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理科と私

2001年作成

 

 まず断言します。私が理科好きになったのは『学研の科学マンガ』があったからだと。あのマンガ達が存在しなければ、今の私は存在しないのです。でも、それは何事でも同じなのですけどネ。自分の親や妹たち、祖先は当然として、ほとんど覚えてはいない「茨城県新治郡千代田村立下稲吉第三保育園のトモダチ」が一人でも欠けていれば、今の私は存在しないのと同様に。で、定番?の『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』も熟読しました。ってコトで、まずは私とイキモノの関わりについて述べましょう。

 私が四歳から小学校四年の途中まで住んでいたのは、日立製作所のアパート@千代田村(現千代田町)でした。犬や猫などの大型生物はやたらには飼えません。必然的?に身近に生息しているカナヘビ・アリジゴク・クワガタ・カブトムシなどの小さな生物を捕まえてきては、親にねだったプラスチックの飼育ケースで育てていました。

 愛玩生物として定番のクワガタ・カブトムシを育てたのは小学校三年くらいのことでした。ヤツらは確かに「ヒト世界における飼育生物」には適していたと思います。私の見る限り、砂糖水やスイカの食べ残しなどの適当に甘いものを与えておいてやれば、それらにひっついてモサモサ舐めて満足しているようでした。スイカも砂糖もその辺の店でいくらでも売っているから入手しやすい。その甲虫飼育時のオモヒデとして、親に「腐葉土(ふようど)」をねだったというコトがあります。近くのDIYの店で買ってもらいました。今思えば、スコップとバケツを持って近くの栗林に行けば、いくらでも得られたはずなのですけどね。『カブトムシのすべて』みたいな本に、「飼育ケースに腐葉土を敷きつめ…」とあったので、「腐葉土」ってのは特殊な土であると、そのころは思いこんでいたのです。「クサる」なんていう言葉を知らない、若かりし頃のハナシでございます。

 サラサラした砂をケースに入れ、アリジゴクを飼ったのは小学校一年か二年の頃だった記憶があります。ヤツらには餌として新鮮なアリを捕まえてやらないと駄目なのですね。餌のアリンコを捕まえる途中に怪我をさせてしまった場合、アリジゴクはそれを餌として認識せず、その体液を吸ってくれないのです。アリンコだって、見知らぬ巨大な物体(私の手)には捕まりたくないでしょうから、一生懸命逃げる。その結果、どうしてもアリンコを潰し気味になってしまい、微妙にアリンコの運動能力を奪ってしまうのでした。チナミに、アリジゴクというのは「カゲロウ」という生物(巨大な痩せた蚊のようなもの)の幼生であるらしいのですが、カゲロウまで育てた記憶はないのです。アリジゴクは私が殺してしまったか、あるいはもとの砂地に放ったのでしょうが、はっきり言って覚えていません。

 一番強烈に覚えているのが子供のカナヘビ(茶色いトカゲの一種)を飼っていたときのハナシです。これも確か小学校低学年の頃だった気がします。なんでそのカナヘビが「子供」と分かったのかというと、その辺を走り回っているカナヘビよりは小さかったからであります。私の記憶の中の愛しきカナヘビは全長10cm内外ってとこです。千代田村では緑と黄色の一般的な「トカゲ」ってのはあまり見ませんでしたね。で、その小さなカナヘビ、やはり新鮮な餌でないと食べてくれなかった記憶があるのです。ある夕方、苦労して捕まえた元気なヒシバッタ(8mm内外の菱形をした茶色いバッタ)を飼育ケースに放ちました「カナヘビよ、大きくなれよー」と、丸大ハンバーグのCMの巨人のつもりで。まあ、生徒の皆さんはそんな古いCM知らないでしょうけどね。で、プラスチックのケースの中で、そのヒシバッタは天井にぶつかりながらピョンピョン跳ねていました。

 翌日、気がついた時には子供のカナヘビは冷たくなっていました。ノドにバッタを詰まらせたまま。

 まあ、もともとカナヘビは変温動物ですから手に載せると「ヒヤッ」とするのですけどね。幼い私はその時かなりショックを受けました。アゴが脱臼しそうなくらいに口をガパーッとあけて、体に比べるとちょっと大きいかなと思われる餌を丸飲みにしようとしながら、そのヒシバッタを飲み込めずに窒息死しているカナヘビ。「僕のワガママで殺したんだ」と認識しました。ペットショップなんてものがあると知ったのは小学校の四年生の時に東京に引っ越してきてからのことでした。

