学校と「君が代」 の日記群

君が代の「君」って誰

私のお勤め先は私学なので、そして私が知る限りは「入学式」「卒業式」で「君が代」が「式次第」に入っていたので、特に今年も変わり無く、卒業式でも君が代を歌った私なのであります。
一応、私は「君」は「卒業生タチ」のつもりで歌った。特に「アキヒトの世がいつまでも」なんて思わない。
公立学校の教員が「法律になったって、「君が代」なんか、歌いたくない。起立はするけど。」(意訳)なんて投書が新聞にあったりします、というか、私はどうしても目に留まってしまうのです。
教員をやっていく上での一番ムズカシイ点は、「ヒトの価値は試験の成績で決まるものではない。」「自分の考えを持ちなさい。」とか言うコトもありながら、自分自身が大学入試・教員採用試験を通り抜け、日本国憲法・教育基本法・学校教育法達に守られた存在であるということでしょう。
そこへ来て、「君が代だけは・・・」と言っても、説得力はないような気がする、ましてや公務員でない人から見れば。だから、そこそこ常識派の教員は諦めてしまうのでしょう。別に投書もしない。
無理に波風を立てるよりは、生徒のためになる(であろう)ことを、自分自身が納得できることをすればよいでしょうし。
「君が代なんか歌うか!」と言っているセンセイが居るというのが、不思議というか、面白いというか、尊敬するというか、無邪気というか、複雑な問題だなあと。
そして私は卑怯なことに、「私学で良かった」なんて、思ってしまうのです。

さざれいし

書いたつもりで書いていなかったコトを、また思い出した。それは、「君が代」は「ラブソング」であるというコト。これは大学時代に指導教官から教えて貰った話である。

「君が代」という歌についての詳しい話は Wikipedia の君が代をご覧頂けばよいだろうか。
その歌詞は、漢字仮名交じりではこうなる。

君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで

上記Wikipedia の上の方にある「現代語訳」は問題ないと思います。
しかし、岩石学を専攻した私に言わせますと、このページの下の方にも出てくる"さざれ石"という存在自体に納得行かないのです。
「"さざれ石"という種類の岩石がある」というサイトがやたらと多く、画像を探すと結構出てきますが、これが気に食わない。

本間久英先生によってインスパイアされた、私の「君が代」解釈はこうなります。

あなたと私が存在しているこの世界、何と素晴らしいのでしょうか。
例えば、この河原の小石もいつか海へ流れ着くでしょう。そして、この石は海の底に降り積もります。
時間が経てば、積み重なった小石達は堆積岩へと変わるでしょう。そして地殻変動が起これば、その岩は山になることもあることでしょう。
そう、いつになるかは分かりませんが、この小さな石は多分岩になります。そしてその横にはまた水が流れるはずです。そこには苔が生えるかも知れません。
それくらい永遠に、私の思いは続くのです。
君よ永遠なれ。

何しろ、「さざれ石」は「小さな石」でしかないと思うのですね。歌詞「さざれ石の巌となりて」を普通に現代語訳すれば、「さざれ石が巌になって」としか解釈し得ないと思うのです。

妙に大量に存在する仏舎利よりはマシかも知れませんが、日本のそこら中には「さざれ石」のディスプレイが見受けられるのですね。というか、岩石学を専攻し本間先生に話を聞かされてから、「細石」がやたらと気になってしまうといった方が正しいでしょう。これらのさざれ石を見る度に、「単なる礫岩じゃん」って思うのですね。そんなわけで、妙に厳かに「さざれ石」が飾ってあると、何か鼻白む私でしたとさ。

で、何でこんなコト思い出して記したのかと言いますと、職場にて中学2年生に岩石学を教える事になるからなのですね。その導入として「君が代」の話をしようと思ったわけです。この試みは昨年度も行いました。
どういう風に導入に用いるかというと、君が代の楽譜(歌詞なし)を渡して「これは何か分かるか?」と質問するのですね。理科の勉強で楽譜が出るコト自体が珍しいから、それはそれで結構生徒が食いつくのであります。
チナミに、私の勤め先では、中1で週2コマ生物、中2で週2コマ物理&週2コマ地学、中3で週3コマ化学を勉強します。

卒業式や入学式は「儀式」として、存在するべきだ。そして、その場には「日の丸」が掲げられ、「君が代」が歌われるべきだ。
この数日間、様々なサイトを見て、私の中の考えを整理した。そして、上の結論に達した。

