飛鳥涼(CHAGE and ASKA) の日記群

♪コットッバッわぁ~コッコゥロをコゥェない~
かの有名な『SAY YES』(byハゲ&ヤクザ(阿佐谷南3丁目的方言:一般にはCHAGE&ASKAかしら?))の一節である。

パソコン使っているとですね、マニュアルってのは初心者には全然使えないものであることに気づくのですね。ごく簡単な「作法(そう、茶道や華道のように、パソコンにもあるのです!)」から記しだすと、とてつもなく分厚いマニュアルになっちゃう。そして、初心者はマニュアル読む気にならない。

『大学への日本語』や『恋愛道』って書物が存在しないのと同様、あるいは『施政者マニュアル(君が目指したものは?)』や『100点の答案はどこへ消えた(完璧な教員になるために)』が存在しないように。
じゃ、ヒトに訊けばいいのか?
「試行錯誤を嫌悪して、手っ取り早く質問するヒトは、同じ疑問に遭遇する。」っていう宇宙130億年の格言が生きてくるのです、ありゃりゃ。
対になる格言「求めよ、さらば与えられん」ってのもありますけどね。

何を言いたかったのか忘れかけてきた。

で、パソコンですね。
パソコンってのは、マニュアルをいくら作ろうが、決してその核心?には触れられないんじゃないかと思っちゃったのです、本日私は。
私の中で、この話は深化していくのですが、まだ披露するに値しない。とりあえず、パソコンは「習うより慣れろ(ただし、必要があるなら)」ってコトなのですな。
Windows、触れていると、その仕組みに慣れてくるのですね。Linuxよりも高価なのは確かでしょうけれども、私は見事にmicrosoftの策略にハマっていた。とりあえず、インストールしやすいですしね。
Linuxに触れ続けていれば、そのココロに近づき、インストールも苦じゃなくなるのかも知れないけど、私はWindowsに染まっているのですね。そして、パソコン初心者の願望(質問への回答)は叶えることができても、「何故そうなのか?」と聞かれたら答えようがない。

「習うより慣れろ、必要があるなら。」

そんな私は日本語とWindowsを駆使する、私なりに。
そして、言葉は心を越えない。というか、マニュアルはソフトを説明できない。

feel it,please. if you want to.

そういえば、1週間以上前に「高等学校教育指導課」にフォーム経由の罵倒メールを送りました。当然、梨の礫。

「ボタンの掛け違え」って云う表現、結構耳に、眼にする。政治屋までもが使っている。
私は、この表現を生み出したのは「CHAGE and ASKA」の飛鳥涼氏だと観察している。

もちろん、衣類にボタンという仕組みが加わった時から、物理的な「ボタンの掛け違え」は起こっていたことだろう。また、辞書を見てみると「(ボタン等の)掛け違え」という語句もきちんと載っている。
ただ、「初期の意志の疎通がうまくいかず、その食い違いを残したままに状況が進展してしまうこと」を表す表現として「ボタンを掛け違える」という比喩を生んだのは、飛鳥涼氏であると思うのだ。そして、そのコトバが入っている歌の題名は『僕はこの瞳(め)で嘘をつく』である。私の記憶では、この歌以前に「ボタンを掛け違える」っていう風な表現を見た、聞いた気がしないのだな。
歌詞の一部を引用してみる。

心のリズムは散らばるようなタンブリン
話の何処かできっと 掛け違えたボタンがある
君が僕を見つめている

だから君の顔 見つめたよ
だから君の顔 見つめたよ

どんなに君の瞳が僕を疑っても
僕はこの瞳で嘘をつく


この歌は1991年に発売されたアルバム『TREE』の1曲目に収録されているのである。

このアルバムは劇的に売れた作品らしく、私も持っている。2曲目の『SAY YES』を知らないヒトは居ないだろう。
『SAY YES』は場面設定が具体的だから、分かりやすい歌である。『僕はこの瞳で嘘をつく』は、恋の始まりの歌である気がするが、ちょっと浮気とか不倫みたいな雰囲気もある歌詞だ。アルバムに収録されている他の曲も、恋愛にまつわる何らかの情景を描いたモノが多い気がする。
そんな中、私が好きな歌は3曲目の『クルミを割れた日』と11曲目の『BIG TREE』である。この2曲は特に比喩が多用されているようで、様々な解釈が成り立つ気がする。特に『クルミを割れた日』は基本的に飛鳥涼というヒトの個人的な体験に基づく歌なのだろうが、そこには普遍的な何か(宗教的体験?)が語られている気がするのだ。まあ、歌詞が難解だから、その上に私の下らない解釈を垂れたところで無意味だろうからこれ以上は記さない。とりあえず印象的な曲である。

