読売新聞『気流』に掲載された「病気で見づらいバスのボタン」につっこみを入れる。

今朝の読売新聞には、62歳の無職男性による以下の投書が載っていた。居住地や氏名もあったが、それは割愛する。

病気で見づらいバスのボタン

網膜色素変性症という目の病気のため、私は照明の暗いところでボタンのような小さな物を捜し当てるのが苦手です。
先日も日中に出かけて帰りが遅くなってしまい、夜、バスに乗ったのですが、降りることを知らせるボタンの場所がよくわかりません。始発から4番目の停留所だったので、ほかに降りそうな人はいませんでした。きょろきょろしながらボタンを捜していると、近くにいた人が見るに見かねて「次、降りるのですか」と聞いてくれました。「はい」と答えると、ボタンを押してくれ、事なきを得ました。
ボタンが光っていれば、その位置は確認できます。できれば、ボタンの位置を示すランプなどを取り付けるとか、普段は緑のランプがついていて、ボタンを押すと赤に変わるなどの工夫をしていただけると助かります。一考を願いたいと思っています。

確かに一考の価値はあろう。
しかし、彼の案の一つである「普段は緑のランプがついていて、ボタンを押すと赤に変わる」はいただけない。

私に言わせれば「非常に自己中心的」だ。何故「色覚異常のヒトへの配慮」が無いのだろうか。
「色の区別『のみ』で何かを区別させる」というのは、バリアフリー的には最悪なデザインである。

自分の目が悪くなりつつあるのならば、「自分より目が悪い人」や「見え方が自分とは違う人」にも思いを馳せるべきだ。

ここにあるのは2010年11月 4日 22:33の日記です。

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