宗教と汎神論 の日記群

宗教と詐欺の境界は何処?
ヒトは何らかの宗教-例えば国家-の信者に過ぎないのではないか?
私はその宗教に守られた教師という職業のもと、勝手に喋る。

宗教と詐欺の境界は無い。
正気と狂気の境界は無い。
存在するのは自分の意識。

「911テロ」から一ヶ月

私は幽霊の存在を信じないのであるが、同じくその存在を信じていないのが「罪のない市民」てヤツである。まして、アメリカのヒトビトが自分たちを称して言うとしたら、片腹痛きこと此の上ない。
アメリカ合衆国にしても、日本にしても、西ヨーロッパの国々にしても、基本的に他の国に棲むヒトビトに対して搾取を行うことにより、かろうじて生きていることを忘れてはならないハズだ。私のこの電力消費(パソコン使用・ページ作成等)も恐ろしくエネルギーを必要としているのだ。その源は石油かも知れないし、天然ガスかも知れないし、ウランの核分裂かも知れない。産油国・産ガス国・産ウラン国から「日本¥EN」でむしり取ったそれらのエネルギー資源を原料として、富津や東海村や福島県や新潟県柏崎あたりから送られてくる電力で私は生きながらえている。これを搾取といわずして何と言おうか?国外においては、間接的に危険な労働を強いているわけであろう。また国内においても、特に原発近辺のヒトビトの生活を脅かしつつ、私は東京でぬくぬくと暮らしている(同意の上の搾取?)ワケだし。

例えば「オウム真理教」。彼らは「罪のない市民」を殺したのだろうか?ああいった邪教を含め、私は特に宗教に関心を持たない。が、それらに入信することにより、ココロの平穏を保てるヒトがいることは事実であろう。そんな日本というクニの一部に所属している以上、日本に住むヒトは、「(ごくかすかに)オウムを生む環境を生んだ」という罪を被らざるを得ないのではないかと考える。「霞ヶ関」を狙ったってのは、オウムのヒトビトが何かを主張したかったのであろうよ。

イスラム過激派が世界貿易センタービルを狙ったってのも熟慮の上なのでありましょう。それを忘れてはならないと思うのだった。そして、日本をテロが襲った場合、それに巻き込まれて死んだとしても、甘んじて受けるしかないであろうと思う私であった。生き延びる努力はするでしょうけど。

昨日、TBSは911テロの特番を見た。
以前に聞いていたような気はするが、改めて「へぇー」と思ったコトが2点ある。

その1: テロ以降、中東でのアメリカ軍の戦死者数が、アメリカ同時多発テロでの死者数を超えた。
その2: グラウンド・ゼロでは、死者がヒーローとして扱われている。

「その1」について。
米軍の死者が5000人を超えたとか何とか。5000人の死(一説には2006年8月時点で12000人超とも?)というのは、そう簡単に想像できない。怪我人の数はもっと多いわけだ。
5000円を使うのは楽だが、5000人が死ぬってのはどういうコトなのだろう。みんな死にたくなかったハズだ。まあ、他人を殺したいという願望を持ったヒトはそれなりに居たのだろう。そういうヒトは、殺されちゃっても仕方ないと思う。しかし、お金が無く、何とかしてアメリカの市民権を得ようとし、中東へ向かったヒトも居たのだろう。キビシイなあと思う。

「その2」について。
グラウンド・ゼロの映像が流れていた。特にナレーションやキャプションは無かったのだが、テロの被害者リストとなっている石版?には、確実に"Hero"の語句が彫り込んであった。テロの被害者達、全然ヒーローじゃないと思うんですよねぇ。


私がどうしても好きになれないフレーズに「罪のない市民」ってヤツがある。そのコトについては、"September 11th"の1か月後にも記している。


最近、酔っぱらい絡みの痛ましい事故報道が多い。橋の上で停車していたら、酔っぱらいの運転する車が突っ込んできて、車内の子供が被害を受けた、とか。この場合ならば、事故の被害者である子供を「罪のない子供」と呼んでも、「ほとんど」差し支えないと思う。

