「小説」を読まなくなった。
が、今回久々に幾編か読んだ。
おおよそ二ヶ月前、子の「夏休みの宿題」の手伝いのため、近隣の図書館に付き添った。その際、幾つかの本を借りた。
SFの古典として「題名」だけ知っていた、ハーバート・ジョージ・ウェルズの『タイム・マシン』を借りた。私が借りたのは『創元SF文庫―ウェルズSF傑作集1』とかいうヤツ。以前、ウェルズについては『宇宙戦争』だけは読んだ。『宇宙戦争(原題 The War of the Worlds)』は、タコみたいな形態の「火星人(という架空の存在)」の元ネタとなったと言われる作品である。
この『傑作集』で私が一番気に入ったのは、その冒頭に収録されていた『塀についたドア』であろうか。まぁ、『タイム・マシン』も面白いけど。
何しろ私は「サイエンス」成分が少ない『塀についたドア』を面白く感じたのである。この書籍の編集者も、『塀についたドア』が良いと思い、冒頭に配置したのだろう。
船戸与一氏の小説を読んだ。この腐れ日記を見返す限りでは、前回に読んだのは文庫版の『午後の行商人』で、2003年2月のことだったのだろう。20年も前なのか。
今回読んだのは『虹の谷の五月』という作品。直木賞とやらを獲ったらしい。当時、船戸与一という人と「直木賞」という組み合わせについて、いまひとつ「ピンと来ない」と感じたことがあったような...
この物語は2003年に文庫化されていたようだ。そいつを借りた。
船戸氏は亡くなっている。既に7年前のことらしい。月日の流れるのは早い。
で『虹の谷の五月』。
例によって人が死にまくる。しかし、読後感は爽やか。
「エンディングの爽やかさ」が無かったとしたら、とてもとても救われない物語ではあるけれど。
船戸氏の小説は大体爽やかに終わる(という認識がある)ので、この物語を読んでいる最中も「せめて爽やかに終わってくれ...」って思いながら読んでた。
主人公の飼ってる軍鶏が死ぬ描写、読んでいて辛かった。ヒトが死ぬ場面よりも辛かったかも。
物語の中間地点を過ぎたあたりから、ラストシーンの「光景」だけは予想がついた。で、当たった。そこに主人公が居るだろうコトは予測がついたが、他に誰が生き残っているのかは、予想がつかなかった。
で、そのラストシーンについて。
かなり「引っかかる描写」があった。それは、「主人公(達)の視線の方向」だ。
科学的(物理学的・光学的)に釈然としない。
そっちの方向に「それ」が現れるとは、到底思えない。
で、その描写周辺などに現れる「猿喰鷲」も虚構かと思った。調べてみた。鷲は居るらしい。
視線の方向が「明らかにおかしい」のは、船戸氏の「何らかの想い」の表出なのだろうと解釈することにした。
「基本的に虚構ですよ」というメッセージなのだろうと。
過去の「『不思議な記述』を含む小説」についての日記
アフターダーク 三日月 朝 西(2007年5月)