向かってしまうことが多々ある。で、「石を模して描かれた」ものにも、当然興味を持つ。「よく描いてあるなぁ」って思えるものもあれば、「これだったら、無理に石の模様を施さず、普通に塗料をべた塗りで良くないか?」と思う場合もある。

この北千住マルイのレストランフロアのトイレ周辺、消火栓と非常階段の扉が見事に大谷石のようになっている。
この作品は過去に見てきた中でも、相当完成度の高い作品だと思う。大谷石表面の削り跡に由来する凹凸の陰影までは、さすがに再現しきれてはいない。しかし、それを除けば完璧であるように思える。

道に迷いかけたのは、九州の「えびの高原」は韓国岳でした。
国土地理院の5万分の1地形図を持っていたから、きちんと帰ってこられた。

その事故が起きたのは、大学時代の徒歩旅行サークルでのことでした。オプション?で行った散歩中。
えびの駅(旧加久藤駅)から7日かけて佐多岬まで歩いた旅行でした。その1日目は、「えびの駅」から「えびの高原」までの移動でした。その旅行ルートを立案したのは、大学2年だった私でした。今でも、その際に用いた全国版『マップル』は保管してある。捨てられない。
年に3回ある徒歩旅行合宿は、旅行の立案者がプレゼンをして、多数決で決める形式でした。概ね1日で20km強~40km弱程度歩くので、「適切に宿泊施設があること」が必須条件でした。そういうスタイルのサークルだった。テント等は使わず、「道の果てるところ」すなわち(基本的には)岬がゴールでした。あのサークルの人間は、絶対に『岬めぐり』が歌えるのだった。

徒歩旅行の合宿は夏・秋・春の年3回ありました。その九州での合宿は秋合宿でした。
大学1年と2年だけが「秋休み(9月半ば~10月末)」に旅行に行けるのです。3年次以降は教育実習が「秋休み」に行われるため、旅行には行けません。1~2年次は年に3回の合宿があり、3~4年次は2回。フルに参加すれば10回の合宿に参加できます。「10回完歩」というのが、そのサークルにおける『名誉』でした。学年で一人居るか居ないか。ま、旅行費用が一番のネックでしょう。概ね学生の半数は下宿生(地方出身)であり、メチャ裕福という場合は少ない。
自分の学年(7名だった)では、誰も成し遂げられなかったはず。私は4年の夏合宿だけは不参加だった。卒論を作成する必要があったから。私が知る限りの先輩後輩で、理科所属の人間で10回完歩は居なかったはず。
なお、10回完歩、自分の1~3コ上の学年には達成者がいらっしゃったはず。みんな社会科だったかも。

説明が長くなった。
1990年の秋合宿初日は、前述の通り「加久藤駅」~「えびの高原」でした。20kmも無いので、5時間ちょい(昼休憩含む:昼食のお弁当は宿に予め依頼しておく)の移動でその日の行程は終了。
宿に着いてから、私ほか3名の男子で「近くの山に登ろう」ということにしたのです。後で同級生に怒られるのですが、出発の段階で16時を過ぎていました。なお、今ググってみても、えびの高原には民宿がありません。35年前には存在していたのですけれど。

で、以下の赤線のルートで韓国岳へ登りました。帰りも同じルートを戻るつもりだった。
karakunidake.jpg

最終到達地点でのショット。同学年の腐れ縁の友人と共に。風が強くて寒かった。
1990kirishima.JPG
高千穂峰や新燃岳が見えました。当時、新燃岳という名称は知らなかったけど。高千穂峰は『山』って形でした。神々しかった。韓国岳火口の断崖絶壁も凄かった。私の生涯で、あれほど断崖に近づいたことはありません。ほぼ垂直な崖が100mくらいあったはず(国土地理院の地図による)。そこを覗き込んだりしてました。

で、前述の通り「同じルート」を戻るべきでしたが、降りるルートをサクッと間違え、青で示したルートを進んでました。しばらくして道が違うことに気づいた。
徒歩旅行サークルでは、基本的に「全徒歩行程」について、5万分の1地形図を持つのが「しきたり」でした。神保町や新宿にわざわざ買いに行ったりして。ま、時に買わない人も居たみたいだけど。
地図を持っていて、良かったですね。割と早期に間違えた理由(往路と異なる箇所で山頂を離れた)と、帰るべきルートが把握できたから。

