例によって?試験問題作成の季節が到来している。そんな中、私は例によって逃避をしているのだった。
本年度になり、私の職場にはひとり1台のパソコンが配布されたのは前述の通りなのだが、その公式パソコンには様々なアプリケーションがあらかじめ導入されていた。デスクトップにはずらずらとアイコンが並んでいたのだが、デスクトップが汚いとパソコンの処理能力が落ちるという噂を信じている(ホントの話でしょうけれど)私なので、使わない奴は片っ端から削除していったのでした。そんな中、削除しようにもできないアイコン「Microsoft Outlook」様がいらっしゃったのですね。アイコンを削除しようとすると、以下のようなメッセージ(正式にはダイアログ)が出てくるのだ。
ウィンドウズは「XP Professional Version 2002 Service Pack 2」ってヤツです、ちなみに。「削除しない方が良いよ」ってメッセージが出ても、「氏ね!」って気合いと共に「はい(Y)」ボタンを押せば、「マイネットワーク」とか「マイコンピュータ」なんかはデスクトップ上から削除できるのが普通なのですが、上記ウィンドウのボタンのどちらを押しても、私の使用しているデスクトップには「Microsoft Outlook」様は厳然と存在し続けるのでありました。おかしな話でございましょう。この現象は私がこのパソコンを使っていく過程で設定がおかしくなって起こったのかも知れないし、管理者権限によってアウトルックだけは削除できないようになっているのかも知れない(そんなことあるのか?)が、不思議なことである。(2008.10追記:現在は削除の方法がマイクロソフトから示されています。)
そんなわけで、最初は仕方なく始めたOutlookの使用なのだったが、使ってみると結構便利なのですな、これが。以前から「to do リスト」をメモ帳で作成し、そのテキストファイルを「アクティブデスクトップ」って機能を用いてデスクトップに表示していたのですが、Outlookの緻密さの前には、素のtxtファイルは敵ですらなかったのです。「予定表」には日時別に会議などの予定を入れていき、「仕事」には期限付きの重要な事務仕事を。「メモ」には短期的ですぐ終わりそうな仕事や優先順位の高くない仕事を記しています。ちなみにOutlookはバージョン2002のSP3とやらだそうです。
また、ここ1週間くらいの話なのですが、ケータイ電話の契約変更(J-PHONE時代からの契約を継続している)に伴ってvodafoneの冊子をパラパラとめくっていたら、702NKの「PCリンク機能」の「Outlookと...」に目が留まってしまったのです。
結果から言いますと、使い勝手はかなり良好です。以前の私のスケジュール管理は携帯電話401SHの予定表と職場の机上にある小型カレンダーの2本立てであり、人力で同期を行っていたのですが、今は基本的にOutlook1本であります。その上で「青っ歯」同期のお世話になっているのです。正式(?)にはBluetoothっていうらしいですけどね。「青い歯」ってなんか怖いですよねぇ。しかも歯一本(Bluetoothのusbアダプタ)で約4000円です、機種変更手数料の約4倍かかりました。ま、入れ歯よりは安いかしら。ありがとう、デンマークの王様。
2005年7月アーカイブ
杉並区では『新しい歴史教科書』が採択されようとしているらしい、「つくる会」の教科書採択に反対する杉並親の会とやらの宣うところに拠れば。結局のところ、私は未だに『新しい歴史教科書』とやらを読んでいないのです。恐らく職場にはその新版見本があるのでしょうが。で、仕方なく?新しい歴史教科書をつくる会のページでも見てみた。
面白い(なかなかやるなぁ)と思ったのが、トップページに「英語訳・中国語訳・韓国語訳公開!」とある点である。教科書の内容に自信があるというコトを知らせたいのかも知れないが、私は日本語版を読んだこともなければ、外国語も達者ではない。従って、英語訳・中国語訳・韓国語訳が誠実に日本語版を訳しているのかどうかは検証できないのだ。