「因果応報」という言葉がある。あるいは「情けは人のためならず」って諺もある。自分の行いってのは必ず周囲に影響を与えるものだし、自分の周囲の現象ってのは、自分自身に何らかの原因があるのだと思います。
ヒトは結構弱いものです。長い人生、一時的には「因果応報」みたいな考えに凝り固まってしまうこともあるでしょう。その弱い心や不安に思う気持ちにつけ込んでいるのが「宗教」という存在なのだと思います。昨今流行の「スピリチュアルカウンセラー」みたいな輩も同じようなものでしょう。
現在は「古典的」と思われているような宗教、例えば三大宗教であっても、基本的には「ヒトの弱い心」につけ込んで発展してきたものであろうと思うのです。

べつに宗教論を打つのが目的ではなかった。


アメリカは世界中から搾取を行ってる。だから、アメリカに生まれたって段階で、そいつらは罪を背負っていると言えるはずです。ましてや、「ワールドトレードセンター」ですぜ。搾取の国の聖地じゃないですか。
そんな場所に勤務している段階で、立派に「罪」だと思うのですよ。
ってか、ヒトとして生まれるコト自体が罪深いとも言える。まあ、ヒトとして生まれるコトができたってのは素晴らしいとも言えるのだが。


文句ばかり言っているが、日本って国はアメリカ軍の世話になっているってのも確かでしょう。そんな私は働いては税金を支払い、税金を集めた日本って国は、せっせとアメリカドルを買い、アメリカの市民はせっせと借金を増やして優雅な生活を送っているのですねぇ。
現代社会に生きるというコトは難しい。

で、繰り返すが「罪のない市民」という三人称複数形(?)は存在しない。

訳者は垂水雄二という方らしい。
原題は"THE GOD DELUSION"というそうである。
直訳するなら『神という妄想』なのであろう。

リチャード・ドーキンスというヒトの名前は、前から知っていた。しかし、その著作(の日本語訳)は読んだことがなかった。昨年以来『神は妄想である』の書評を何点か眼にしており、面白そうだと思っていたので読んでみた。図書館への返却期限を2週間も過ぎてしまったが、読破した。

面白かった部分はたくさんある。しかし、含蓄に富んだ短文というと、ドーキンスによる「引用」になってしまうのだ。つまり、それらを引用すると「孫引き」になってしまう。あまり適切なコトでは無いだろう。なので、控える。

この本を読み、改めて認識した。私は多分、無神論者なのだろう。
初版の34ページから。

汎神論者(pantheist)は、超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない<自然>、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として扱う。

過去の日記に於いて、ワタシは上のような意味で「神」って使っていた、確かに。

とりあえず、ひとつ「へぇー」と思ったこと。
457ページから。

親類縁者を含めた一つの拡大家族全体にとって記念碑的な重要性をもちうる儀礼にしては驚くべきことに、カトリック教会は、どんな人間がどんな人間に洗礼をほどこすことも許していた(そして今でも許している)。洗礼をほどこすのは司祭でなくともいいのである。その子供も両親も、他の誰も洗礼に同意する必要がない。何一つ署名されることもない。何一つとして正式に目撃される必要がない。

その結果(?)19世紀半ばに、ユダヤ人の父母のもとに生まれた子が、知りあい(少し年上の女の子)に勝手に洗礼され、その瞬間から意図せずに「カトリック教徒」になってしまったがために、両親から引き離され(拉致され)、カトリック教徒として教育(監禁)される羽目になったのだという。
ワケが分からない。まあ、宗教による醜悪なデキゴトの極致として、この(結構有名らしい)事件が紹介されているのではあろうが。


リチャード・ドーキンスというヒトが、宗教に敵愾心を燃やすのは、以下の理由が最も大きいらしい。
451ページから。

より一般的に言えば(そして、これはイスラム教だけでなく、キリスト教にも同じようにあてはまる)、本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らに -手に入れることがむずかしくないいくつかのその他の要素が与えられれば- 、将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器(リーサル・ウェポン)となるべく育つ素地を与えることにほかならない。(中略)そして子供たちは、その教えを、かならずしも狂信的な過激主義者によってではなく、まっとうで穏健な、正統的な宗教指導者から教えられる。(中略)信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである。

なるほどなぁ、という感じだ。
ワタシは宗教的に非常にいい加減な「現代日本」に生まれ育ったので、宗教の害というものに出会うことは少なかった。そして、特定の宗教を信奉しているわけではなく、普通に自然科学の勉強をしていったから、この本を手に取ったのだろう。

