2017年5月アーカイブ

コレクション否定主義

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私は「コレクション」を持たない、ようにしている。

世の中では「コレクションを捨てる事件」は後を絶たないようだ。コレクションを持つ気持ちも分かるし、捨てる(売る)気持ちも分かる。
私が考える「自分がコレクションをしなくなった」理由ははっきりしている。それは「ビッグワンガム(ググリンク)のプラモ群」や「チョロQコレクション」を捨てた経験からだ。「家の建て替えに伴う引っ越し」などに際して、自らゴッソリ廃棄したのだ。少し後ろ髪を引かれながら。
頭髪は刈り上げだけど、昔も今も。

100円もしくは150円のプラモ、あるいは350円のチョロQではあるが、結構大事にしていた。そもそも月々の小遣いが数百円しかない時からの持ち物である。しかし、そのオモチャをずっと持っていても、何も生み出さないし、埃が積もるスペースが増えるだけであることに気づき、若かりし頃(記憶ではローティーン)の私は、それら石油の成れの果てを処分したのである。

ある意味、書籍(文庫本が結構大量、漫画本も少々)はコレクションしたまま実家に置いてあるようなものだが、売ってもらって良いと伝えてある。CDについては100枚ちょいだけ、厳選して残してある。今は住処のダンボールの中だけど。
さすがにアルバムの類は捨てたりはしていないが、ネガはやはり「とある時」に一気に捨てた。この歌(リンク先はYouTube)の影響はあるだろう。

という話を書こうと、少し前から思い続けていたのである。「ダークサイドに落ちた彼」云々のニュースを見たときから。
が、昨日シャワーを浴びていて、私は「捨てるに捨てられないもの」を持っていたことを思い出した。それは「自分の授業に使った『板書用ノート』」である。

こいつはpdf化した方が良いだろうと気づいたのだ。B5の大学ノートが30冊以上、捨てられずに貯まっている。いつか、長期休業の日直か何かの時に、やっつけるつもりでおこう。
ToDo一つ追加なり。

私が普段チェックしている「個人」のページには、「バイオレット光」の記事を見てない気がするので、書いておきます。もう、5ヶ月前のコトなんですねぇ。

慶應義塾大学の研究だそうです。結構、私は衝撃を受けました。
現代社会に欠如しているバイオレット光が近視進行を抑制することを発見―近視進行抑制に紫の光―
https://www.keio.ac.jp/ja/press-releases/files/2016/12/26/161226_2.pdf

私は「水商売」を胡散臭く思っています。「古典的な水商売」ではなくて、ナノクラスター水とか、バナジウム水とか、水素水とかとかとか...。
で、「光商売」も胡散臭く思っています。

ブルーライトを研究している団体の元締めは、「ブルーライト研究会」なのでしょう。そのアドレスは面白い。
http://blue-light.biz/ ですからね。商売っ気を隠さなさすぎ。
このアドレス(url)に気づいた当初、私もFacebook(やTwitter)をやってました。
ブルーライト(業界)を揶揄する意味で、「『名は体を表す』のですね」って、この「事実」を投稿した記憶があります。誰かは「いいね!」をしてくれた記憶があります。

念のため記すと、アドレスの末尾が".biz"ってコトは、「ビジネス志向」なワケですよ。つまりは「金儲けが目的」。せめて、".org"とか、".or.jp"を取得できなかったんですかねぇ??
ま、そんなコトを気にするのは、「昔ながらのパソコンユーザー」かも知れませんけどね。

で、本題に入ります。

電磁波は、可視光線に近いところを記すと、以下の通りになります。

短波長→長波長
紫外線→紫の光(バイオレット光)→青い光(ブルーライト)→緑の光→黄色い光→橙の光→赤い光→赤外線

蛇足とは思いますが、紫外線より波長が短い方には"X線"などがあり、かなり危険です。
赤外線より長いものは"電波"と呼ばれます。ま、短波長よりは危険性が低いでしょうが、被曝しないほうが良いことは良いでしょう。

紫外線やブルーライトは避けるべきだけど、その中間のバイオレット光は受け入れるべき???
混乱しませんか?