私は以前にも日記で「君が代」について、思うことを記してきた。
2000年04月04日 君が代の「君」って誰
2005年11月24日 さざれいし

今回の日記を記すに当たり、まずは引用から。

下に示したのは、公立私立を問わず、学校を運営する際の指針となるであろう「学習指導要領」(文科省サイトへウィキリン)の一部である。

中学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)

第4章 特別活動

第1 目標
 望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団や社会の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,人間としての生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う。

第3 指導計画の作成と内容の取扱い
3 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

高等学校学習指導要領(平成11年3月告示、14年5月、15年4月、15年12月 一部改正)

第4章 特別活動

第1 目標
 望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団や社会の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,人間としての在り方生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う。

第3 指導計画の作成と内容の取扱い
3 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

これを見る限り、以前の所沢高校のように「卒業を祝う会」があり、「卒業式」が無い学校が存在するというコト自体が不思議に思える。

そして、次のリンクを開くと、平成15年(2003年)10月23日に発せられた東京都教育委員会からのお達しを読める。

入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)

私は、差別主義者の石原慎太郎は嫌いだ。しかし、今回の「君が代訴訟」についての彼のコメントは適切だと考える。


私自身は小学校・中学校・高校・大学と「卒業式」に触れてきた。
果たして、私が卒業した都立小石川高校では、「国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚」してあったのか、また、「都旗を併せて掲揚」し、「国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、都旗にあっては右に掲揚」してあったのかどうかは記憶にない。平成元年のコトだから、上に示した通達が発せられる前であるが。
校歌は歌われたはずだ。私は合唱部「音楽研究会」に属していたので、自分が当事者となっていない入学式や卒業式などでは、壇上で校歌を歌った(歌わされた?)記憶が残っている。しかし、「君が代」が歌われたかどうかについては記憶がない。なにしろ、卒業式は30分程度で終了してしまう、非常に簡素なものだったことは記憶している。


私は原理主義者である。「何事も法に則るべきである」という考えを持つ。
憲法等に基づいて行われた選挙の結果、今のイシハラシンタロウを始めとする、(特に好きでもない)政治家が君臨?している。しかし、彼は多数決によって選出された人物である。その意見を尊重するのが民主主義というものだろう。東京都という地方公共機関の一組織として「教育委員会」が存在している。それが3年前に命令を発した。
上記引用文や参照先サイトが存在する今、公僕である都立学校教員、公立小・中学校の教員はそれに従うべきであると考える。何しろ公務員である教員は、「税金のお流れ」を貰っている存在であることだし。

なお、当然のことながら、教員についても、日本国憲法第19条の「思想及び良心の自由」は尊重されるべきであろう。通達では「カタチ」について記してあるが、「ココロ」については一言も触れていない。場合によっては、ジャニーズ事務所のタレントみたいに口パクするとかもアリなのだろう。
以前の日記にあるように、私は「君が代」を歌う場合、基本的に「天皇のために」とか「お国のために」って思って歌っているわけではない。小学生の頃は、歌詞の意味すらあまり考えたことが無かった。
自分が所属してきた学校には、「強固なリベラル派の先生」が「居なかった」のだろう。だから、君が代を「歌い続けて来られた」。


「学校で君が代を歌う」=「戦争推進」っていうふうに、ハナシを短絡化させちまう教員や一部のマスコミ。それらの人々は「思考停止」しているとも言えるんじゃないだろうか。国際的なスポーツ大会では、立派に日の丸が掲げられ、君が代が流されてる。それを「けしからん」って明言している人物を見たこと無い。


君が代を歌いたくない公僕の方々やマスコミの方々に質問したいことがある。
「アナタはどんな結婚式を行いましたか?」って。

日本では、「神前式」で結婚式を挙げた方が多いだろう。
神前式ってのは、思いっきり日本古来の神に誓っているわけだろう。あんまりその仕草の意味も分からぬまま、「儀式」として和服を着たり、「三三九度」ってヤツをやったりしたのじゃないかな?
そんなヒトが「君が代歌うの反対」とか言ってるのだとしたら、矛盾も甚だしい。儀式として日本古来の神と接したことがあるのだから、儀式として君が代を歌うのも良かろう。「神前結婚式」に比べれば、ほとんどの「卒業式」なんて宗教色など無いに等しいだろうし。
結婚式以前に、ほとんどの日本人は「七五三」という儀式を経験しているだろうことも申し添える。

