先日、やっと『利己的な遺伝子』の一番新しい版である「増補新装版」を読み終えた。この「増補新装版」は、初版刊行30周年記念として、作成されたものだそうだ。日本では2006年に発行されていた。
職場の図書館に買ってもらい、一番に読ませてもらった。
一言で感想を言い表すと「概念"利己的な遺伝子"というミームは、自然科学を勉強してきた私に、しっかりと根付いていた」というところだろうか。
書物その他によって生物学を習得する過程で、30年前にドーキンスが発表したような「生物体と遺伝子に関する見方」は、私の中に何の違和感もなく存在していた。この本を読むことによって、その「見方」がさらに整頓された。
当初、この書籍が目指したことの一つに、「"群淘汰"という概念の廃絶」があったようだ。私は高校時代、その語を教科書か資料集で見た記憶がある。腑に落ちなかったので、記憶に残っていた。
この本を読む少し前、この講演録(pdf)を拝見し、やはり「群淘汰」という概念は間違っているのだろうと認識した。
xvi ページから始まる「1989年版へのまえがき」の一部にあるドーキンスの言葉が、この書籍の「評価」を端的に表しているように思える。なお「下線部」には、傍点が付してあった。
この本は、(中略) 最初から書評は心地よいほどに好意的で、これが論争的な本だとは、最初は見られなかった。何年かのうちにこれは大いに問題をはらんだ本だという評判が高くなっていって、今では過激な極端論の著作だと広くみなされている。けれど、この本が極端論だという評判が広まっていったその同じ年月の間に、この本の実際の内容は、次第、次第に極端なものとは思われなくなり、次第、次第に当然なものとして通用するようになってしまった。
その「いざこざ」のために、私が前回読んだ『神は妄想である』が書かれたのだろうと思った。
『延長された表現型』が、著者ドーキンスのお奨めであるらしいが、ホントにまた暇になったら読もうと思うのであった。
遺伝子というと、つい最近、こんな話がありました。
女王シロアリの後継は"分身"、交配せずに産卵...岡山大確認
念のため(すでに誰かが取得なさっていた)魚拓