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読書について

2000年作成


 君たちは「読書」とは何なのか、考えたことがあるだろうか。おそらくそれほど深く考えたことはないだろう。本をよく読む人は「楽しいから読む」し、逆に「マンガの方がおもしろいから本は読まない」という人も多いことだろう。

 今年からこの学校では『読書の時間』が始まった。私自身、「読書」は通学途中の電車やバスの中、あるいは夜寝る前や休日の暇つぶしにするものであると思っている、今でも。みんなでシーンとした教室で本を読むなんて気持ち悪い。不自然な姿だ。そしてその考えを君たちに言った記憶がある。
 今にして思えば、私のその姿勢がまずかったのだろう。
 他の先生方から「きまりは守るものだ」と言われた。それなりに君たちに本を読ませようとはしたものの、それほど本気で読ませようとも思っていなかった。このクラスの誰が言ったのか忘れたが、「友達がいるんだから、友達と喋った方が自然だ」と。私もそう思う(こんなコト書くからまずいと分かってるんだけどね)。
 が、先日皆さんの保護者の方々からも言われてしまった。「きまりは守らせてください」「真面目な子の邪魔をする生徒を放っておくのですか?」と。もっともな意見だ。ということで、こんな文章を書き始めたのだ。
 取りあえず、読みなさい。

 自分のクラスがあまり本を読まないこともあり、「大体「ドクショ」とは何なのか、必要なものなのだろうか?」と考えてみることが多くなった。そして現在のところ、読書とは「ヒト固有の歪んだ、しかし生活を豊かにしてくれるコミュニケーション手段」なのではないかという結論に達している。

 ヒトは、直立したことから『ヒト』になったのだと言われる。現在の研究からは、ヒトの始まりは400万年以上の昔であるとされている。恐らく君たちが勉強してきた通り、直立歩行によって両手が自由になり、武器や道具を扱えるようになるともに脳、特に大脳が発達して高度の知能を獲得したということだ。

 知能の発達と共に、他者とのコミュニケーション能力が発達したのがヒトという生物であるが、動物はもとより植物どうしにも、仲間同士で情報をやりとりする能力が備わっていることが最近分かってきている。しかしながら、植物及びほとんどの動物の場合、仲間同士での情報のやりとりは主に様々な化学物質を介して行われる。それは俗に「フェロモン」などと呼ばれている。フェロモンは最も古典的なコミュニケーションと言える。

 魚類・鳥類・爬虫類などの脊椎動物くらいになってくると、発達している視覚を用いたコミュニケーションが重要になってくる。有名なところでは、肋骨を広げて敵を威嚇するキングコブラや、尾羽を広げて求愛するクジャクの雄などがあるだろう。身近なところでは、しっぽをぶんぶん振り回すイヌや、しっぽをピンと立ててすり寄ってくるネコも、ヒトに対する親愛の情を表すメッセージを発していると言えるだろう。

 聴覚に訴える生物もある。カエルやコオロギのように、より巨大な声で鳴くことが、強い雄の証明になるものもある。
 カエルは何故、大声ほどモテるのか。「大声だからもてるヒト」てのは聞いたこと無いでしょう。カエルにはカエルの論理(ただしヒトが解釈したもの)があるらしい。
 それはこうだ。
 雌のカエルは強い雄が好みだ。ダンナさんが強い雄ならば、これから産む自分の子供も強いカエルに産まれる可能性が高くなる。
 生物の特徴に「子孫を残す」というのがあったのを覚えているだろうか?何故、生物は自分の子孫を残そうとするのかは神(仏でも可、あるいはDNA)に聞くしかないが、そのおかげで私や君たちが存在しているのは確かだ。カエルの雌も自分の子供に丈夫に育って欲しいと願っている。自分の遺伝子を未来に遺したいのだ。そのためには丈夫な雄の精子をもらった方が、その性質(生物用語で「形質」という)を受け継ぐ可能性が高いのだ。
 カエルには敵がいる。有名なのは「ヘビ」だ。もっとも、都会のヒキガエルにおいては、自動車が天敵であるようにも感じられなくもないが。カエルの死因にはカエル固有の病気もあるのだろう。カエルは何年間か生きる生物らしいが、長く生きられるということは、それだけ他の(死んでしまった)カエルよりも有利な性質を持っていたということだ。そんな長生きガエルは体もそれなりに大きくなっており、大声が出せるらしい。つまり、雌ガエルにとっては、「大声ガエル=長生きガエル=子供も元気に育つかも?=お婿候補」という方程式が成り立つらしいのだ。
 私はヒトで良かったと思う。