話は戻る。
「ニホンゴを作りかえた、つまり確実に歴史を塗り替えた」飛鳥涼は凄いなぁ、って尊敬しちゃう私なのだった。数年間、ずーっとそう思っている私なのだが、勘違いなのでしょうか? もっと前から「ボタンの掛け違え」って比喩は使われていたのでしょうか? ずいぶん調べてきた、そして今日も調べてみたのですが、分かりませんでした。

天国に一番近い便

基本的に、教員になってからは毎年、夏には多摩川の河川敷に行く羽目になる。
ソフトボール部の試合の引率である。

河川敷にある「くじら運動公園」というグラウンドを使用し、「西東京大会」というものが行われている。今年は第26回だったそうだ。
第15,16回(2000,2001年)は、私も幹事として運営に参加した。

この大会は、何が最も思い出深いかというと、その凶暴なまでの暑さである。
しかし、あのクソ暑さを通過しないと、夏が来た気がしないのも確かなのである。
本年度は結構暑かったが、熱中症なども起きず、比較的過ごしやすい天候だった。幸運であり、残念でもあった。大会後の打ち上げ宴会の際に聞いたが、他の先生方も同じ思いを抱いた方が多かったようだ。

本題に入る。
その「くじら運動公園」の横には、下水処理場がある。まあ、今では「水再生センター」というらしいが。
20110825.jpg

上の画像の中央左寄り、テニスコート横にあるのがソフトボール専用(!)球場4面である。あのアホみたいな広さが私は好きだ。ソフトボールをしていても気持ちがよい。私も何度か「選手」として、あのグラウンドを使用したこともあるのだ。

「くじら運動公園」には、トイレが少ない。難儀する点である。
管理棟に臭いトイレが、河川敷にはくみ取り式のトイレが、あるにはある。

で、前述の「水再生センター」には、公園が附属している。上記サイトによれば、「第一沈澱池」と「反応槽」の上を覆っているようだ。その公園は可もなく不可もない、普通の公園である。しかし、水洗のトイレがある。素晴らしい。

20110824_1.jpg
トイレ近景

20110824_2.jpg
トイレ横から「第二沈澱池」を望む

20110824_3.jpg
トイレは右端の直方体

そのトイレで何らかを排泄していると、「彼らは生まれた後に、一番すぐに天国に行く『ベンたち』なのだろうなぁ」と感慨を深くするのである。蝉よりも短い生涯だ。なんたって、生まれるのが「処理場」の上だ。

数年来、そんなことを考えながら、トイレを使っていた。やっと文章にすることができ、うれしく思う。


下の写真は大会後の散歩時に撮影。

20110824_4.jpg

よく知らない道を歩く際、私の脳内では『クルミを割れた日』(リンク先はニコ動)が流れるように設定されているようだ。

いつも いつも隠された小道を行く
遠い 遠いあの歌を探しに行く


関連する過去の日記
T先生語録(2004年7月)
好評につき(2004年7月)
「ボタンの掛け違え」と飛鳥涼(2006年6月)
T先生語録 その4(2006年7月)
T先生と梶井基次郎(2009年11月)
雨と中央線と私(2010年8月)

2月という名の山場

本日、職場は中学校入試初日だった。
精神的に疲労する日が続く。

ま、数百名分の「12歳の人生の分岐点」に立ち会っているのだから、疲労するのも仕方ないと思っている。

脳を使った分、体重が減っただろうと思ったが、まだ75.1kgもあった。1月の頭には77kgを超えていたので、それに比べればマシになったけれど。

なお、基本的に私は夕食後に体重を量っている。液体や固形物を摂取した後だ。
今日は「無駄な液体」を呑んでいなかったから、74kg台になっているかと思っていたのだ。


私は、22歳の時に買ったスーツがまだ着られる。
ただ、当時は一世風靡セピアとか、チャゲ&飛鳥とかが居た時代で、「ダブルのスーツ」が流行っていたのですね。
ここ数年来、また「ダブルの時代」が来るかと思っているのだが、あまり来る気配はない。ダブルのスーツは処分してしまったものもある。

シングルかつ襟の幅が細いスーツって、体が太いと似合わないですよね。
最近のパンツはノータック、あるいはせいぜいタック1つだしなー。


関連する過去の日記
夏、たこ焼きと覆面パトカー(2011年9月)