この本を読んでいる間、何度も「愛国心」教育や、「道徳」というモノについて、考えることになった。
かなりの大部であるが、面白い本である。

Change the World

世界は変遷を続ける。私が生業としている「教育」ってヤツは、その触媒として存在していると考えている。

ニホンの場合、その目的は以下の通りらしい。
教育基本法から。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


今日は本の話。

この本は世界を確実に変えたのだろうなぁ...ってヤツ、いくつかある。ってか、とりあえず2つ思いつく。
文学作品は、マイルドに世界を変容させるが、ノンフィクションやルポルタージュは、文学作品に比べると、世界をゴリゴリと変えていく気がする。


例1 高柳 泰世 『つくられた障害「色盲」』

高柳氏の著作、単行本は1996年5月に出版されたようだ。
私は以前も記したが、生まれ年によっては、教育学部にすら入れない可能性もあったようだ。そんなこと、全然知らなかった。高柳氏を中心とした勢力が、地道に運動を続けてくださった結果、徐々に「色覚」に関する入学制限が撤廃されていったのだろう。私は「のほほん」と大学へ入った。この本を読み、私は素直にありがたいと思った。高柳氏がいらっしゃらなければ、私は此処にはいないのだ。間違いない。
この本は、しばらく書店を探していたのだが、発見できなかったので、昨年4月に Amazon で購入したのだった。Amazon での書籍購入初体験であった。読んだのは夏休みだったかな?


例2 村上 春樹 『アンダーグラウンド』

この本は、本日読み終えた。村上氏の著作は、昨年末まで「物語」か「旅行記」あるいは「エッセイ」しか読んだことがなかった。
何となく『アンダーグラウンド』は避けて通ってきたのである。とりあえず分厚い(つまり高価である)し、オウムを含めた宗教にはあんまり興味がないし。また、私は勝手に「村上春樹というヒトはノンフィクション(ってジャンルで良いのかしら?)に似つかわしくない」なんて思っていたからでもある。
で、『アンダーグラウンド』、ブックオフかどこかで眼にしたので、昨年秋に買ってみた。
彼の誠実な伝達作業によって、何かが救われ、何かが新たに始まり、多分微かに何かが損なわれたはずだ。なお、「損なわれる」というのは、村上氏が作品の中で、よく用いるフレーズである(と思う)。

私は、決して、オウムを「対岸」とは思わない。それは、過去に日記で書いたとおりだ。最低でも1億数千万分の1以上、つまりニホンの構成員の一人として、その形成には責任があると思っていた。

私は、そこそこ村上氏の作品は読んでいる。
この本を読み進めていると、時々『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が思い浮かんできた。「あとがき」(なのかな?)を読むと、筆者もそういった思いを抱きつつ、この本を作ったようだ。
村上春樹の愛読者なら、この本 "も" 読んだほうが良いと思う。読み物として面白い。

「あとがき(?)」では、彼自身「何故、小説を書くのか」という点を自問自答していた。その解答(?)にスティーブン・キングとの類似性を感じた。
当然(?)だが、私との類似性はあんまり無い。私は一応、教員としては生きてる、今のところ。そして、小説家になるのは難しそうだと、改めて思った。


『約束された場所で―underground 2』とやらも、「読む本リスト」に加えた。

この1年くらいかしら?、"パワースポット"ってコトバは、私の「エセ科学センサー」に引っかかる。

2009年2月9日現在、"パワースポット"についての日本版ウィキペディアの記述は、石石混淆って感じだ。
この"パワースポット"、「出典を必要とする記事」と「オカルト」ってカテゴリに分類されている。良い傾向ですね。
powerspot.gif

こういう「エセ科学」は、中途半端に科学的な語句を織り交ぜることによって成立する。理科に弱いと、いろいろ騙されるッスよね。"パワースポット"って、言い出しっぺは誰か知らないけど、今は観光業界が促成栽培の柳の苗を植え、ドジョウの稚魚を放流して待っているように思えます。
分かりづらい比喩ッスか?

なお、経済に弱くて欲が深いと、ネズミ講に引っかかりますな。
そして、うかうかしてると、私のような教員・ここ ariori.com のような変なサイトに騙される。意識的に騙しているつもりはありませんが。


見た目が神秘的、というか、無神論者であるはずの自分が「神々しさ」を感じた場所、いくつか思い浮かびます。
日本で無理に絞ると、摩周湖(画像ググリンク)と高千穂峰(画像ググリンク)です。


パワースポットって、見るとエネルギー(って何?)が得られるのですかねぇ?
あるいは、近寄ってこそご利益があるのでしょうか? やはり距離の2乗に反比例するのかな?