ま、私に言わせれば「ブルーライト」なんて、気にすることは無いのです。ただ、「寝る前」には「明るいもの」を見ない方が良いでしょう。また、ケータイやパソコンのディスプレイは、使用している時刻に関わらず、必要に応じて輝度を下げる方が、目にも電気代にも優しいことでしょう。液晶モニタのバックライトには「青い光」が多いのは確からしいです。ただ、そんなに気にすることは無いのだろうと思いますね。


少し話は変わるのですが、この間メガネ屋さんに行って驚いたことがあります。「メガネ内側の『UV反射防止加工』はいかがですか?」って訊ねられたから。

メガネにおける「UV(紫外線:UltraViolet)カット」は、市民権を得ています。私もときどき、その加工を施したメガネを購入することがあります。また、(使い捨て)コンタクトレンズは、基本的に「UVカット」です。ただ今後、慶応大の研究が「確からしい」と判明したならば、UVカットは廃れていくのかも知れませんね。昨年末以降、興味を持って眺めています。

で、その『加工』について。
「メガネの内側に反射する紫外線が、目に入って悪さをする」なんてコト、普通の生活をしていたら、考慮に入れなくて良いと思うのですね。でも「紫外線は何となく怖いなぁ」って思ってしまうヒトは、その「オプション」を受け入れるのかも知れません。その「加工料」は両目で1万円だった気がします。もしかすると、2万円だったかも。

そのメガネ屋さん、基本的には丁寧なので好きなのですが、そのような「非科学的な営業」をしてくることに対して、すこし幻滅しました。メガネ屋さん業界も、いろいろ大変なのだろうけど、そんな「意味の無さそうな商品」を勧めてくるなんて...、って。


つーコトで結論です。少なくともブルーライトの「恐怖」は「無視」すべきだと思います。
って、気にしているのは私くらいなのかなぁ...、今となっては。

作者は鈴木大裕(だいゆう)という方である。
特に興味深かった記述を何箇所か引用する。

26ページから

この写真が映すのは、「ロケットシップ・エデュケーション」という現在急成長中のチャータースクールだ。生徒たちはグループ学習の他に、毎日二時間コンピュータに向かい、プログラムされた「個別指導」を受ける。
学校側は正規教員を減らし、時給15ドル(約1500円)の無免許のインストラクターが、一度に最大130人の生徒をモニターすることによって、一年間で約50万ドルを節約できるという。教員の半分は教員経験二年未満、75%は、たったの五週間のトレーニングで非正規教員免許を得られるプログラム「ティーチ・フォー・アメリカ」出身だ。
拠点はカリフォルニア州シリコンバレーで、理事やアドバイザーには新自由主義教育改革の強力な支持者であるゲイツ、ウォルトン、ブロードの各財団が並び、フェイスブックやスカイプなど数多くのIT企業が後援にまわっている。ウィスコンシン州とテネシー州にも分校を持ち、今後は全国展開し、2017年までに合計25000人の生徒を確保する計画だ。
この学校は、さまざまな意味で今日の新自由主義教育を象徴している。「効率性」を追求する中、プロの教員が削減される代わりにテクノロジーが導入され、低賃金で働く即席教員やマネジャーが一度に大人数の生徒をモニターする。そしてこのようなチャータースクールがフランチャイズとして全国的に拡大する中で、従来の公立学校が必要とする予算を奪い、廃校に追いやってゆくのだ。
ちなみに、この学校を熱心に支援するシリコンバレーの社長たちは、自分たちの子息に限っては、生徒をコンピュータには触れさせない方針のシュタイナー学園に送っているそうだ。

41ページから
アメリカの悪しき流れが日本に来るかどうかは、日本がいかに腰を据えてPISAに対応するかにかかっている。PISAの結果一つに踊らされている限りは、新自由主義の偏った社会的・教育的価値観からは脱却できないだろう。真に教育を変えるのは、政策による小手先だけの改革ではなく、社会全体を取り巻く新しい社会的・教育的価値の創造なのではないだろうか。

76ページから
世界中でおおよそ好意的に受け入れられてきたPISAをこのような視点(masaki注:数値化と標準化に伴う教育の商品化)から検証する時、そこに表れるのはそれまでとはまったく異なる、グローバリゼーションを担う新自由主義のテクノロジーとしての姿である。教育が数値化され、世界規模で標準化されることによって出来上がるのは、テストの点数を「通貨」としたグローバルスケールの教育市場だ。そこでの権益を、第2章で紹介した世界最大の教育出版社、ピアソンが何としてでも欲しがったのはよく理解できる。2015年度のPISAの運営を委託されたことによって、ピアソンは世界最大の学習到達度調査のオフィシャルブランドとなった。PISA関連の教材出版、模擬テスト、データシステム提供、コンサルティングからピアソンが得るであろう利益は果てしなく大きい。ちなみに、OECDの教育局次長でありPISAディレクターのシュライヒャーがピアソン社の顧問の地位にあることも指摘しておくべきだろう。