日本語を変えた飛鳥涼

前に書いたことを改めて。

この間、子と話していて「血は争えないでありますな」ってなコトを私が言った。
「それはどういう意味なんです?」と尋ねてきた。確かに、少し難しい言い回しだ。
なお、私の「ありますな」とか、子の「なんです?」という言い回しは、『ケロロ軍曹』に由来するものである。子が幼い頃、親子して、確か"Hulu"にて、かなりしつこくケロロ軍曹のテレビシリーズを見たからだ。ケロロ軍曹は面白い。ガンダムネタが時々混じってくるのも、私には面白い。話は飛ぶが、一時流行した『妖怪ウォッチ』は、テレビで放映されたものを見ていた限り、「昔のネタ」が多すぎた。それも凋落の一因ではあったのだろう。

で、本題。
突如としてオリジナル・ラブ(どうも近年、ラヴからラブになったらしい)で、何故「あのような『引っかかる歌詞』」が出てきてしまったのか、気づいた。その歌は『It's a Wonderful World』である。四半世紀昔の曲なんですね。改めて聞いてみると、やはりなかなかかっこいい。実家の段ボールの中に、CDがあるはず。現住居には音源もデータも存在していない。

2番には「血で血を争う文字の見出し」という歌詞が出てくる。
ずーっと、「血で血を洗う」でしょうに、と思っていた。

あれは田島貴男氏の脳が「血は争えない」というニホンゴに、引っ張られてしまったのであろう。25年かけて、理解した。


似たような、部分的に意味がよく分からない歌詞に、ミスチルの『名もなき詩』がある。これは冒頭。やはり、以前に書いているのだけど。

「ちょっとぐらいの汚れ物ならば」ってあるけど、「汚れ物」は、一義的には「洗濯前の衣類」や「洗浄前の食器」だと思うんですよね。
Yahoo!知恵袋にも、質問が立っていた。
ま、あのニホンゴに「違和感」を感じる人は多いのであろう。


で、今日も改めて調べてみたのだが、やはり「掛け違えたボタン(ボタンの掛け違い)」という語句は、『僕はこの瞳で嘘をつく』以前には見当たらないような気がする。

飛鳥涼氏の作詞である。2000年代以降は、「ボタンを掛け違う」という歌詞が、散見される。演歌などにも。

私はそんなにたくさん CHAGE&ASKA の楽曲を聴いたわけではないが、安心して聞ける「詩」が多いように感じられる。

まぁ、ミスチル以降のJ-POPは、メロディに「多数の日本語の音節」が突っ込まれることが増えたので、そういう「ちょっと不思議なニホンゴ」が多くなったのかも知れないけれど。

半オンスの拳

Chage & Aska が解消したとか何とか、ってニュースを見た。
たとえ、そのグループが無くなったとしても、楽曲は無くならない。ファンの方にとっては、解散は悲しいニュースなのかも知れないけど。

で、私は日本語の使い手としての飛鳥涼氏を尊敬している。
ま、あんまり熱心なファン、というわけでは無いけれど。

で、1つだけ「この歌詞はいかがかなぁ」って思っていたやつがある。
有名な曲(だと思う)の『LOVE SONG』である。コメント欄は基本的にベタ褒めのようだ。ま、音楽の動画は大体そうだけど。

歌詞にこうある

ひどいもんさ 生きざまぶった
半オンスの拳がうけてる

普通に解釈すると、飛鳥涼氏が自らが作った歌について述べているように見える。
で、私が問題としたいのは「半オンス」である。ま、やはり、普通に考えれば「ボクシングのグローブ」ってことになるのでは無かろうか。

「半オンスの(ボクシンググローブをつけた)拳」ってのは、ほぼ素手ですよ。かなり本気である。
ボクシング グローブのオンスとは?おすすめの重さはどのくらい? | ソバネコ

おそらく、拳(世の中を叩くために存在しているもの、つまり自分の歌)と「半人前」を掛けて「半オンスの拳」に相成ったのであろう。結果的(ボクシングの世界的)には、かなり「本気の拳」になっちゃってますけどね。

『あしたのジョー』を一通り読んだ自分としては、ずっと引っかかっていた話題?なのでございましたm(_ _)m


関連する過去の日記
2月という名の山場(2012年2月)
「ボタンの掛け違え」と飛鳥涼(2006年6月)
天国に一番近い便(2011年8月)
日本語を変えた飛鳥涼(2019年8月)

ここにあるのは、過去に書かれた日記のうちで飛鳥涼(CHAGE and ASKA)カテゴリに属しているものです。

前のカテゴリは山下達郎です。

次のカテゴリは痛風ってヤツです。

最近の日記はこちらで見られます。過去に書かれたものはアーカイブで見られます。