オリジナル教材という陥穽

何らかの「試験」対策の教材は、「より多人数」で作成したほうが、より良い--厳密に言えば「漏れと重複」が少ない--ものになるだろう。そもそも「大学入試センター試験」などは、基本的に「教科書」に則って作成されているという建前になっているはずだ。

学校の教員でも、授業用のオリジナルのプリントを作成し、それを用いて授業をなさる方は多い。私は教科書を基本としながら、板書をしつつ授業を進めていく。オリジナルのプリントについては、「実験」などの際に作成することはあるが、基本的には使わない。それは、私自身が持つ「受験勉強を『問題集』で乗り切ってきた」という経験も影響していよう。問題集の問題を全てやり切るならば、基本的に「漏れ」は生じない。問題集は基本的に「その道のプロ」が編集しているものだ。彼らが「必要十分」と見なす問題が詰め込まれているはず。
自分が担当している理科については、第一学習社の「セミナー」を信頼している。自分の高校時代は「化学」で非常にお世話になった。教員となってからも、セミナーを用いる場合が多い。特に地学(基礎)においては、選択肢はこれしかないと考える。

「教員オリジナルの教材」と「教科書(や参考書)」を比較した場合、情報量が多いのは教科書などの「市販品」であろう。その段階で「1人の教員」では太刀打ちできない。「過去の私」のような受験生、つまり「漏れを作りたくない」者にとって、「教員のプリント」と「教科書(参考書)」という、「2つの教材」が存在する場合、学習上での心理的な負担は増すだろう。

教員側にしてみれば、プリントをコツコツ作成し、それを用いて授業をすることは「善きコト」と見なしがちだ。それは「仕事をした」ような気になれるから。
しかし私は、最終的に「受験」がその先にあるならば、用いる教材はなるべく単純にすべきだと考える。基本的に使用する教材は「教科書と問題集」、譲っても資料集までだ。生徒側からすれば、パラパラぱらぱらプリントが配られても、それをきちんと保管していくのは面倒である。教員の自作プリントと教科書等を比較した場合、紙質も印刷品質も、教科書のほうが良いに決まっている。加えて保存性・可搬性も高い。

そんなわけで、表題のようなことを思う、思ってきたのである。

以前、河合塾だったと思うのだが「教材はどの講師でも共通である」という話を聞いたことがあった。その方向性は正しいと思った。先程、念のため検索してみたが、記憶は間違ってはいなさそうだ。教材は大人数で作るべきであろう。それができないならば(普通はできない)、自分が良いと思った教科書を授業で使うまでである。

「オリジナルプリント」は、教員側と生徒側の負担が大きい割に、得るところが少ないのではなかろうか。


過去のまぁまぁ似たような日記
「学級通信」否定派(2001年6月)

ここにあるのは2018年2月21日 18:18の日記です。

ひとつ前の日記は「パール兄弟」です。

次の日記は「​iPhone6sの電池交換とSIMロック解除」です。

最近の日記はこちらで見られます。過去に書かれたものはアーカイブで見られます。