何にせよ、地球上には限りなく"パワースポット"がありそうな気がします。狭い日本でも、相当数存在するらしいですから。
そして、この供給過多な「パワースポット」、宇宙全体で積算するならば、宇宙のどこに居ても、そう、アナタが今居る場所でも、その"パワー"の恩恵を受けられそうな気がしませんか? だって、惑星の数は「星の数」以上、つまりほぼ無限に存在するハズなんですよ。


で、私は太陽は凄いと思うのですよ。あれほど「地球上の生物」にとって、有り難い存在はない。バリバリにエネルギーを感じます、皮膚から直に。


結論 「パワースポットなんて気のせい」

学級運営方針

今まで、持ったことありません。

当然ながら、披露したこと無いです。
しかし、その点について、保護者からツッコミはありません、十数年来。

そもそも、自分が生まれたこと自体、自分が希望したワケじゃありません。
あなたもそうでしょう。
自身の「生命運営方針」すら見当たらないのだから、それより細かい方針なんて立てようが無い、ハズ。
とりあえず、誠意は尽くします、可能な限り。

その誠意(という概念)は何処から来ているのか?

暫定的には「宗教」って存在が担っているのだろうとは思います。
無神論者の私は「宗教」を生まざるを得なかったホモサピエンス一般に同情します。

メッセージの無い教師でございます。

私は無事に無神論者(汎神論者)になり、これからもそうして生きていくのだと思います。
そんな無神論者ではありますが、宗教的な体験には何度か遭遇しました。


まず思い出されるのは中学2年の秋です。

「厨二病」ってなコトバもありますが、確かにあの頃は妙に多感だったと思います。その当時は世の中、つまり「オトナの世界」のいい加減さに嫌気がさしていたような記憶があります。

貧困は無くならないし、核戦争は近づいているらしいし、ノストラダムスは恐ろしいし、でも僕は受験戦争の中にいるし...、って。
何しろ中学生だった一時期、世の中全てが「虚飾」に見えていたような記憶があるのです。
かといって、目の前のオトナである先生や親なんかは、とりあえず良いヒトに見える。その人たちに悪態をつくほどの馬鹿にはなれず...、悶々としていたような記憶が残っています。

本当はその感覚「実世界との違和感」を持ったままが「正しいありかた」かも知れないとも思います。しかし、それでは世の中は生きづらい。
精神を病んでる状態が継続してしまうヒトってのは、真面目すぎるのだろうと思いますね。良いのか悪いのかは分からないが。

そんななか、「天啓」あるいは「全能感」がやってきたのです。社会科、若くして禿げかけたタカハシ先生の授業中だった記憶があります。本当に、今から考えても何故なのか分かりませんが、『全ての教科の勉強は繋がっているんだっ!』って体感したことを覚えています。
様々な教科が、やたらに楽しいものだと思えたのです。

徐々に、その「全能感」は薄れていきました。薄れてくれて良かったと思います。


次に思い出されるのは、大学3年の春です。
ある程度はこちらに記してあります。

その当時は、卒論のテーマが(研究室を避け続けていたから)決まらないし、生業を教師としてしまって良いのか今ひとつ自信が持てないし、ってことで、バイトと酒とジグソーパズルに逃避していたのですね。
最後で最大の作品は、2000ピースから成るMichel Delacroix って画家が描いたセーヌ川の風景のヤツでした。

そのパズルを完成させた翌朝から、徒歩旅行サークルの合宿は始まりました。

徒歩移動中、水戸は「偕楽園」の梅のつぼみを見ていたとき、「その感覚」が降ってきました。
梅のつぼみも自分も、この世界も、全て一体だと感じたのです。地球という存在を概観できたような感覚がありました。

なお、一世を風靡した「たま」ってバンドの「方向音痴」はこういった気分?を表現した歌だと思います。下に貼り付けておきました。

私は基本的に冷静な(つもりである)ので、「自分がキリスト教徒だったら、神に遭った気になるんだろうなぁ」とか「断食ってのは、確かに高揚感が得られるものなのかも知れないなぁ」って、自分自身の状況を観察していました。