 しかし、カエルの世界も戦いは熾烈のようである。大声を出す雄カエルの横に、声を出さずにひっそりと佇む雄ガエルがいるそうである。隣のカエルの出す大声に惹かれて寄ってきた雌ガエルに対して、「私が大声ガエルですよ~ん」とウソをつき、ちゃっかり交尾してしまうそうな。その成功率は低いそうだが、そういった確信犯のカエルもいるそうである。そんなコトを研究する生物学もあるらしい。私は中学・高校時代、化学(君たちは2年で勉強する)に興味を持ったが、最近は生物を教えるようになったこともあり、生物学も面白いと思っている。自然科学(理科)は面白いと思うよ。よろしければどうぞ。

 本題へ戻ろう。そして動物、特に哺乳類になると、この「声」を用いたコミュニケーションが重要になってくる。様々な鳴き声で周囲の仲間にメッセージを送るようになるのである。
 鳴き声には様々な利用法がある。仲間に対して迫りくる危機を伝えたり、自分のなわばりを示すために鳴いたりして、風まかせであるフェロモンの届かない範囲にいる仲間や、自分の姿を見せられない仲間にもメッセージを伝えることができるのである。都会にいる私たちに身近な生物にネコがあるが、彼ら雄ネコが発するケンカの声や雌を誘う声は聞いたことがあるだろう。最近では海に棲む哺乳類、クジラやイルカも声を操り、仲間と連絡を取ることが分かっている。また、ある種のクジラは声を用いて獲物である魚の群を追いつめたり、魚に効く大声(ある種の波長の波)を出して、失神させてしまったりもするそうである。
 やっとヒトの話に入る。
 ヒトには言葉がある。それも鳴き声の一種だろう。
 恐らく、ヒトの祖先にとっても、最も基本的な使い道は仲間に危険を知らせることにあったのだろう。今でもヒトは危機に陥ったとき、あるいは何かに驚いたときに「きゃー」とか「うおー」と悲鳴を上げる。また、その声を聞いた場合、大抵の人は「何だ?どうしたんだ?」という風に反応するはずである。
 まずは自分の身の回りを確認し、自分に危害が加わってくるのかどうかを確認するだろう。余裕があれば「助けに行かなきゃ」となるし、自分に危険が迫ってきそうな場合は「逃げろ」ということになる。たとえその「危機」が「ゴキブリの存在」であったとしても。

 何故、多くのヒトにとって、ゴキブリが怖いのだろう?昔からの疑問である。
 ゴキブリという生物はヒトに対して、噛みつくわけでもなければ、毒液を吐くわけでもない。見たからといって、石になってしまうこともなければ、怪電波を発しているわけでもなさそうだ。「俺は怖いぞフェロモン」を出している可能性はあるかも知れない。しかしゴキブリは、ネコにとっての良い獲物となるようであるし、まさか数百万年の間にヒトにだけ有効な化学物質(フェロモン)を開発することも難しかろう。

 食べ物の「好き嫌い」というのはかなり経験に基づくものである、恐らく。私はそれほど嫌いな食べ物が無いが、肉はそれほど好まないのである。魚は結構食べるけど。

 それは茨城県千代田村、下稲吉第三保育園での出来事だった。年中の「しか組」に所属するオガワマサキ君を襲ったのは昼の給食の「うどん」であった。アルミのトレーにプラスチックの食器。中に入っているのは澄まし汁仕立てのごく普通のうどんであった。(恐らく)いつも通りに給食を食べていたマサキ君。記憶に突如現れるのは噛み切れずに食道の入り口に留まる鳥モモ肉の皮(脂身)。
 「おえっ」
 そこからオガワマサキ君は肉が食えなくなったのでした。現在は10年を越える「修行」の結果、肉も普通に食べられるけれど、今ひとつ「レバー」は苦手なのでした。