そのミスコース途中の傾斜が緩やかな部分、「何しろ、急いで歩けば宿だ」と思って小走りで移動していたところ、山側(右側)から「ガサガサ」って謎の音が聞こえました。明らかに我々4人とは違う生物が、笹藪の中に居たはず。
私は声を張り上げたか、歌でも歌ったはずです。あの生物は何だったのだろう。落ち着いてから尋ねたが、友人達は気づかなかったと言っていた。

ま、最終的には18時過ぎ、結構暗くなってから宿に戻れたのですが、携帯電話も無い時代、サークルのメンバーには、大変心配をかけてしまいました。「16時過ぎに山に登るなんて、あり得ない!!!!」と山好きの同級生に怒られましたっけ。
なお、宿のおじさんからは「高千穂峰が見えたんだ、良かったね」的なコメントを貰いました。韓国岳に登っても、常に高千穂峰が見えるわけでは無かったらしいです。


先日、2023年の「山行遭難者」についてのニュースを見たので、この話を思い出しました。
記したことがあったと思っていたが、特に記していなかった。


過去の関連する日記
(東)桜島魂不屈の心(2016年4月)
まわるまわるよ時代はまわる(2016年6月)

8月15日というのは、特殊な日であると思う。自分としては、一番厳かにしていないといけない気がする日である。

オリンピックで卓球日本代表だった早田氏が知覧に行ってみたいと仰ったというニュースを見た。私も知覧には行かなければならないと思っている。
本来、私は約2年前、知覧に行っているはずだった。職場の修学旅行の引率で。


私の職場では1つの学年が高2の冬、複数コースに分かれて旅行へ行く。私は「1コースの責任者」ということになっていた。「運営委員の生徒」とか旅行業者さんとかと、1年以上にわたって準備を進めた。私が担当したのは、霧島・鹿児島・桜島・奄美大島など、鹿児島県を回るコースだった。で、知覧も研修先の一つだった。
多分、そのコースに行く教員・生徒の中では、一番事前学習をしたのが私だったはずだ。当たり前だけど。


引率が予定されていたが、家族の体調に不安があった。
キャンセル料が本格的に発生する前、5日間の引率ができない旨を、学年主任の先生に伝えたのだった。大変申し訳ないことをした。私のわがままの影響で、玉突き的に引率先が変わってしまった先生もいらっしゃった。

私自身も、旅行を楽しみにしていた。しかし、家族あっての自分である。
そのようなわけで、いつか知覧には行かねばならないと思っている。

こちらの動画は、多分3回くらい見たかな。基本的には映画のプロモーションみたいだけど。


ついでに言うと、長崎県は平戸の柱状節理も見てみたいと思っている。
平戸は四半世紀前に、やはり修学旅行の引率で行ったことがある。市街地しか行っていない。平戸という地を知った後、そこに有名な柱状節理の海岸があることを知ったのだ。

このような看板を見た。
rikkyo1.jpg

拡大する。
rikkyo2.jpg
立教通りです。

いつの間にか、立教通りの池袋寄りが一方通行になっていた。
ま、その方が安全でしょうね。

で、さっきの看板は、この場所にある。
rikkyo3.jpg
正面は結婚式場ですね。割と昔からあるなぁ...

このコインパーキングは、池袋駅方向へ向かう「新しく設定された一方通行」の途中、右側にあります。
その駐車場を使う時点で、その場所が一通にあること、分からないはずは無いんですよね。普通に考えたら、看板は不要でしょ。余程ラリッていれば別かも知れないけど。

看板が余っていたのかな?
あるいは、警察が杓子定規だからこそ?


