1992年の加藤紀子

平成4年、大学4年だった。
季節は初夏だったと記憶している。クーラーも欲しいものの、使うほどでもないような夕べ。

気象学研究室の同級生から突如お誘いがかかり、卒業研究に勤しんでいた我々は、自然館5階にあった研究室で、ちょっとした宴会をしていた。
私は岩石鉱物学研究室に所属していた。地学科の他に、その場には生物科、物理科の友人もいたように記憶している。化学科や理科教育専攻のヒトも居たのかもしれないが、記憶からは欠落している。10名内外の参加者だったはずである。

その場面は、大学生活における愛すべき風景として、私の中に記憶されている。

その会は、6月の教育実習を終え、ちょっとした慰労の意味があった。また、卒業研究に本格的に取り組み始め、その困難さに改めて気づきつつある時でもあった。そしてまた、4年弱にわたって勉学を共にした友人たちが、徐々にそれぞれの進路を再選択しつつあるときでもあった。

当時は、今ほどアルコールがカジュアルではなかった。
ビールは普通にビールとして売られていた。しかし、アルコール度数の低い、甘いお酒は少なかった。また、発泡酒のような安めの酒も無い。ワインは比較的高価だった。日本酒を選択するほどの立派な酒飲みには育っていなかった。リキュールは多少売られていたかもしれない、ブルーハワイやカルーアなど。チューハイは基本的に市民権を得ていなかった。
何しろ、お酒の選択肢が少ない時代であった。

その場では、何を話したのか、話されたのか、あまり覚えていない。
ただ、気象学研究室所属の誰かは、大学院への進学を希望しているというような話はあった。その時は、教員採用試験の勉強をしている時期でもあった。あるいは、就職試験の真っ最中。
国立大学の学生でもあるので、みな「それなり」にペーパーテストは得意なはずであった。若干無味乾燥とも思える事項を、ひたすらに頭に叩き込んでいた日々だったはずだ。すでに四半世紀昔なので、あまりよく覚えていないが。
後々考えれば、それらの知識も多少は「糧」になるのかも知れないが、当時はそのようなことに気づく余裕もない。

テレビも見ながら、宴会をしていた。いつの間にか、ミュージックステーションが始まっていた。
「森高千里の妹分」ということで、ミニスカートを履いた、とても立派な「オミアシ」を持った女性が、テレビで歌を歌っていた。

歌の上手い下手より、「脚、ふとっ!」という印象だけ残ってる。森高千里は脚が細いヒトだったし。

まぁ、今にして思えば、多分「一般女子高校生」程度には細い(太い)脚だったのだろう。
そんな「どうでもいいこと」が、やたらと記憶に残って、焼き付いている。シナプス用のスクリーンセーバーが必要になるくらい。

ここにあるのは2019年5月 5日 22:35の日記です。

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