 しかし、いつになったら、「読書」の話に辿り着けるのでしょうか?
 チナミに次回はゴキブリが嫌われる訳についての考察から始まります。

 何故ゴキブリは嫌われるのか。
 前回書いたように、食べ物の好き嫌いは経験に因るところが大きいと思っている、私は。
 恐らく、「嫌いな野菜ベスト(ワースト?)スリー」には、ピーマン・ニンジン・セロリなど、香りが強くて苦みのある野菜が入るのでは無かろうか。それらの野菜が嫌いな人ってのは、記憶の遙か彼方、歯が生え始めた頃、無理矢理親に食べさせられたコトがあるのではないかと思っている、最近。
 哺乳類の場合、生まれたての赤ん坊の食べ物は親からの母乳である。ほとんどの場合、生まれてしばらくはネズミからヒトまで、哺乳類は母に守られて育つ。しかし、ネズミでもヒトでも、生まれてからずっと口にしてきた飲み物から離れ、「離乳食」という食品を口にする時が来る。ネズミがどういう離乳食を用意しているのかは知らないが、ヒトの場合は「ベビーフード」ってなものが立派にスーパーに陳列されていたりする。お母さんは「何ヶ月目から離乳食を食べるのが普通の赤ちゃんである」という情報を雑誌等によってあらかじめ仕入れている場合が多かろう。そのため我が子に対して「あなたは離乳食を食べる時期なの!もういくら泣いたって、もうお乳はあげないのよ!さぁ食べなさい!おっはー!」と、無理矢理にニンジンやピーマンの類のちょっと「苦み」のある野菜類のジュースなりペーストなりを与えたのではないか、と想像される。
 基本的に、「苦み」というのは生物にとって「毒・危険」を意味する信号なのである。
 赤ちゃんの脳の決まった部分に、その野菜の香りと苦い体験(愛する親の手によって無理矢理「危険物」を食べさせられそうになり、そして理不尽なことに何故か怒られた)がセットとなって「忌まわしき記憶」となり、結果として「嫌いな食べ物」という枠の中にそれらの野菜が収まってしまうのではないかと考察される。
それでもって、ゴキブリの話に戻る。が、何でなのでしょう?みんなが嫌うのは。
 上に書いたような理論でいくと、ゴキブリは「愛するお母さんを驚かせた、私にとっても憎むべき生物」という考えが成り立ちそうな気もします。しかし、今ひとつ説得力に欠ける気もしますな。
 ネコ嫌いのヒトよりは、イヌ嫌いのヒトの方が多い気がします。イヌ嫌いのヒトというのは、「幼い頃噛まれた」とか、「突然吠えられてビックリした(そして泣いた)」という記憶が原因なのであろう。ネコはそれほど噛んだり吠えたりしないしね。結局、ゴキブリが何故嫌われるのかは分からないのでした。何じゃそりゃ。ただ生物学的に分かっていて、私も身をもって経験しているのは、「生物は本能的に見慣れないものに対しては防御の姿勢をとる」というコトなのですな。
 つまり、見慣れちゃえば、それほど気にならないのです、ゴキブリも。

 どんどん話が逸れていきます。
読書=「ヒト固有の歪んだ、しかし生活を豊かにしてくれるコミュニケーション手段」
  →生物同士のコミュニケーションの変遷について(フェロモン→ダンス→音声)
     →声(悲鳴)から横道に入って「ゴキブリが何故嫌われるか」論
        →さらに横道の「食べ物好き嫌い」論
      戻って「ゴキブリが何故嫌われるか」論続き(解決せず)
 と、いうことで「声」の意味(意義)についての話の途中だったのですよね。
 で「声」、「コトバ」というものについて。
 「言語学」って学問の分野があるのですよ。皆さんが幼稚園や保育園に入ろうかどうかという遙か昔のmy大学時代、「一般教養」というコトで私も履修したのでありました。内容はほとんど覚えていないのですが、とにかく受講希望者の多い、人気のある講義でした。授業は楽しいのだけれど試験はそれなりに難しく、バッチリ単位を落とした私なのでした。その授業の数少ない記憶をつれづれなるままに。