で、その杉並区では「とめよう!『つくる会』教科書」っていうコトで署名活動が行われているのです。私が通勤で使用する阿佐ヶ谷駅前には、ここ数日ビラ配りのヒトや署名を乞うヒトが立っているのです。また、私は職場ではクミアイってヤツに所属していることもあり、左寄りの回覧物も回ってくるわけですよ。
『新しい歴史教科書』は読んでいないから内容や主張については未消化のままなのでありますが、私は朝日新聞が割と好みだったり、高校時代の友人に洗脳されたコトもあったりするワケでして、署名した方が良いかなぁ?ってな気分だったのです。だから本日帰宅途中に署名してきたのですわ、阿佐ヶ谷駅前で。
で、本心というか私の中のわだかまりを暴露すると、「何で歴史教科書ばっかり問題になるの?」ってなトコロもあります。理科の教科書はどうした?って疑問がありますなぁ。で、理科の教科書、私が良いと思ったのは「東京書籍」のヤツであります。ま、私自身が中学校で使用した教科書の会社なんて覚えていませんが、学年が変わるトキに教科書会社が変わって勉強しづらかったような記憶(たしか数学)が今フト蘇ってきたッス。
私がここ2・3年存在意義を疑問に思っているのが「社会を明るくする運動」ってヤツである。どれだけ税金が投入されているのか(されていないのか)知らないが、その運動に関連している公務員は本気で働いていないのではないんじゃない?って思う。もし私がその(下らない)職場にいるならば、ここ数年の「性犯罪者の情報を公開しようよ」って傾向は許せないコトとなるはずである。「私が奉職している"社会を明るくする運動"の理念に劇的に反するノダ!」って激怒しなきゃ嘘だ。しかし、全然そんな話は聞かないやねぇ。阿佐ヶ谷駅前でティッシュを配ったり、駅構内に垂れ幕を設置したり... 税金の無駄遣いですなぁ。
先日、『世界報道写真展2005』とやらに行ってきた。
この写真展に行くのは、昨年度に続き2回目であった。前回は職場に置いてあった「招待券」を貰って行ってきたのだった。学校という場所は結構「招待券」がやってくるところなのである。昨年初めてその写真展を見たときの印象は「紛争というのは世界の至る処で起こっているのだなぁ」というものであった。かなりヘビーな写真展である。あの写真展を見ると、自分の無力さを感じ、自分は平和な世界にいるなぁ、と思うのです。少なくとも「簡単に命を落としてしまうような場所に居ない」ということを認識します。ま、この文章を作成している数秒後にこの東京に巨大地震がやってくる可能性もあるのでしょうけれどね。
今年、職場ではタダ券がどこかに置いてあるコトは無かったのだが、写真部顧問の理科の先生がタダ券をくれたのだった。再び、写真展を見ての感想は、「昨年は「いろんなところで紛争が起きているのだなぁ」というコトを思ったっけなぁ」でしたとさ。ヒトというのは忘れっぽい生き物なのだと改めて思いました。
その写真展では「ポートレート部門」というのがあるらしく、入選した作品集の中には「イラク戦争で負傷した、アメリカ合衆国軍の帰還した兵士(の肖像)」がありました。また、「現代社会の問題(だったかな?)部門」では、「中国の工場で働いている最中に、体の一部を失った青年たち」というのもありました。写真というメディアによって「物理的に傷ついた人」を見ると、生き長らえて写真に収まったヒトの裏に、死んでしまったヒトが居ることが連想されます。(実際には写真展の作品に「この後、写っている兵士は殺された」というものもありましたが。)ニュースの報道による「数十名(数百名・数千名・数万名)の死者」というフレーズを、スッと聞き流してしまうような日常を送っている私ですが、死というモノをもっときちんと想像し、戦争や紛争といったデキゴトに慣れないようにしたいと思うのでした。ただ、あんまり本気で見知らぬ人の死を悼みすぎていると、ココロが辛くなってしまうでしょうね。また、地球上に生まれた人が皆んな天寿を全うできたらば、食料はもっと大幅に足りなくなり、さらに紛争も頻発してしまうことになってしまうのかも知れません。