「文学史」を覚えることの不毛さ

あんまりバンバン読めるわけでは無い、というか、そんな暇も無いのだが、俗に言う「文学史」に出てくるような作品を読む時がある。今は『阿Q正伝』を読んでいる。ま、つまらなくは無いのだが、同じ本に入っている(私が読んでるのは「光文社古典新訳文庫」ってヤツ)他の短編の方が面白いなぁ、と思う。

多分、時代背景的に、この『阿Q』は重要だったのだろう。

私はあまり「歴史」が好きではない。とは言え、「歴史の大雑把な流れ」については、それなりに把握しているつもりではある。大学受験に出るような「細かいところ」は、そんなに覚えていない。日本の歴史はある程度承知しているつもりである。例外的に中国の近現代史については、多少本を読んだりしてきた。
「あの時代」だったからこそ、『阿Q』は意味があるものだったのだろう。似たような「啓蒙的な物語」としては、日本での『蟹工船』や『防雪林』など、小林多喜二の作品が思い浮かぶ。まぁ、全体の明るさが全然違うけど。小林多喜二は暗い。

上海には魯迅公園という場所がある。魯迅の作品を読んだことが無い私は、何となく負い目があり、訪問を試みたことがなかった。先日、ボーッと職場の図書館を眺めていたら、上記文庫を発見した。そして手に取る。
いつか、魯迅公園も行ってみようと思う。
(2018/01/14追記 行きました)

で、本題である。
というか、表題で言い切ってしまってはいるのだけど。

私は、(社会科の一部である)歴史が嫌いだ。厳密に言うと「高校時代の歴史の授業は楽しくなかった」ということだ。担当してくださった教員の名前を出すのは控えておこう。あの「十数点しか取れなかったテスト」に単位をくださったわけでもあるし。高校時代に地理を教えてくれた海東先生は好きだった。授業も真面目に受けた。最後の共通一次、1989年の地理では92点を取った。海東先生が褒めてくれたことを覚えてる。私としては100点を目指していたのであるが。
歴史嫌いな私としては、国語における「文学史」なんて、やはりあまり興味が無いのである。とは言え、共通一次の国語で180点越えを成し遂げた私ではあるので、「仕方なく」ある程度の知識は蓄えたわけではあるけれど。

「文学史」というのは、国語という教科において、不要な分野では無かろうか。
蟹工船を読み、阿Q正伝を読めば、「確かに歴史的に重要でしょうな」とは思う。それらが「代表作」とされるのも、まぁ頷ける。でもそれが「テスト」に出された途端、劇的につまらなくなる。そもそも、受験生はそんなに大量の「文学作品」を読める時間を持っていない。ただ「書物名」を覚えるだけだ、多分ね。
それらの「文学史」についての知識をいくら蓄えたとしても、それをテストで再生しても、勉強としての「深み」や「得るところ」が無い、と思う。

ここにあるのは2016年11月15日 19:36の日記です。

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