 その昔「ナウい」っていう形容詞がありました。今風(これも死語?)に言えば、「イケてる」てなコトになるのでしょうか?そのセンセイ曰く「『ナウい』なんて変なコトバがあることですし、こうなったら(?)この授業で『ワクい(筆者注:意味はその当時から未定)』って形容詞を流行らせましょう。山口百恵が『蒼い時』って本を出したこともあるし、誰か『ワクい時』って本を出してくれませんか?その本が売れたりして、この授業から新しい一つの形容詞が生まれたら面白いじゃないですか。」てなことを喋っていた気がします。『蒼い時』てのはどんな本なのか知りませんが、そのセンセイにとっても、「さくらももこ」にとっても、「山口百恵」は、一世を風靡したアイドルだったのです、多分。それは百恵ちゃんが『ちびマル子ちゃん』に頻出するコトからも考察されます。チナミに私はドリフターズやピンクレディーに育てられました。

 最近はもう定着しつつありますが、「食べれる」とか「見れる」といった「ら抜き言葉」や、「なにげに」という表現があります。ホントは「何気なく云々」が正しい用法であることは、私も分かっちゃいるのですが、なにげに使ってしまうのですナ。
 しかし、この現象は現代に限ったことではなく、「今の言葉遣いは何なのだ?」という文章が明治時代にあったとか無いとか聞いたことがあります。そのことからも分かるように、言語というのは年代や地域と共に変化していくものなのですね。世界史で「ロゼッタストーン」とか習ったでしょう。昔の文字だった為に、その石版上の文字の解読にはかなりの苦労があったようです。
 日本という国は、ほとんどの人が日本語を喋れるらしいですし、9割以上の人が読み書きできるのだそうです。「読み書き」ができるのは当たり前じゃないかと思う人がいるかも知れませんが、全世界的には読み書きができるのは全てのヒトの半分にすぎないという調査報告もあるそうです。
 日本語には「仮名」がありますので、言葉を覚えたとき、その言葉が発音できれば、とりあえず文字として表すことができます。また、知らない単語でも「(ふり)仮名」が読めれば、発音することができるのです。日本人は「見かけ」と「発音」しかない仮名から入っていき、必要に応じて徐々に漢字を覚えていけば良いわけです。
 対して代表的な外国語である英語ですが、綴り(スペル)と発音が「いちいち(!)」異なります。みなさんが英単語を覚えるときは、「綴り」と「発音」とその単語の「意味」を覚える必要があるわけですが、それと同じことを英語を扱う人たちは幼い頃から行う必要があるわけです。私はその点においては、日本人で良かったと思います。他の言語を使う国に生まれてないので比べようがないけどね。

 だんだん「読書」に近づいてきたぞ。
 最近ビックリした、マンガ(アニメ)絡みの海外のニュースから。

 ブラジルか何処かで4歳くらいの幼児が高層マンションから転落する事故があったそうな。日本ではここ最近「泣き声がうるさいから、我が子を2階から放り投げた」とか「うるさいから床に落とした」いう類のニュースが増えている気がするので、その海外発のニュースも憎い?子供をわざと親が落っことしたのかの思った。「日本以外でも、父ちゃん母ちゃんは大変なのかなぁ」と。まあ、その程度ならわざわざニュースにはしなかったのでしょう。その幼児は「僕はポケモンだ。空も飛べる!」とマンションから自らdiveしたらしい。凄い話だ。私の感覚で言うと、普通の4歳ならそれまでの人生経験上、イスから転げ落ちたり、階段でコケたりと、それなりに「高いところは気をつけないと、痛い目に遭う。」ということを知っていてもおかしくはないだろう。その4歳はどういう生活をしていたのだろうか。とりあえず「ポケモン漬け」だったのだろうとは想像できますけど。そしてそのニュース映像のなかで、ダイビングから生還した彼は、骨折により入院しているベッドの上で、ポケモンカードで遊んでいた。子供を放り投げる親もどうかと思うが、死にかける原因となったアニメ『ポケットモンスター』(のカード)に触れることを許す親もどうなんだろうと思った。まあTVの取材だから、印象的なニュース映像になるように、「やらせ」の「演出」として与えられたカードである可能性は高いでしょうが。

