作者は鈴木大裕(だいゆう)という方である。
特に興味深かった記述を何箇所か引用する。
26ページからこの写真が映すのは、「ロケットシップ・エデュケーション」という現在急成長中のチャータースクールだ。生徒たちはグループ学習の他に、毎日二時間コンピュータに向かい、プログラムされた「個別指導」を受ける。
学校側は正規教員を減らし、時給15ドル(約1500円)の無免許のインストラクターが、一度に最大130人の生徒をモニターすることによって、一年間で約50万ドルを節約できるという。教員の半分は教員経験二年未満、75%は、たったの五週間のトレーニングで非正規教員免許を得られるプログラム「ティーチ・フォー・アメリカ」出身だ。
拠点はカリフォルニア州シリコンバレーで、理事やアドバイザーには新自由主義教育改革の強力な支持者であるゲイツ、ウォルトン、ブロードの各財団が並び、フェイスブックやスカイプなど数多くのIT企業が後援にまわっている。ウィスコンシン州とテネシー州にも分校を持ち、今後は全国展開し、2017年までに合計25000人の生徒を確保する計画だ。
この学校は、さまざまな意味で今日の新自由主義教育を象徴している。「効率性」を追求する中、プロの教員が削減される代わりにテクノロジーが導入され、低賃金で働く即席教員やマネジャーが一度に大人数の生徒をモニターする。そしてこのようなチャータースクールがフランチャイズとして全国的に拡大する中で、従来の公立学校が必要とする予算を奪い、廃校に追いやってゆくのだ。
ちなみに、この学校を熱心に支援するシリコンバレーの社長たちは、自分たちの子息に限っては、生徒をコンピュータには触れさせない方針のシュタイナー学園に送っているそうだ。41ページから
アメリカの悪しき流れが日本に来るかどうかは、日本がいかに腰を据えてPISAに対応するかにかかっている。PISAの結果一つに踊らされている限りは、新自由主義の偏った社会的・教育的価値観からは脱却できないだろう。真に教育を変えるのは、政策による小手先だけの改革ではなく、社会全体を取り巻く新しい社会的・教育的価値の創造なのではないだろうか。76ページから
世界中でおおよそ好意的に受け入れられてきたPISAをこのような視点(masaki注:数値化と標準化に伴う教育の商品化)から検証する時、そこに表れるのはそれまでとはまったく異なる、グローバリゼーションを担う新自由主義のテクノロジーとしての姿である。教育が数値化され、世界規模で標準化されることによって出来上がるのは、テストの点数を「通貨」としたグローバルスケールの教育市場だ。そこでの権益を、第2章で紹介した世界最大の教育出版社、ピアソンが何としてでも欲しがったのはよく理解できる。2015年度のPISAの運営を委託されたことによって、ピアソンは世界最大の学習到達度調査のオフィシャルブランドとなった。PISA関連の教材出版、模擬テスト、データシステム提供、コンサルティングからピアソンが得るであろう利益は果てしなく大きい。ちなみに、OECDの教育局次長でありPISAディレクターのシュライヒャーがピアソン社の顧問の地位にあることも指摘しておくべきだろう。77ページから
現在、世界で流行している「ベストプラクティス」や「最高の授業」などの概念もまた同じ流れ(masaki注:数値化と標準化に伴う教育の商品化)にある。教育が標準化される中、テストの点数を最も効率良く上げる実践が取り上げられ、ビデオ等にデジタル化され、拡散されるのだ。しかし、この流れは、授業を受ける子どもの特徴や地域性を無視するという、実際に教員として何年か教えたことのある人間であればまず考えられない根本的な問題を抱えている。ただ、更に深刻な問題は、そのように安易な取り組みでも実際に「成果」を上げられるまでに、教育というものが貧弱化していることだろう。109ページから
本書で何度か紹介した、私が中学校教員時代に出会った恩師、小関康先生は言う。
「プロの仕事は、素人にはわからないからプロなんだ」。
たとえ職種が異なったとしても、この言葉に頷く「プロ」は多いのではないだろうか。それは、プロの仕事をアカウンタビリティで管理しようとすることの矛盾を私たちに突きつけているように思う。専門家の仕事を数値化することで誰でも彼らの仕事を「客観的に」評価できるようにする、こんな愚かなことがあるだろうか。素人にもわかるように説明する過程で、言葉にできないものや測定不能な成果は無視され、扱う素材の多様性は削ぎ落とされ、その仕事の複雑さは簡略化されるため、専門職の非専門職化という真逆の現象が起きてしまう。そして、まさにこれがアメリカの敎育界で起こってきたことであり、それは教員が教育者としての魂と尊厳を手放す行為だったと言っても過言ではないかもしれない。
って、引用しかしていませんが、とても興味深い内容でした。
「常に仕事そのもののあり方や意味を考え続ける」「改革を目指すのではなく、改善を続ける」って彼のスタンスは、私の思いと同じであると感じました。
ただ、153ページあたりに書いてあるのですが、筆者は「部活動を教育課程の中に位置づけるべき」であり、「希望する教員は部活動を続けられるように柔軟性を持たせるべき」と考えるのだそうです。
その点については、私と彼は意見が異なります。私は学校に部活動は不要だと思います。
何しろ、この本の内容は衝撃的でした。
著者自身は高校生時代にアメリカの全寮制の私学に留学したそうです。お金持ちですね。また、日本で教員として数年間勤務したあと、家族を連れてのアメリカ再留学に行ったそうです。その際、居住地のニューヨークはハーレム近くにて、「(子供の)学校を選ばないことを選択する」ことにしたそうです。仕事のためとは言え、ちょっと子供を振り回しすぎな気が...。真似できないし、しようとも思わないけど。
読み応えはある本ですけど、結構さらさらと読めました。
一応、アマリンクを貼っておきます。
過去の関連する日記
「高大接続テスト」とやらについて、一席(2010年2月)
書評『誰が教育を殺したか?』(2015年7月)