2024年6月アーカイブ

温故知新

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(1989年)6月4日は天安門事件だったけど、(1991年)6月3日は雲仙普賢岳の火砕流(事故)だったのですね。
以下の動画は、地学基礎の火山に関わる授業にて、毎年生徒に見せている。私が「火砕流」という語を知ったのは、普賢岳の噴火によってだ。

事故が起きたのは1991年、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の書き込みが2007年、この動画がまとめられたのは2014年。
なお、今は2024年。
16年経過した時点(2007年)でも「ムカつく、許せない」という方が居たわけだが、私はこの動画を見るまで、マスコミが如何にゴミだったかを知らずに生きていた。

一昨日、あまりにも「他人事」な普賢岳についての報道を改めて目にしたので、日記にしてる。
上に示した動画をまとめたmasatube800さんの引用(Youtube上の動画の説明)を引用しておく。
「2ちゃんのまとめサイトを動画にした」気配であるが、その「まとめサイト」は2024年現在見られない様子。

マスコミ関係者などが死んだ「定点」は、避難勧告がでていた。
危険地域であることを示すため、公的機関の観測員、消防団員も勧告地域から撤退していた。しかし、マスコミ関係者は、強制力がないことから、雇い挙げたタクシーとともに避難勧告地域内の「定点」に詰めていた。

そんな中、避難して無人の住民の家に無断で上がり込み、電気、電話を無断使用する事件が 起こった。
住民に不安が高まり、そのためもあって、いったん避難勧告区域外に撤退していた地元消防団は、ふたたび避難勧告地域内に入り、見回りを始めていた。
これらのマスコミ関係者、タクシー運転手、消防団員、許可を得て中に入っていた地元住民が火砕流に巻き込まれ死んだ。消防団員以外の地元犠牲者はたしか5名。それ以外が約35名。
避難勧告地域の境界で検問をやっていた警察官2名は、火砕流発生の連絡を聞き、中の人たちに知らせるために勧告地域内に入り、殉職した。

そしてこれが重要なんだが、火砕流の到達範囲は、まさに避難勧告地域内におさまっていた。
避難勧告をマスコミが守ってさえいれば、死者数ははるかに少なくて済んだに違いない。

当時消防団員だったからよく覚えているよ。
手柄狙いで勝手に居座ったマスコミのために、行かなくてもよい団員が行かされて焼け死んだんだよ。消防団員って素人だよ。プロの消防士じゃなくて、ほぼボランティアなのに、命令でそこに派遣されたんだよ。

で鬼畜なのはマスコミ

その後、何年もこの事件を取り上げるたびに、多くのマスコミ関係者などが犠牲となったって枕詞で始めやがる。で、死んだマスコミ関係者の話を美談として自分語りする。

あの現場には、新婚の団員や、子供が生まれたばかりの団員や、もうすぐ結婚するはずだった団員や、親の介護してた団員がいたんだぞ。
マスコミはそんなこと一つも報道しないけどな。

もう一度言うが、その団員達はそこに居たくて居たんじゃない。

道に迷いかけたのは、九州の「えびの高原」は韓国岳でした。
国土地理院の5万分の1地形図を持っていたから、きちんと帰ってこられた。

その事故が起きたのは、大学時代の徒歩旅行サークルでのことでした。オプション?で行った散歩中。
えびの駅(旧加久藤駅)から7日かけて佐多岬まで歩いた旅行でした。その1日目は、「えびの駅」から「えびの高原」までの移動でした。その旅行ルートを立案したのは、大学2年だった私でした。今でも、その際に用いた全国版『マップル』は保管してある。捨てられない。
年に3回ある徒歩旅行合宿は、旅行の立案者がプレゼンをして、多数決で決める形式でした。概ね1日で20km強~40km弱程度歩くので、「適切に宿泊施設があること」が必須条件でした。そういうスタイルのサークルだった。テント等は使わず、「道の果てるところ」すなわち(基本的には)岬がゴールでした。あのサークルの人間は、絶対に『岬めぐり』が歌えるのだった。

徒歩旅行の合宿は夏・秋・春の年3回ありました。その九州での合宿は秋合宿でした。
大学1年と2年だけが「秋休み(9月半ば~10月末)」に旅行に行けるのです。3年次以降は教育実習が「秋休み」に行われるため、旅行には行けません。1~2年次は年に3回の合宿があり、3~4年次は2回。フルに参加すれば10回の合宿に参加できます。「10回完歩」というのが、そのサークルにおける『名誉』でした。学年で一人居るか居ないか。ま、旅行費用が一番のネックでしょう。概ね学生の半数は下宿生(地方出身)であり、メチャ裕福という場合は少ない。
自分の学年(7名だった)では、誰も成し遂げられなかったはず。私は4年の夏合宿だけは不参加だった。卒論を作成する必要があったから。私が知る限りの先輩後輩で、理科所属の人間で10回完歩は居なかったはず。
なお、10回完歩、自分の1~3コ上の学年には達成者がいらっしゃったはず。みんな社会科だったかも。

説明が長くなった。
1990年の秋合宿初日は、前述の通り「加久藤駅」~「えびの高原」でした。20kmも無いので、5時間ちょい(昼休憩含む:昼食のお弁当は宿に予め依頼しておく)の移動でその日の行程は終了。
宿に着いてから、私ほか3名の男子で「近くの山に登ろう」ということにしたのです。後で同級生に怒られるのですが、出発の段階で16時を過ぎていました。なお、今ググってみても、えびの高原には民宿がありません。35年前には存在していたのですけれど。

