生きることに意味は無い、だからこそオリンピックは行うべきではない。

この数ヶ月くらい、いや、1年以上、オリンピックについて考えている。
過去には「それなり」に「オリンピック(中継)」を見ることはあった。全般的には面白かった。

私は「スポーツ観戦」という趣味を持たない。
プロ野球(試合前のシートノックを含む)とか、ソフトボールの国際試合などについては、肉眼で幾度か見たことはある。それはとても面白かった。

私はスポーツ観戦は「(安易な)現実逃避」であると見なしている。
常にアルコールを摂取して、「何か」から逃避している私が言うのも何ですけど。


そんな私は「汎神論者」である。
神は1つではなく、特定少数の神が居るわけでもないと考えている。
目に映るもの、すべてが「意思(=神)」の結果だと考えている。
つまり、この世界に神など居ない、とも言える。

そしてまた、ヒトが生きる意味、そんなものは無いとも思っている。
生きる意味が見つからないからこそ、宗教が蔓延るのである。
宗教にすがる、依存するのも、ヒトとしての「妥当な選択肢」なのだろうとは思う。ヒトは誰しも「楽に生きたい」と願っているはずだから。


で、オリンピック。
そこへの出場を目標にしてきたヒトにとっては、「開くべきもの」なのだろう。

しかし、そのような「エゴ」によって、「市井の人々(=東京都民あるいは日本国民)」の健康が脅かされることなど、あってはならないと思うのである。

オリンピックに出るようなヒトは、素質と努力によって「その地位」を得たのだろう。それは素晴らしい。
とは言え、「ボーッとオリンピックを眺めるようなヒト」も、『同じ一人のヒト』である。

ヒトの「エゴ」で、他のヒトが「危険に晒される」なんてコト、許されないと考える。ましてや「オリンピックで儲けたいヒト」、アンタらは不要だ。

私に言わせれば、オリンピック開催も、私が生きていることも、無意味だ。

でも私は、「私が生きること」に価値を見出そうとしている。見出せるように生きている。
で、私が生きていても、それほど「他人の命」を奪ってしまうことは無いだろう。それに対して、オリンピックを「現時点で開くこと」は、(貴重な)ヒトの命を、必要以上に奪う可能性がかなり高いと思われる。
だから、東京オリンピックは開くべきではないと考える。

まぁ、広い意味で言えば、先進国のヒトが生きること(たとえば交通機関での移動・異国の食物を食べること・ネット上に駄文を晒すこと)は、途上国のヒトの搾取ではあるが。

ここにあるのは2021年6月16日 23:37の日記です。

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