77ページから
現在、世界で流行している「ベストプラクティス」や「最高の授業」などの概念もまた同じ流れ(masaki注:数値化と標準化に伴う教育の商品化)にある。教育が標準化される中、テストの点数を最も効率良く上げる実践が取り上げられ、ビデオ等にデジタル化され、拡散されるのだ。しかし、この流れは、授業を受ける子どもの特徴や地域性を無視するという、実際に教員として何年か教えたことのある人間であればまず考えられない根本的な問題を抱えている。ただ、更に深刻な問題は、そのように安易な取り組みでも実際に「成果」を上げられるまでに、教育というものが貧弱化していることだろう。

109ページから
本書で何度か紹介した、私が中学校教員時代に出会った恩師、小関康先生は言う。
「プロの仕事は、素人にはわからないからプロなんだ」。
たとえ職種が異なったとしても、この言葉に頷く「プロ」は多いのではないだろうか。それは、プロの仕事をアカウンタビリティで管理しようとすることの矛盾を私たちに突きつけているように思う。専門家の仕事を数値化することで誰でも彼らの仕事を「客観的に」評価できるようにする、こんな愚かなことがあるだろうか。素人にもわかるように説明する過程で、言葉にできないものや測定不能な成果は無視され、扱う素材の多様性は削ぎ落とされ、その仕事の複雑さは簡略化されるため、専門職の非専門職化という真逆の現象が起きてしまう。そして、まさにこれがアメリカの敎育界で起こってきたことであり、それは教員が教育者としての魂と尊厳を手放す行為だったと言っても過言ではないかもしれない。

って、引用しかしていませんが、とても興味深い内容でした。

「常に仕事そのもののあり方や意味を考え続ける」「改革を目指すのではなく、改善を続ける」って彼のスタンスは、私の思いと同じであると感じました。
ただ、153ページあたりに書いてあるのですが、筆者は「部活動を教育課程の中に位置づけるべき」であり、「希望する教員は部活動を続けられるように柔軟性を持たせるべき」と考えるのだそうです。
その点については、私と彼は意見が異なります。私は学校に部活動は不要だと思います。

何しろ、この本の内容は衝撃的でした。
著者自身は高校生時代にアメリカの全寮制の私学に留学したそうです。お金持ちですね。また、日本で教員として数年間勤務したあと、家族を連れてのアメリカ再留学に行ったそうです。その際、居住地のニューヨークはハーレム近くにて、「(子供の)学校を選ばないことを選択する」ことにしたそうです。仕事のためとは言え、ちょっと子供を振り回しすぎな気が...。真似できないし、しようとも思わないけど。

読み応えはある本ですけど、結構さらさらと読めました。
一応、アマリンクを貼っておきます。


過去の関連する日記
「高大接続テスト」とやらについて、一席(2010年2月)
書評『誰が教育を殺したか?』(2015年7月)

迷走文科省

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まずは引用する。

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/10/04/1325048_3.pdf
から

【アクティブ・ラーニング】(p3、4、9)
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

学修すか。
文科省の役人は、学修よりも学習を心がけた方が良いと思うんですよね。まずは「習う、倣う」ことをした方がいいと思うのです。

山積している「問題」、とりあえずは「部活による教員の過労」とか、「縁故採用の残存」とか。それらの解決をしているとは思えない輩が宣う『問題解決』なんて、片腹痛きことこの上ない。
資質を自問自答してほしいですね。

で、本題。
文科省は「遠隔授業」を推進したいんですか?
否定しないのは、ITベンダーからの献金や要請の結果すか?


ま、普通に考えれば「アクティブラーニング」と「遠隔授業」は、相反する「やり方」だ。
正反対に見える文書の存在は、「私たちはポリシーがありませんよ」っていう自己表現にしか見えない。

ま、「みんなで一つの方向を向く」ってのは、気持ち悪い。
でも、「国や自治体運営の『あれ』」に比較すれば、「教育のありかたの『これ』」の方が、「策定」は簡単だと思うのです。

「能動的な学修(笑)」を求めながら「受動しかなさそうな遠隔授業」を否定するわけではない。
そりゃ誰も聞く耳持たないでしょうな。

税金返せ。文部官僚とその下っ端、お前らは要らない。そんな「下らない文章群」作って、「自己満足」に浸るなよ。
存在意義なし。


過去の関連する日記
教員免許更新制について(2007年9月)
「殺すな、盗むな、うそを言うな」とさ。(2007年12月)
改めて文科省を貶す(2009年11月)
「学習指導要領案」は総花的で先送りだらけ。問題解決しようとしてないだろ、お前ら。(2016年8月)

ここにあるのは2017年5月に書かれた日記です。

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