では、教会で結婚式を挙げたヒトなら良いのか?
日本では、何故か突然結婚式のときだけ「見知らぬイエスさま」に誓ったりなさる方が多い。にわか信者をやるってコトは、生まれながらのキリスト教信者を冒涜していると思うのだ。これはこの文章の本題からずれるけれど。で、そういう「にわか信者」って、それこそ「儀式として、あんまり意味も分からないまま、父と子と聖霊に誓」ったりしてるんじゃないかな?
それくらいに「宗教に寛容なヒト」だったら、「儀式として日の丸を飾り、儀式として君が代を歌う」のなんて、全然「やれるはず」だと思うのですよ。


何しろ、儀式は儀式として、見かけ上は厳粛にやっつけちまえば良いだろう。心の中は誰にも縛れないのだから。
この世の中は「儀式」だらけだ。「七五三」とか「成人式」とか「入社式」とか「結婚式」とか「葬式」とか。だったら、「儀式は儀式なのだ」って子供に伝えることは必要だろう。自分の思うところ、例えば「第二次世界大戦の前は不幸な時代で、日章旗や君が代の下に...」とかは、授業中などに披露すれば良かろう。そのセンセイが話す内容については、どこまでが許され、どこからがヤバいとかいった線引きは不可能だろうし。なにしろ、「思考停止」に陥って「通り一遍」の主張を展開するよりは、何事も自ら考えて授業を行うべきだと私は考える。

最近言われる「荒れる成人式」ってのは、「厳粛な卒業式」を知らない輩が増えたから起こっているのだと思うのだ。まあ、あれも一部のコトであり、マスコミが大げさに報道している面もあろうが。
なお、私は「成人式」には出ていない。その式に出る意味を見いだせなかったので。


昨日今日と、職場は文化祭だった。
昨日の開会式で、司会の生徒が「校歌を斉唱します」って言うべきトコロを「国歌を斉唱します」って言い間違えた。その後「校歌斉唱」だって言い直した。
なかなかタイムリーなギャグだと思った。そのギャグによって、静かになっていた体育館に生徒達のざわめきが起こっていた。司会をしていた本人はギャグでは無く、本気で言い間違えたのだろうけど。
私の隣にいらっしゃった先生は「今までで2番目に面白いギャグだった。一番はA先生のハナシだけど」っておっしゃってた。

A先生(現在は退職なさっている60代の先生)の伝説の講話が行われたのは、私が赴任する前だそうだ。スカート丈をどうしても上げたがる生徒がいるので、それを行わないよう諭すためだったそうだ。
生活指導主任だったA先生は、「スカートの裾を上げるために、ジャンパースカートのベルトをウエストの高い位置で締める生徒達」に対して、以下のように警告を発したそうだ。

「スカートのベルトを締める生徒がいる。そんなにベルトをきつく締めていると、腸捻転にぬぁる。  (数秒後) ...くぁも知れない。」

1000名を超える生徒が、1つの体育館の中で「どっかーん」って一斉に転けたということだ。全校一斉転倒。ただしココロの中だったらしいけど。

卒業式と国歌「君が代」

また、卒業式の季節が巡ってきた。
「君が代論争」が白熱してくるのだろう。

私の見解は、以下に記してある。
サイト内、「君が代」にて検索した結果

改めて自分の文章を読み直してみた。特に間違っていないと思う。
今回、以前から知っていた 根津公子さんのページ ってヤツの中にある、根津氏の文書『処分に思う そして、 心ある教員の皆さんへ』他数点(Web上なのに".doc"!)を読んでみた。
普通のヒトは、好んでワードのファイルなんか、開かないっつーの。その段階で、サイト作成に失敗している。サイトを管理しているのは、根津さん本人ではなく、沖電気を解雇されたヒト(♂)らしい。彼は、根津さんの主張を他人に伝えたいのだろうか? 単なるオナニーじゃねぇの? このサイトと同様にさ(自嘲w)。

で、根津氏の文を読んだ感想。「そういう思想もあるだろうが、私は否定も賛同もしない。自分の思いを、授業で展開するのは良いんじゃない?」ってトコロ。

クビまであと1年か・・頭をよぎる(根津公子)
http://www.labornetjp.org/news/2007/1174360574406staff01

には、

治安維持法下では、生命の危険に晒されましたが、今はまだ生命の危険はないですし、56歳の私には養育義務もありませんから、懲戒免職になっても何とか生きてはいけます。だから、大して迷うことなく、この決断ができたのだと思います。
とあるから、お子さんがありそうだ。
彼女はどういう結婚式を挙げたのか、あるいは挙げなかったのか、それが気になる。


