隣の席の理科の先生(物理)は、基本的にMacが好きだとのこと。
で、Keynoteを使って授業を進めようかと思ったそうだ。が、数式を記す際の「TeX的な記述」が面倒くさいので、結局PowerPointを使った、とのこと。
大学や大学院での論文では、彼はTeXを使ったのだそうだ。
でも、近年は使っていないので、PowerPointを使うことにしたのだそうで。
TeX、存在は知っている。使ったことは全然無い。
Wikipedia(日本語版)を見て、その歴史や読み方(テフというのも、ある意味中途半端らしい)についての無駄知識を得た。
私自身は、卒論は一太郎4.3で作ったなぁ。大学生協で売っていた横書きの原稿用紙に、20文字×20行で印刷したっけ。
今でも、そのファイルを「jtd形式」で保存したものを持っている。というか、それを改めて開いてみた。「20文字×20行」という記憶を確認するために。
私自身は、作文という作業はあまり好きでは無かった。基本的には小学校以来ずっと。
しかし、「どうでも良い文章」を書くのに目覚めたのは、中学時代だったはず。「班ノート」には「如何にして、朝にキチンと起きるか」というコトを書いたのだった。
今でも覚えている。結論めいたこととして、「朝方に尿意を催すような量の水を飲んでおけば、起きられるのでは無いか。ただし、寝小便には注意」って。
「結構私も無駄に真面目に『マス目』を埋められるだけの技術を身に付けたのだなぁ...」って自覚したのは、情報科の免許を取らされたトキのことである。
あれ以降、文章の作成を苦に思うことは無くなった気がする。
そのあたりを思い出していたら、高校時代の国語の授業を(改めて)思い出した。
私が高3で現代文を教わったのは、大田雅一(おおたまさかず)先生である。東大卒業で、教員になりたてだったと聞いた気がする。(Facebookを見てみたが、職歴などの詳細は不明。)
毎週毎週、大田先生は作文を書かせてきた。
今思えば、よくそれだけの作文に目を通せるものだと感心するわけですが。まぁ、当時の自分は「作文を毎週書くのは大変だなぁ...」と思うだけだった。
基本的に「優秀な作品」1,2点が翌週あたりに印刷され、クラス内で共有されていたように記憶している。
一度だけ、私の作文が印刷されたことがあった。人口問題か何かについて、自然科学的・社会科学的に考察させるような課題だった記憶がある。その課題については、特に苦労することも無く、文章を完成させた記憶がある。
で、恐らくは「よく書けていた」のだろう。でも、大田先生が「たまには、masakiにも花を持たせてやろう。もっとよく書けている生徒も居るけれど」って考えられたのかも知れない。
大田先生が還暦前後、若くして亡くなられたのを知ったのは、何故だったか、忘れた。
飄々とした、不思議な先生だった。
自分の職場にて、生徒が使ってた「国語表現」の教材、大田先生の名前を見たことがあった。「着実に偉くなってるんだなぁ...」「同じこと続けてるんだろうなぁ」と思ったのは、既に20年くらい前だろうか。
この文章を記してて気づいたのだが、大田先生の授業では、共通一次の演習もしていたのかも知れない。
数ヶ月のうちに、徐々に「共通一次の現代文」に慣れていき、「まあまあ点は取れそうだ」という意識を持ったことは記憶している。
私が理科以外の教科について、自主的に共通一次の過去問に取り組んだ可能性は低い。大田先生の現代文の授業で演習を重ねた気がしてきた。忘れてたけど。
念のため書いとくと、1989(平成元)年の「最後の共通一次」の国語は、現代文100点・古文50点・漢文50点という配点だった。みんな必ず200点満点。「現代文のみ」という逃げは打てない。
(最後の)共通一次の国語、現古漢で9割越えの得点だった。
大田先生は、学力・能力的に、私の「礎」を築いてくださったように思えてきた、改めて。
ありがとうございましたm(_ _)m