 このペースで行くと、「くすのき」まるまる一冊あっても、現在の私にたどり着けそうにありませんので、いきなり大学受験のときのハナシに移ります。

 私は高校生の頃「小学校のセンセイ」になりたいと思っていたのです。また、一応「理系」の端くれであると思っていました。ヨノナカの「理系の受験生」というのは物理と化学を受験科目にする場合が多いので、私も「長い物には巻かれろ」と高校二年の四月から高校三年一月の「共通一次」までは物理と化学を勉強しました。が、共通一次を化学で受験して、改めて思いました。「二次試験では物理を選択しても100点は取れなかろう。30点が関の山か?」と。そんなわけで、二次試験までの一ヶ月と少しを地学と化学と地理の勉強に打ち込むことに決めたのでした。

 あれほどずーっと問題集に向かい合っていた日々は無いと思います。コタツで昼も夜もなく勉強していました。有名な「チャート式」を使って一から地学の勉強をやり直し、それに飽きたら化学の計算問題を解く。それにも飽きたら地理の問題を解き、それにも飽きたら化学のイオンの検出や官能基の暗記をし、腹が減ったらご飯を食べ、という日常だった気がします。週に一度の外出は、近くのファミリーマートへの買い出しでした。その頃愛読していた「ビックコミックスピリッツ」というマンガ雑誌の。そんなわけで二月末頃から始まる「二次試験」の頃には足が退化してしまい、試験場である国立(くにたち)の一橋大学の周りを散歩した際、両足のすねが「腱鞘炎」になったのでした。情けなや。

 チナミに私の母校は東京学芸大学ってとこであります。「自宅から通える教育学部が大きな国立大学」というのが志望理由です。共通一次化学100点という自負(そして数学は平均点以下という自負?)を引っさげ、「テレビCMに出てくるセブンイレブン」の横から始まる桜並木をくぐったのでありました。教育学部初等教育教員養成課程理科専修というクソ長い学科に入学したのですが、俗には「A類理科」と呼ばれていました。全部で90名程の同級生がいて、二つのクラスに分かれてました。教員志望の学生が多いということで、こぢんまりとまとまったヒトビトが多かった気がしました。まあ、徐々にいろんな人がいることを知るのではありますが。

 で、ここから更に私は理科と深く関わっていきます。

 入学式直後、学生課か何かから「あなたはどの科目を選びますか?第一~三希望を書いてね、ただし化学と生物は人気があるので、これらを第一・二希望に続けて書いてはいけないのよ、ウッフン。」というアンケートが行われました。科目としては物理学physics・化学chemistry・生物学biology・地学earth science・理科教育学という五つのジャンルがあるのです。私は中学から高校にかけて好きになり、特に真面目に勉強した分野である「化学」を大学でも勉強しようと心に決めていました。当然第一希望は化学です。自己採点では化学の筆記式の二次試験も満点だったと思っていた私でもあり、希望が通らないわけは無いだろうと高をくくっていたのでした。でもその他の希望も書かねばなりません。物理はどうも性に合わないし、理科教育って何を勉強するのか分からない。ってコトで必然的に第二希望が地学、第三希望が生物、となりました。

 翌日、私は地学科にバッチリ組み込まれていました。化学に行けなかったことも悲しかったけど、前日にチェックを入れていた女の子(複数)が見あたらなかったコトも悲しかったです。私の主観ではありますが、女の子のルックスだけを見ると、化学科か生物科に行っておけば良かったと思いました、一度ならず。(チナミにこの一節はセクハラに該当する可能性もあり得ます。「時効」とは思われますが、この文章の取り扱いには注意を払ってください。)

 早速その日(入学式翌日)に地学科のオリエンテーションがありました。まずは地学科の教授や新入生の自己紹介です。私は前述した志望理由を述べ、それなりに笑いをとったような記憶があります。その自己紹介も佳境に入った頃、浪人して入学したという真面目そうな女の子の自己紹介が始まりました。「(前略)私は生物科に行きたかったのです、なのに、なのにぃぃ…(後続かず)」とおもむろに泣き出しました。さすがの私もちょっとブルーになりました。教授の方々も苦笑するしかなかったようです。

 更に悲しかったコトに新入生の宿泊オリエンテーションという行事もありました。何故か地学科だけは「鳩ノ巣」という山奥(青梅線沿線の方、ゴメンナサイ。特に悪気はありません。良い印象も持ってないけど)で行われたのです。他の四つの科目選択者(チェックを入れた女の子達がいるのです)は仲良く八王子かどこかで勉強していたらしいのに。ウワサでは「数年前に地学科のヒトが酒を飲んで暴れたから、地学は仲間はずれにされた」と聞きました。ホントかどうかは知らないけど。

 そんなコトもあり「これでは(私をとりまく環境は)イカン!」と学園祭「小金井祭」の実行委員に自ら志願したり、歩いて旅をするサークル「伸歩会」に入会したりと、学業外に情熱を傾けることを誓った一八の春でした。