私の主張を念のため繰り返す。自分の信念に従い、授業は授業で好きにやれば良いだろう。どうせ「管理職」は、すべての授業をチェックできないから。

卒業式には必ず管理職が参列する。
式典で「君が代」が歌われるとき、起立くらいしたって良いだろう。歌いたくなければ、口パクで良いと思うのだ。口を結んでいても良いだろう。ヒトのココロを他人が支配することは、決して誰もできないのだから。
教員であるならば、もっと「生徒のため」と思えることに、力を注ぐ方が良かろう。ま、彼女が最も大切に思うことが「不起立」ならば、それはそれで良い。
そして、処罰も仕方なかろう。給料をクニから貰っているんだから。

根津公子氏(ググリンク)の著作『希望は生徒』を読んでみた。

読んでみたが、「学校という場に於ける国旗・国歌」に関する私の見解には、特段の変化はない。根津氏にとっては残念なことであろう。根津氏の意見は意見として尊重するが、公務員としてはフテキセツな人物なのではないかと思う。
私は、「国旗・国歌」に「敬意を払う」のは、地球上に棲むヒトの基本だと思うのですねぇ。もちろん、日本のヤツに限らず。

その自伝?の中では、唐突にお子さんが生まれていた。(恋愛や)結婚式についての記述は全く無い。
17~18ページから引用。

一九七一年、二〇歳の時、私は東京都江東区立大島中学校に赴任しました。
(中略)
家庭科の授業だけでなく、一年目は一年生の学級担任もさせてもらいました。
(中略)
家庭科の授業は、家庭科教育者連盟の学習会や合宿に出かけたり、半田たつ子さん編集の雑誌『家庭科教育』を読んだり、また生徒の要求を聞いたりして、試行錯誤をしながらつくっていきました。「男女の平等」については、日常の言動を折に触れて取り上げ、意識的に問い返しをしていきました。
一九四七年(原文のまま:この本は図書館で借りたのだが、誰かがきちんと「七四年」に校正していた。笑える)四月、第一子を出産。

彼女、「国旗・国歌」(への盲従)は嫌いなようです。
しかし彼女、私が思うに十中八九、神前式で結婚式を行っていますね、時代が時代だろうし。彼女は「日本古来の神」か何かに誓ったハズ。その事実を葬り去りたいからこそ、この自伝では自身の「結婚」について、何も触れていないのだろう。
無神論者の私は、彼女の行動を疑問に思います。

そして、結構面白い記述を見つけた。
ちょっと長くなるが、51ページから引用。

石川中へ移動した一九九〇年四月は、学習指導要領の「日の丸・君が代」条項の先取り実施の年でした。勤務二日目の職員会議での議題の一つに「入学式について」がありました。すでに決定されていた「日の丸・君が代」の取り扱いについてなぜ実施することになったかを質すと、返ってきた答えは、「校長が『実施する』と言うから」でした。誰も責任を感じないこうした運びは往々にしてあることですが、私はこれに黙っていることはできませんでした。「校長が、ではなく、みんなで話し合い、責任を持って決定しようではないですか」と訴えました。すると流れが変わり、決定した議題が差し戻され、論議がされました。そうして採決した結果、「君が代」斉唱はしない、「日の丸」は掲揚するとなりました。そして、その年度の卒業式には「日の丸」も「君が代」も実施しないと決定しました。一九九〇年度から学習指導要領が先取り実施されるなかで、石川中では、それまで実施してきた「日の丸・君が代」を取りやめていったのです。

「それまで実施してきた」のだったら、そのまま実施しておけば良かったと思うんですよ。何かが彼女を突き動かしてしまったのでしょう。転任早々会議で出しゃばれるなんて、スゴいと思います。
それ以降、根津氏などがいろいろと頑張ることにより、東京都教育委員会による学校の締め付けも強化されていったのだと思うのです。無理に波風を立ててしまったことにより、結果的に自分たち(東京都公立学校教員)の首を絞めてしまった気がしてなりません。


「怪しい教員」というと、大阪の方で「新任だけど免職されそうだ」ってなニュースを見た記憶がありました。
Birth of Blues 経由で、そのヒトが井沢絵梨子というお名前だと知りました。「大阪市新任教員免職撤回裁判」というページ群を見たのですが、その中のページの一部は思いっきり".doc"で放置してありました。
少しそのドキュメントを眺めてみましたが、あまり面白いものでもありませんでした。リンクは貼りません。

"労組系"の方々がネット上で活動する場合、「ワードファイルでの主張がデフォルト」なのでしょうか。根津氏の場合もそうでした。大変に不思議です。職場で「零細クミアイのイインチョー」をやってる私も真似してみようかな。

根津にしろ、井沢にしろ、教員なのだったら、「自分の言いたいことを伝える」という作業に、もっと真剣であって欲しい気がします。「ワード放置」じゃ、普通のヒトには多分伝わりませんね、何か言いたいことがあったとしてもさ。

スラッシュドット・ジャパン
「個人情報保護」のため卒業式の写真・ビデオ撮影を禁止?