 ということで、日本のアニメというのは海外でも人気があるらしい。アニメってのは絵を作るのが最も大変な作業であるらしいが、その「made in Japan」の動画を入手し、吹き替えでその国のコトバで台詞をくっつければ、自前で動画を作るよりは安い金額でアニメ放送が可能となるようだ。アニメとかマンガってのは『読書』に比べると、遙かに取っつきやすいですよね。ヒトは視覚が発達してますから、世の中のものはまず「画像」から触れる場合が多いのです。

 私の年代になると、友人やら従兄弟やらで子供を持つ人が多くなってきて、必然的にその赤ちゃん達と接する機会が増えてきます。赤ちゃんって喋ることはできなくても、周りの人をやたら観察しているのではないかと、最近赤ちゃんの視線を見ていて気づきました。誰かに抱かれていたり、イスの上に座っている赤ちゃん達なのですが、彼らはお母さん、お父さん以外の人が珍しいこともあるのでしょうが、「じーっ」と他人の顔を眺めていて、そんな視線に出くわすことが多いのです。こっちが「ニカッ」と笑ってみると、向こうも「ニコッ」と笑い返してくれたりして。
 そういったとき、「何故、ヒトは笑うと笑い返してくれるのかしら?」と疑問に思います。いくら大人になって、爺さん婆さんになったって、笑顔ってのは重要なものですしね。

 微笑みってのは、ヒトやサルの世界に固有のものだという話を聞いたことがあります。また、生まれた直後から身近に世話をしてくれる大人がいないと、笑うというごく普通のコミュニケーション・感情表現すら身につけられないと言う話も聞いたことがあります。

 また、関係が無さそうな話で終わってしまった。


 ヒトは視覚に頼って生きている部分がかなりある。視覚が発達したヒトの場合は「これは食べられる」とか、「これは好きな食べ物だ」とかいった食べ物の取捨選択は、視覚によってなされる場合が多いだろう。
 例えばリンゴ。漢字では林檎と書く。英語ではappleだ。この「リンゴ」という物体が皆さんに認識された過程を改めて考えてみる。
 「リンゴ」は赤ちゃんにとって、離乳食の一つの「ジュース」という形で遭遇することが多いのではないかと思われる。初めてリンゴに触れた赤ちゃんはその「甘酸っぱい味」に接触する。赤ちゃんにとっては生きていくことが最も重要な生き甲斐であり、身の回りのものたちが「食べられるもの」か「食べられないもの」であるかが、生きていく上で最も重要なこととなる。自分の命をつなげていくために、まずは味覚や臭覚(嗅覚)が重要なのである。
 そのうち生きることに余裕が出てくると、だんだんと他の部分にも関心が向いてくる。身のまわりについての認識が深まるにつれ、リンゴの色や大きさや形などが認識され、「あの『甘酸っぱい味』は『赤くて丸くて重い』ものをギューッと絞ると得られるものらしい。」とかいうふうに、昔から馴染みの「りんごジュース」の味とその「リンゴ」という果物のイメージが統合されていくのであろう。
 その後、その果物の名前(りんご)を覚え、ひらがなやカタカナを覚えれば、「りんご」や「リンゴ」と読み書きできるようになり、余裕があれば「林檎」と読めるように、書けるようになる。
 私も読めるものの、書いたことはないので、拡大しておこう。