今だからこそ、のほほんと記述していますが、このときは相当に「不穏な状態」を引っ張りました。3ヶ月くらいは情緒不安定でしたね。
しかしまあ、その体験により、「あの最悪な状態を気合いで乗り切れたのだから、これ以上に最悪な精神的危機は訪れないだろう。訪れても乗り切れるだろう」という感覚を得ることができました。


「宗教的な体験」で思い出されるのは、さくらももこの著作です。
「全てを理解し、宇宙と同一化した」みたいな記述を見た気がするのです。

ここ10年くらい、ずっと再読したいと思っているのですが、そもそも、何に収録されていたかが分からない。マンガで見たはずなのですが、もしかすると文章だったのかも知れません。
数年前、不要なパソコンソフトやCDを秋葉原のソフマップで売りました。その「買い取りセンター」には、『ちびまる子ちゃん』全巻(だと思う)が揃っていたのです。喜び勇んで巻末に収録されていた「おまけストーリー」を一通りチェックしました。しかし「宗教的体験」を記したマンガは見つからなかったのです。
謎は謎のまま。


私は、某学会員とのやりとりで、「宗教って、つくづく不毛だなぁ」って思ったことがあります。彼は、私が成人してからすぐ「コーメー党に投票してくれないか」と突然電話してきました。ま、よくある話のようです。彼はその後が凄かった。そのたった1,2年後には「○○教に興味は無いか?僕はこの宗教は本当に素晴らしいと思っているのだ」と電話をかけてきたのです。
彼と私、どちらが幸せなのかは(その当時も今もこの先も)分かりませんが、その当時、自分は宗教中毒じゃなくて良かったと思いました。

宗教はなるべく避けて通ろうと思ったまま、今に至ります。


関連する過去の日記
本日の疑問(法の華に寄せて) (2000年5月)
「911テロ」から一ヶ月 (2001年10月)
「罪のない市民」など存在しない (2006年9月)
リチャード・ドーキンス『神は妄想である』感想 (2008年4月)

関連する書籍(1年半前に読んだものの、書評を書けなかった)
村上春樹『約束された場所で―underground 2』(アマリンク)

進化

爆風や爆音を「楽しむもの」として再構築した、中東の父娘の動画があると聞く。
聞いただけで見てない、例によって。

この行動は、一種の「進化」或いは「適応」と言える気がする。
そして、世の中の大半の人(多分私も含む)は、その対応を「良しとしない」ってことなのだろう。だから、その動画は世の中に拡散してる。私は見てないけどな。

私は、そのお父さんのような人が地球上に増えていき、そのような形質(?)が増えていくのは、望ましいとは思えない。
でも、その「線引き」は、単なる私の「主観」だ。

宗教とかいう「精神安定剤」と、このお父さんの行動は、地続きだと思う。また、(ガンダムの)ニュータイプなんかを思い出したりした。
何しろ、生き延びるものは生き延びて、世界を変えていく。

やっつけ日本語(and more)

redbull.jpg
https://www.redbull.com/jp-ja/energydrink から

レッドブルのコピー「翼をさずける」には、違和感を抱いていた。ごく簡単に言って、「飲料風情が、人様に対して、何を偉そうに」ってこった。未だに、私はレッドブルとやら、一度も飲んだことがない。特に飲みたくない。まぁ、「オロC」系の飲み物、特に好きでもないので。

で、私の「違和感」を詳しく解説してくれるサイトがあった。

...という話は、すでに9年前のことだったようだ。
そんなに前だったか。

レッドブルとアップル「直訳CM」の致命的欠陥(「授ける」と「させる」の言語機能の解析)[絵文録ことのは]2012/03/08


で、上記サイト、最近更新されていないなぁと思い、松永英明氏の名前を検索してみた。
そうしたら、不思議な世界に突入してしまった。

石丸元章×松永英明 サイバースペースからの挑戦状、その後 ──「1995」から四半世紀を経て・ 前編 | HAGAZINE
#08 サイバースペースからの挑戦状、その後 ──あの「1995」から四半世紀を経て・ 後編|GUEST|松永英明 | HAGAZINE

『後編』には、以下のような文章があった。
上記記事群にも明記されているが、松永氏はオウム真理教の信者だったそうである。その話は聞いたことがあった。「Nシステムの暴露(?)」にも、氏が噛んでいたってコト、それは今日初めて知った。