立教大学は、実家から歩いて30分ちょいだ。
実家と池袋を結ぶ最短経路は立教通り経由となる。

私が中学生の時、池袋への主な移動手段は自転車だった。土曜日の午後にゲーセンに行ったりして。立教通りの先、山手通りの外側は郊外方向(実家側)への一方通行になるが、自転車ならば逆走しても許される。

私の実家、相当昔は風呂無しアパートを併設していた。四畳半だか六畳だかが数部屋あった。
立教の学生が多かったと聞いた。立教大学(の学生課?)に広告を出していたとかなんとか? しみじみ考えると、日芸(日大芸術学部)や武蔵野音大の方が近いのだけど。
一度、夜中に麻雀の音がうるさくて、困ったことがあったはず。父親がたしなめに行ったのだったかなぁ...


自分の職場には、パラパラと立教大学出身者がいる。
愛校心強めである気がする。いいね。

私の未踏県2つ(もしくは4つ)

記憶の範囲では、私は山形県と大分県だけは、足を踏み入れていない。
それらの地についても、飛行機にて上空を通過したことならばありそうではあるが。


47都道府県について、その踏破履歴を記してみる。
宮城県と福井県については、電車に乗って通過しただけであるはず。そういう意味では、その2県も一種の未踏かも知れない。青春18きっぷを使うことにより、列車の乗り換えに際して駅のホームに降り立った可能性はある。
三重県は、下記「大学2年春徒歩旅行サークル」の帰路でただ通過したまま、長らく放置(?)していた。しかし関西への家族旅行、長時間の車移動の際に湾岸長島パーキングエリアで休憩し、地面に触れた。
岐阜県は中学時代の修学旅行で通過したのが「初対面」であった。そのときは地面には触れなかった。後に、大学の徒歩旅行サークルの移動にて「大垣行き夜行列車」を使った。その際には地面に足を下ろしたことになる。結局、「大垣行き」は4年の間に2回乗ったはず。ま、もう体験しなくて良いかな。大学1年春の(徒歩旅行スタート地点としての)目的地は名古屋、大学3年夏が広島だった。名古屋(厳密には熱田神宮)からの徒歩旅行は、私(たち夜行組)にとっては夜行明けからの旅行開始だったはず。
滋賀県も中学時代の修学旅行、新幹線にて通過しただけだった。しかし、大学2年次に「彦根出身の同級生の実家」にお世話になった。かなり印象深い土地だ。熊さんは元気かなぁ?
長距離バスは生涯で一度しか乗ったことが無い。大学2年の春に、東京から和歌山までの移動で用いた。私の2学年上、とてもお世話になった「小学校理科」の方々などと一緒に、複数名で和歌山に向かった記憶がある。このときも夜行明けからの徒歩旅行開始だった。

0歳~あまり記憶の無い頃(父母の実家は東京と茨城)
東京都・埼玉県・千葉県・茨城県

小学校入学前後(父方のきょうだいが住む土地)
栃木県・群馬県

小学校~中学校の頃(移動教室や家族の旅行など)
山梨県・神奈川県・静岡県

中学の修学旅行(新幹線で京都・奈良へ)
愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・奈良県

高校の部活の合宿(夏のスキー場へ)
新潟県

大学1年夏徒歩旅行サークルにて(十和田南~竜飛岬)
福島県・宮城県・岩手県・秋田県・青森県

大学1年秋徒歩旅行サークルにて(弟子屈(現:摩周)~サロマ湖)
北海道

大学1年冬上記サークルの人々とスキーへ(斑尾高原)
長野県

大学2年夏徒歩旅行サークルにて(雨晴~禄剛崎)
富山県・石川県・福井県

大学2年秋徒歩旅行サークルにて(加久藤(現:えびの)~佐多岬)
大阪府・兵庫県・岡山県・広島県・山口県・福岡県・佐賀県・熊本県・宮崎県・鹿児島県・長崎県

大学2年春徒歩旅行サークルにて(和歌山市内~潮岬)
和歌山県・三重県

大学3年夏徒歩旅行サークルにて(広島市内~青海島)
島根県

神戸での友人の結婚式の際に
鳥取県

(複数回の)家族旅行で
沖縄県・徳島県・香川県・愛媛県・高知県


単なる備忘録ですな。
大学時代に徒歩旅行サークル「伸歩会」に所属できたことに感謝しています。

ここにあるのは、過去に書かれた日記のうちで旅行記カテゴリに属しているものです。

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