林檎。

 チナミに「椎名林檎」はすぐ赤面するから芸名を「林檎」にしたと聞いた。さらにチナミに「吉本ばなな」はバナナの花が気に入っているのでペンネームとしたそうだ。
 「吉本ばなな」は読みやすく、お薦めの作家である。私が最初に触れたのは、妹から借りた『キッチン』だった。私の妹はそんなに本を読まないヒトであると認識していたのだが、そいつが買った本でもあり、そしてちょうど「吉本ばなな」が売れ始めて話題になっていた時でもあったので、そのハードカバー(単行本)の本を借りて読んだのだった。私が皆さんに最もお勧めするのは『TUGUMI』ですな。
 そのころ売れた本に「村上春樹」の『ノルウェイの森』てのもあった。私が高校生から大学生になろうかという頃に出版された本だ。印象に残った本ってのは、改めて読み直してみると、また新たな発見があったりするものだったりする。それもまた面白い。まあ「かなり歪んだ自己再発見」と言ってしまえばそれまでなのですが。
 それと比較すると、音楽は「思いでのメロディー」という感じで脳のある場所に格納されていて、そのフレーズを耳にすると、そのグループや楽曲を気に入っていた時期の気分が思い出されるってなことが多い。「イエスタデイ ワンス モア」ってヤツですな。あるいは特にその曲が好きでもないのだけれど、たまたま流行っていて、その時の状況とその曲が結びつく場合もあるコトでしょう。あまり笑える話では無いのだが、私の大学時代の友人が免許を取りたての時、織田裕二の歌をBack Ground Musicに車を運転していたとき、渋谷の駅前でバイクと衝突したそうな。彼の中では、その「歌えなかったラブソング」と「渋谷での自動車事故」は切っても切れない記憶となっているというコトだ。

 前回はリンゴを例にして、赤ちゃんがいかに身の回りの世界を認識してきたかについて、考察しました。これは物に限らず、父・母・兄弟姉妹・祖父母など、身の回りのヒトについても似たような方法で赤ちゃんは認識していくのではないかと私は考えます。

 改めて思いだしてみてください。あなたがここまで生きてこられたのは、身の回りのヒトの存在があったからこそなのだと。ヒトに限らないのかも知れませんが、特に赤ちゃんは周りの仲間の助けがあってこそ生きられるのだと思います。
 また、ヒトがヒトらしく生きる(曖昧な表現かも知れませんが)には、そんな肉親を含めた他人の存在が重要なのだと思います。食べ物を与えてくれた母親。愛情を与えてくれた両親や兄弟姉妹、お金をくれる祖父母(?)など。

 時にヒトは「自分はなんてかわいそうなヒトなんだろう。誰も私の悩みを知ろうともしないし、助けてくれるヒトもいない。この世の中に私が生きている意味なんて無いんだ。」なんて思ったりすることもあるかも知れません。でも、そういったコトを考えるのが普通のヒトなのだと思います、私は。
 そんなときには、お気に入りの音楽に浸るということで、ヒトは慰められるかも知れません。また、映画を見る、TVドラマに浸る、美術館に行く、あるいは部活動に没頭することも効果があるかも知れない。仕事を持つようになれば、その仕事に心血を注ぐことで、「『生きる意味』を考えること」から逃れられることもあるでしょう。
 音楽も演劇も絵画も運動も労働も、それぞれに感動を与えてくれるものではありますが、『文字による知識の共有』というのもヒトに固有の文化であり、かなりの救いともなるものだと思います。つまり『読書』ですね。