松永 分かります。私は教団に入る以前からずっと唯識論者でしたから。この世界は自分の意識が作り出しているような感覚がずっとあった。それがあると認識してはいるけど、それが本当にあるのかはわからないという感覚です。

多分、ドラッグとかをされていると、そういう感覚に至りやすいんだと思うけど、私にはもともと目で見えているものが本当にあるのか疑問に思ったり、手で触れて「ある」と感じるものが本当に実在しているのかと疑うような感覚があったりして、そうすると、普段知覚している世界の実在性がよく分からなくなる。それが宗教に関心を持ったきっかけでした。そこは今もブレてないんです。

この話は、複数の「元信者」から繰り返し出てきてた。『約束された場所で (underground2)』(アマリンク)にて。この書籍は、村上春樹氏によるオウム真理教(元)信者へのインタビュー集である。


どんどん話が逸れていった。単なる自分の「ネット閲覧ログ」ですな。

話を戻す。こちらも気持ちが悪い。
「清浄機」や「清浄だ」「清浄な」は一般的な使い方だけど、「清浄する」は無いっしょ。

dysonpure.jpg
https://www.dyson.co.jp/medialibrary/Files/Brochures/JP_Brochures/87776_GENE_JP_EVO_RANGE_BROCHURE.pdf から

私の「モヤモヤ」について、詳しく説明なさっている方が居た。有り難いことで...。

「清浄する」という言い方 |  ときしらずのブログ◎迂闊な話


過去の関連する日記
私は神に遭わずに済んでいる(2011年9月)
日本を雑に扱うTwitter(2019/05/13追記)

この数ヶ月くらい、いや、1年以上、オリンピックについて考えている。
過去には「それなり」に「オリンピック(中継)」を見ることはあった。全般的には面白かった。

私は「スポーツ観戦」という趣味を持たない。
プロ野球(試合前のシートノックを含む)とか、ソフトボールの国際試合などについては、肉眼で幾度か見たことはある。それはとても面白かった。

私はスポーツ観戦は「(安易な)現実逃避」であると見なしている。
常にアルコールを摂取して、「何か」から逃避している私が言うのも何ですけど。


そんな私は「汎神論者」である。
神は1つではなく、特定少数の神が居るわけでもないと考えている。
目に映るもの、すべてが「意思(=神)」の結果だと考えている。
つまり、この世界に神など居ない、とも言える。

そしてまた、ヒトが生きる意味、そんなものは無いとも思っている。
生きる意味が見つからないからこそ、宗教が蔓延るのである。
宗教にすがる、依存するのも、ヒトとしての「妥当な選択肢」なのだろうとは思う。ヒトは誰しも「楽に生きたい」と願っているはずだから。


で、オリンピック。
そこへの出場を目標にしてきたヒトにとっては、「開くべきもの」なのだろう。

しかし、そのような「エゴ」によって、「市井の人々(=東京都民あるいは日本国民)」の健康が脅かされることなど、あってはならないと思うのである。

オリンピックに出るようなヒトは、素質と努力によって「その地位」を得たのだろう。それは素晴らしい。
とは言え、「ボーッとオリンピックを眺めるようなヒト」も、『同じ一人のヒト』である。

ヒトの「エゴ」で、他のヒトが「危険に晒される」なんてコト、許されないと考える。ましてや「オリンピックで儲けたいヒト」、アンタらは不要だ。

私に言わせれば、オリンピック開催も、私が生きていることも、無意味だ。

でも私は、「私が生きること」に価値を見出そうとしている。見出せるように生きている。
で、私が生きていても、それほど「他人の命」を奪ってしまうことは無いだろう。それに対して、オリンピックを「現時点で開くこと」は、(貴重な)ヒトの命を、必要以上に奪う可能性がかなり高いと思われる。
だから、東京オリンピックは開くべきではないと考える。

まぁ、広い意味で言えば、先進国のヒトが生きること(たとえば交通機関での移動・異国の食物を食べること・ネット上に駄文を晒すこと)は、途上国のヒトの搾取ではあるが。

ここにあるのは、過去に書かれた日記のうちで宗教と汎神論カテゴリに属しているものです。

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最近の日記はこちらで見られます。過去に書かれたものはアーカイブで見られます。