 なかなか本題に入りませんね。学園祭やサークル活動についての紹介(告白あるいは懺悔?)は別の機会に譲るとして、とりあえず学業関連に話題を絞りましょう。

 地学科は一年次から所属する研究室を決めなければならないという掟がありました。地学科には天文学・気象学・地質学・古生物学・地球物理学(地震学)などの研究室があったのですが、私は一番楽だと聞いた「岩石・鉱物学研究室」に入ったのであります。この場合の「楽」とは「時間的な拘束が少ない」という意味なのですけど。

 大学生だからアルバイトしてみたいじゃないですか。せめてサークル活動の費用くらいは自分で稼ごうと思っていましたし。結局のところ、一年から三年までは、ほとんど研究室に寄りつきませんでした。まあ、私よりももっと寄りつかなかった人もいましたが、その人達は物理科・化学科などに三年次に転籍しました。私は転籍をする程化学に固執していたわけではなかった、というよりは「化学科は実験で大変だ」というウワサを聞いたので、地学科に残ることにしたのです。なんといい加減な選択でありましょうか。自分でも感心します。

 そして時は流れ、大学も四年。私のココロには「卒業研究」の存在が重くのしかかっていました。卒業単位として必修でありますし、二年次くらいからさっさとテーマを決めて実験・研究をしなければいけないとは思い続けていたのですが、サークル活動(主に部員たちとの飲酒)に没頭しすぎた私は、テーマも決まらないまま大学四年の春を迎えていました。加えて「職業をこのまま教師として決めてしまって良いものだろうか?」とか、「大体、一・二年次で修得するはずである必修の一般教養を四年次にも履修しなければならない私はちゃんと卒業できるのだろうか?」とか、「ヒトは何のために生きているのだろう?」などと「考え事」をしすぎてしまい、一種の錯乱状態に陥っていました。神経症あるいは自律神経失調症とも言えるでしょう。チナミに私は今でも大学四年次の夢を見たりします。「やべー遅刻だ、卒業に関わってるのに」というヤツを。

 大学三年の三月から四年の六月くらいまでは、すさまじく感情・思考・言動が不安定だった記憶があります。よく乗り越えたものだと今でも思います。親なんかにもずいぶん心配かけたようです。で、その最中(たしか四月か五月)に研究テーマを得たのでありました。アイデアが空から降ってきたという感じでした。

 通学途上の山手線か中央線なのですが、「大清水」という吊り広告が目に入りました。具体的になんて書いてあったかは覚えていませんけれども、「新幹線のために掘られた『大清水トンネル』から湧き出す『谷川岳の地層を通ってきた水』はおいしいよ。」という広告だった記憶があります。私はひらめきました。「おいしい水と岩石の関係を調べよう!」と。後にそのポスターの現物も「ジェイアール高崎商事」から頂いたのですが、寄贈のつもりで研究室の壁に貼ったまま卒業してしまったので、二〇〇一年現在手元にはないのです。

 やっと卒論のテーマが決まったので、錯乱のさなか、意を決して指導教官の本間久英センセを訪ねて行きました。私自身も割と無愛想な怪しい人間だという自覚があるのですが、本間先生も「パッと見」はかなり無愛想なヒトでありました。が、いざ本気で相談してみると結構良いセンセイで、いろいろと相談に乗ってくださいました。中学校での教育実習を挟んで研究の手法を詰め、その後数ヶ月実験に勤しんだのでした。

 丁度その頃、同じクラスのヒトビトも私と同様、卒業論文作成のため研究室に入り浸る必要がありました。夕方になると、それら研究室の入っている自然館という建物の屋上とか、誰かの研究室とかで飲酒してましたね。もう一度戻りたい気もします、あの頃へ。

 大学における学習活動は、四年次が一番面白かったですね。苦労したことは確かですが、あの数ヶ月間は私の持てる理系能力を使いきったという気がします。テストに向けた机上の学問である受験勉強とは違い、自分の手を使って「見知らぬ何か」を追い求める日々でした。この成果はhttp://www.ariori.com/sotsuron_2001/に置いてありますので、気が向いたら見てみてください。実験時に遭遇した「笑い話」も付近のページに置いてあるはずです。

 ってことで、唐突にこの文章は終わるのでした。最初は嫌々所属した地学科だったのですが、最終的には納得のいく研究ができたので良かったと思っています。また、地学科の出身ってのも教員世界では「レア」で良いと思います。最近は生物学(特に生化学)が面白いカナと思わないことも無いワタシなのですけど。

 なにはともあれ、自然科学万歳!

 歯ぁ磨けよ!宿題しろよ!!また来週!!!(「八時だよ!全員集合」風)


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