で、以下の赤線のルートで韓国岳へ登りました。帰りも同じルートを戻るつもりだった。
karakunidake.jpg

最終到達地点でのショット。同学年の腐れ縁の友人と共に。風が強くて寒かった。
1990kirishima.JPG
高千穂峰や新燃岳が見えました。当時、新燃岳という名称は知らなかったけど。高千穂峰は『山』って形でした。神々しかった。韓国岳火口の断崖絶壁も凄かった。私の生涯で、あれほど断崖に近づいたことはありません。ほぼ垂直な崖が100mくらいあったはず(国土地理院の地図による)。そこを覗き込んだりしてました。

で、前述の通り「同じルート」を戻るべきでしたが、降りるルートをサクッと間違え、青で示したルートを進んでました。しばらくして道が違うことに気づいた。
徒歩旅行サークルでは、基本的に「全徒歩行程」について、5万分の1地形図を持つのが「しきたり」でした。神保町や新宿にわざわざ買いに行ったりして。ま、時に買わない人も居たみたいだけど。
地図を持っていて、良かったですね。割と早期に間違えた理由(往路と異なる箇所で山頂を離れた)と、帰るべきルートが把握できたから。

そのミスコース途中の傾斜が緩やかな部分、「何しろ、急いで歩けば宿だ」と思って小走りで移動していたところ、山側(右側)から「ガサガサ」って謎の音が聞こえました。明らかに我々4人とは違う生物が、笹藪の中に居たはず。
私は声を張り上げたか、歌でも歌ったはずです。あの生物は何だったのだろう。落ち着いてから尋ねたが、友人達は気づかなかったと言っていた。

ま、最終的には18時過ぎ、結構暗くなってから宿に戻れたのですが、携帯電話も無い時代、サークルのメンバーには、大変心配をかけてしまいました。「16時過ぎに山に登るなんて、あり得ない!!!!」と山好きの同級生に怒られましたっけ。
なお、宿のおじさんからは「高千穂峰が見えたんだ、良かったね」的なコメントを貰いました。韓国岳に登っても、常に高千穂峰が見えるわけでは無かったらしいです。


先日、2023年の「山行遭難者」についてのニュースを見たので、この話を思い出しました。
記したことがあったと思っていたが、特に記していなかった。


過去の関連する日記
(東)桜島魂不屈の心(2016年4月)
まわるまわるよ時代はまわる(2016年6月)

教育実習と私

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職場に教育実習生が来ている。
自分も、30年ちょい前に実習をしたっけ。教育実地研究という名称だったはず。

大学3年次の秋に(東京学芸)大学附属小へ3週間、大学4年次の春に大学附属中へ2週間、同じく秋(1992年である)に「光が丘第七小学校」へ実習に行った。
当然のことながら、いろいろ思い出などがあるのだが、そのうちの一つを記す。
光が丘でのことです。その小学校は、既に閉校になったようだ。


学部時代の「最後の教育実習」は3週間であり、大学附属ではないところへ行く。学部時代って書いたけど、私は別に大学院には行ってない、念のため。
「希望する地域」を大学へ伝え、それに基づいて大学4年生が都内(だと思う)各地に派遣されていたはず。大学の事務局その他が調整してくれていたのでしょう。

概ね最終週に実習生は「研究授業」をします。光が丘では「三角形の内角の和」が180度であることに気づかせる授業でした。今思えば、分かりやすいテーマではある。
どういう授業を行ったのか、実家に帰れば何か痕跡はあるかもしれないが、よく覚えていない。

で、研究授業が行われた日の夕刻、研究授業についての協議会(?)が行われた。
私がお世話になった学年は、3人の先生が3クラスを担当していた。研究授業には、別の学年の先生も何名かいらっしゃったはず。で、協議会。その3名の先生以外に、私のためにわざわざ協議会にも参加してくださった先生がお一方いらした(と記憶している)。

「3人の先生(40代♀・20代♂・20代♀だったはず)」にはとてもお世話になった。
「わざわざ私のために時間を割いてコメントを届けてくれた先生(40代?♂)」については、私はその日まであまり存在を認識していなかった。
その協議会にて、その先生はとても真摯に接してくださったと感じた。プロ(Professional)だと思ったのです。

その経験があったので、私は「他人(基本的に教育実習生だが、職場の後輩の場合もある)の授業を見学した際」には、なるべく詳細にツッコミや賞賛を送るようにしている。基本的には文書にまとめて。
一種の恩返しです。


過去の(自分の教育実習に)関連する日記
私の好きな歌手(2001年6月)
教職志望とノストラダムス(2005年6月)
そして恩師木村清志先生(2005年6月)
中教審と再生会議(2007年4月)
教育実習のおもひで(2010年6月)
続・教育実習のおもひで(2010年6月)
ビバ、SAKE!(2012年1月)
小学校の算数教育、dL(デシリットル)不要論(2019年10月)
中学理科「食物連鎖」の導入として、水俣病の紹介・調査をする。(2022年7月)

『東洋経済オンライン』に誤字

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のこの場所、
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文字が抜けてる。
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ダサい。

念のため記します。
このネタは少し寝かせてあったので、誤字を発見した日時の記事として公開してます。
今は7月1日です。

ここにあるのは2024年6月に書かれた日記です。

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