 本は安いよ。マンガよりは少し値段が張るかも知れないが、読むために時間がかかる。
 その点でコストパフォーマンスは優れているでしょう。雑誌やマンガは安い気もするけれど、それを読む時間も短いでしょう。200円で売られている週刊誌を1年間買ったとすると、ほぼ1万円を年間で使うことになる。これに改めて気づいたのは私が大学生の時だった。1万円があったら「ネコガム」が500個買えるんだよ!
 (注:「フィリックスガム」とも言う。駄菓子屋で売られている、イチゴ味のフーセンガムである。私が小中学生の時は1個10円だったが、大学にいる頃に1個20円になったような記憶がある。かなりショックを受けた『自分も年を取ったものだなぁ』と。「マルカワのガム」というのもあったッスよねぇ。10円で丸いガムが4粒入っていた。あれも20円になったような気もしますな。「当たり」が出るともう1個もらえるんだよね。「当たりが出たらもう1個」はかなり子供心をくすぐる。私が衝撃を受けたのが「うまか棒」というアイスだ。当たりが出ると最高3本もらえるのだ。50円のそのアイス、うまくすれば更に150円分のアイスが当たるのだ。チナミに「うまか棒」と「うまい棒」は違う。「うまい棒」は明治『カール』の廉価版ですね。出た当初は1本10円だった記憶があるが、定かではない。やはりこれも1本20円になった気がする。)

 読書と直接には関係ない話ですな。そのほうが筆は進んだりします。

 「まんが喫茶」って行ってみたいような気がしながら、行ったこと無い私です。まあ、思う存分マンガが読めるのだったら良い暇つぶしになるでしょう。しかし「図書館」には勝てない。「図書館」は入るのも、本を借りるのもタダだよ。
 まあ、実際は皆さんのお父さんやお母さんなどの働いて稼いだお金が区や市などの「地方自治体」に吸い上げられ、そのお金で買われた本が置いてあるのだから、タダとは言えないかも知れません。だからこそ、利用しないともったいないのです。うちの学校の図書館もそうだよ。暇なときには行ってみましょう。皆さんの保護者が納めた学費の一部が使われているのだし、希望すれば欲しい本も買ってくれるかもしれない。

 で、読書の効用について。

 この文章?の最初に、「読書とはヒト固有の歪んだ、しかし生活を豊かにしてくれるコミュニケーション手段」であると言いました。読書なんてしなくたって、世の中は渡っていけるはずです。しかし、読書の経験は生活を豊かにしてくれるものだと思います。
 ヒトが生きる上で最も重要なのは「身の回りの人と仲良く暮らしていくこと」であると、私は信じて疑いません。もちろん身の回りのヒトというのは家族も含みます。まずは家族と仲良くできることが重要だと思います。その上で、家族を含めた他人の気持ちを察し、その立場に立って考えることができるヒトが、ヒトらしいヒトであると言えるでしょう。読書というのはその修行の重要な手段であると思います。

 「自分」と「他人」の違いを知ることや、自分という存在や自分の置かれた状況を知ることは重要です。狭い世界で「のさばっている」ヒトを称して、「井の中の蛙」という表現を使うことがありますが、その続きって知ってますか?「井の中の蛙、大海を知らず」と続くのです。
 果たして、井戸の中で一生を過ごすカエルがいるかどうかはわかりませんが、普通のカエルはおそらく田んぼなり池なりの、だだっ広い空間(大海)に大勢の仲間と生活しているわけです。そんな環境の中で切磋琢磨し、仲間のカエルたちと共に「カエル道」を歩んでいくわけですな。苦労も多いかも知れないが、刺激も多いその世界で。
 対して、井戸の中に住み続けたカエルは、そのせいぜい直径1メートル前後の空間が生きていく世界のすべてであるわけです。井戸の中だけで幸せに暮らしていくのもそれなりに良い人生(カエル生)ではあるかも知れません。しかしその井戸の外に棲む、井戸の狭さを知っているカエルにしてみれば、そんな小さな世界で隠遁生活を送ることは難しいのではないでしょうか。

 本を読むことにより、自分の部屋のなかで、通学途上の電車の中で、『朝の10分間』でも、様々な体験をすることができます。井戸の中に居ながら、井戸の外の世界の片鱗に触れることができるのです。ありとあらゆる未知の世界へ。

 本を読むだけで世の中すべてが分かる訳ではありませんが、よりよく生きるための一つの手段として、「読書」をお勧めします。皆さんよりは多少長く生きてきた私からも。