私はその前の晩、酒を飲み過ぎてしまったようだ。下痢気味だった。新宿や池袋などのターミナル駅は、トイレの個室が混んでいることが多い。そこで、私はとりあえずの目的地を「新大久保」に設定した。
新大久保の男子トイレは、予想通り、それほど混んでいなかった。個室待ちの人間は、私しか居なかった。そもそも、個室の数もさして多くはないが。
排泄が切迫している場合、どうにかして「気を紛らわす」必要がある。経験上、なるべくうんこのことは考えないようにした方が、その後の展開が楽になるように思える。しかし、その日は殊更に「考え事」をする必要もなかった。個室内から咳をする音が聞こえてきていた。
その咳は、あまり聞き慣れないような咳だった。風邪による痰が絡むから、というわけでもなさそうな音だった。
じきに、個室が開いた。ダークスーツを着た細身のお兄さんが、伏し目がちに個室から出てきた。まあ「待ち人」を睨み付けながら個室を出るような人物には出会うこともないし、私も排泄後に「ガンをつける」必要を感じたこともないのだが。
「やれやれ、何とかうんこを漏らさずに済んだようだ」と、私は排泄に取りかかる。が、その個室内が「おかしな状況」になっていることに、すぐに気づいた。個室内のそこかしこに、「血をティッシュペーパーで拭ったような跡」が残っていたのだ。
どうも、私の直前に居た「お兄さん」は、喀血をしていたようだ。しかし、このトイレを使わないという選択はない。私のスーツが下痢便で汚れてしまう。
私は普段以上に、トイレ内の個室の壁などに触れないように気をつけながら、コトを済ませたのであった。手もなるべくきちんと洗った。
結局、その後、私は結核を罹患するようなことはなかった。が、数ヶ月くらいは不穏な日々を過ごす羽目になったのも確かだった。
この話は数年前の出来事である。
今でも、新大久保を通過するときなど、時々あの「細身のお兄さん」を思い出してしまうのだった。彼は今、きちんと日々を過ごせているのだろうか。