追悼

ちょうど2週間前、十数年ぶりに高校時代の部活の同窓会があった。
過去に何度(その1その2)か書いたこともあるのだが、ちょうど10年前に死んでしまった人間が居て、そいつを弔うために集合したようなものである。

ヒトを悼むという作業は、未だに良く分からない。慣れない。
訃報を聞いた後で、私ができることと言えば、残された親族に対して、何らかの声をかけたり、神妙な顔を見せたりするぐらいだろうか。あるいは、葬式を手伝って、親族の負担を軽くするとか...?

その彼が死んだとき、私は通夜の手伝いをした。私は勤め人になっていたので、告別式の手伝いはできなかった。墓参りにも行っていなかった。

今からおよそ1年半前、同窓生で墓参りをしようという企画を立てた。しかし、墓の場所自体が分からなくなっていた。墓参りに行った人間も居たのだが、彼らの記憶はぼやけてしまっていた。彼を失った衝撃が大きかったのかも知れない。昨年の秋にかけて調査を進めるうち、彼の家族は2度ほど引っ越しをしたところまでは判明した。しかし何しろ、彼の家族とは連絡が取れなかった。

昨年末から、複数の同窓生と連絡を取るうちに、墓の場所を憶えている人間が出てきた。彼の死後、引っ越す前の実家に線香をあげに行ったらしい。その際に、墓の場所を聞いたとのこと。

この1月末、私は初めて彼の墓参りをした。


職場では、私の嫌いな「総合的な学習の時間」というヤツを行う必要があり、ホームルーム担任として授業(と呼んで良いのか?)を行うコトがある。最近その活動を行った日は、死んだ旧友の命日だったようだ。今日気付いた。ちょっとした因縁を感じる。
教材に用いられた詩"Tomorrow Never Comes"、私はその時に初めて眼にした。作者は Norma Marek という方だそうだ。

http://www.heartwhispers.net/poetry/00040.html
元サイト(らしい)

http://homepage3.nifty.com/mmsagawa/hug/words_if.html
日本語訳が置いてある


この詩と同じような想いは、同僚が亡くなった際に、強く感じたことがある。
その元同僚は、私が今在籍している職場を定年退職し、その後非常勤として週に1回だけ、授業を行っていた。彼が定年になる前も、非常勤となった後も、私はあまり会話を交わしたことはなかった。私は黙っているのが苦にならない人間だが、彼もあまり喋らない、というか、多分、私以上に無愛想な人だった。

非常勤になった彼、私の記憶では定年を迎えたその年の秋に、亡くなってしまったはずだ。
週に1度だけだが、顔を合わせた際には、こちらから挨拶をしていたつもりだ。何と言ってもセンパイだから。もっと喋っておけば良かったと思った。


その2週間前の会合に関する旧友の文章は以下にある。

彼岸までの距離|ムニぞうの つれづれ人生横町

金曜日の日記:こんなはずじゃ......

そう、同級生だった彼はボーリングが上手かった。私もボーリングをする度に、彼を思い出す。

ここにあるのは2009年2月14日 18:41の日記です。

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