から、
AGARA紀伊民報
撮影ご遠慮ください、保護者から不満も 田辺中学卒業式

を知った。

スラドの記事には、

個人情報保護法って、そんな内容含んでたっけ? つ~か、学校のサイトに生徒の写真とか名前出てますけど......

とある。で、その中学の公式サイトを見る。
http://www.tanabe-h.wakayama-c.ed.jp/tyugaku/H19tayori/40_1.htm
↑確かに。アホか。


紀伊民報の記事の中には、以下のような記述がある。

浜野校長は「保護者としての気持ちはよく分かるが、写るのが自分の子どもだけではない場合、個人情報保護法で規制される。撮影されるのを嫌がる生徒や保護者がいるかもしれないし、ほかに流用される可能性もある。その場合は学校として責任が持てない」と説明。多くの保護者が一斉に撮影することになると、式を厳粛に開くことができなくなることも理由に挙げ、理解を求めた。

校長の本音は、「式を厳粛に開」きたいっていう、ただそれだけなのだろうと想像する。
だったら、厳粛な式が行えるように、式の前に保護者に注意をすれば良いのだ。「携帯の電源はお切りになって...」とか「他の参列者の迷惑になるような行為はお止め...」とかさ。

こういういい加減なコト言っちゃう校長がいる学校は、大変だろうと思うよ。
紀伊民報は良い記事を書いているんじゃないかと思います、思考停止のアホを糾弾するという意味で。


もう一つ似たような記事を見た。

NATROMの日記
香水の自粛のお願いに化学物質過敏症を持ち出さないほうがいい

から、
asahi.com
「授業参観、香水控えて」 学校「過敏症の子に配慮を」

NATROM氏は医師だそうで、昔から疑似科学を根絶やしにすべく活動なさっている。私が「疑似科学」あるいは「似非(エセ)科学」に興味を持ち出し、ネット上の検索が楽になった頃から、そのお名前は知っている。

どちらの記事も、学校と保護者のやりとりを扱っている。パッと見、内容は似ているようだが、実は雲泥の差があるわな。

朝日新聞に出てくる「名古屋市瑞穂区の市立小学校」は素晴らしい。NATROM氏も書いているが、その小学校は以下のようなメッセージを親に送ったらしい。

子どもによっては、保護者の整髪料や香水などに反応して息が苦しくなるなどのアレルギー症状が出るようです。鼻やのどを刺激するような整髪料や香水を控えていただくと、大変助かります

もともと、この名古屋の小学校の話題には「化学物質過敏症」なんてフレーズは無く、朝日と広田氏とやらが結託し、アサヒッているんじゃないか。私はそう思ってしまった。


と、ここまで書いて、私は気づいてしまった。
田辺の中学校は、「君が代」周辺のゴタゴタか...?

やはり、2ちゃんでも、同じコト気づいた方々が居るみたい...
なお、ちゃんと「和歌山」というフレーズも入れないと、大阪の同名校(更に怪しい...?)が引っかかってきます。ご注意あれ。

「君が代」が気になって...

ma-kun.gif

ニュースの検索で引っかかったヤツを、ずっと保存していました。出す機会がなかった。
石原慎太郎は基本的に嫌いだけど、「東京都の君が代訴訟」についての見解には同意します。前にも書いたことだけど。

私の思いはカテゴリ 学校と「君が代」 に示してあります。

ページレイアウトを弄ったついでの更新でした。

君が代不起立、元教諭敗訴

とのことらしい。
妥当だろう。

根津一派は自らの来し方を省み、必要な費用を支払うように。
法の下に生きる「一市民」として。


過去の関連する日記群
学校と「君が代」
https://ariori.com/diary/cat15/

ここにあるのは、過去に書かれた日記のうちで学校と「君が代」カテゴリに属しているものです。

次のカテゴリは理科教員tipsです。

最近の日記はこちらで見られます。過去に書かれたものはアーカイブで見られます。