根津公子氏(ググリンク)の著作『希望は生徒』を読んでみた。
読んでみたが、「学校という場に於ける国旗・国歌」に関する私の見解には、特段の変化はない。根津氏にとっては残念なことであろう。根津氏の意見は意見として尊重するが、公務員としてはフテキセツな人物なのではないかと思う。
私は、「国旗・国歌」に「敬意を払う」のは、地球上に棲むヒトの基本だと思うのですねぇ。もちろん、日本のヤツに限らず。
その自伝?の中では、唐突にお子さんが生まれていた。(恋愛や)結婚式についての記述は全く無い。
17~18ページから引用。
一九七一年、二〇歳の時、私は東京都江東区立大島中学校に赴任しました。
(中略)
家庭科の授業だけでなく、一年目は一年生の学級担任もさせてもらいました。
(中略)
家庭科の授業は、家庭科教育者連盟の学習会や合宿に出かけたり、半田たつ子さん編集の雑誌『家庭科教育』を読んだり、また生徒の要求を聞いたりして、試行錯誤をしながらつくっていきました。「男女の平等」については、日常の言動を折に触れて取り上げ、意識的に問い返しをしていきました。
一九四七年(原文のまま:この本は図書館で借りたのだが、誰かがきちんと「七四年」に校正していた。笑える)四月、第一子を出産。
彼女、「国旗・国歌」(への盲従)は嫌いなようです。
しかし彼女、私が思うに十中八九、神前式で結婚式を行っていますね、時代が時代だろうし。彼女は「日本古来の神」か何かに誓ったハズ。その事実を葬り去りたいからこそ、この自伝では自身の「結婚」について、何も触れていないのだろう。
無神論者の私は、彼女の行動を疑問に思います。
そして、結構面白い記述を見つけた。
ちょっと長くなるが、51ページから引用。
石川中へ移動した一九九〇年四月は、学習指導要領の「日の丸・君が代」条項の先取り実施の年でした。勤務二日目の職員会議での議題の一つに「入学式について」がありました。すでに決定されていた「日の丸・君が代」の取り扱いについてなぜ実施することになったかを質すと、返ってきた答えは、「校長が『実施する』と言うから」でした。誰も責任を感じないこうした運びは往々にしてあることですが、私はこれに黙っていることはできませんでした。「校長が、ではなく、みんなで話し合い、責任を持って決定しようではないですか」と訴えました。すると流れが変わり、決定した議題が差し戻され、論議がされました。そうして採決した結果、「君が代」斉唱はしない、「日の丸」は掲揚するとなりました。そして、その年度の卒業式には「日の丸」も「君が代」も実施しないと決定しました。一九九〇年度から学習指導要領が先取り実施されるなかで、石川中では、それまで実施してきた「日の丸・君が代」を取りやめていったのです。
「それまで実施してきた」のだったら、そのまま実施しておけば良かったと思うんですよ。何かが彼女を突き動かしてしまったのでしょう。転任早々会議で出しゃばれるなんて、スゴいと思います。
それ以降、根津氏などがいろいろと頑張ることにより、東京都教育委員会による学校の締め付けも強化されていったのだと思うのです。無理に波風を立ててしまったことにより、結果的に自分たち(東京都公立学校教員)の首を絞めてしまった気がしてなりません。
「怪しい教員」というと、大阪の方で「新任だけど免職されそうだ」ってなニュースを見た記憶がありました。
Birth of Blues 経由で、そのヒトが井沢絵梨子というお名前だと知りました。「大阪市新任教員免職撤回裁判」というページ群を見たのですが、その中のページの一部は思いっきり".doc"で放置してありました。
少しそのドキュメントを眺めてみましたが、あまり面白いものでもありませんでした。リンクは貼りません。
"労組系"の方々がネット上で活動する場合、「ワードファイルでの主張がデフォルト」なのでしょうか。根津氏の場合もそうでした。大変に不思議です。職場で「零細クミアイのイインチョー」をやってる私も真似してみようかな。
根津にしろ、井沢にしろ、教員なのだったら、「自分の言いたいことを伝える」という作業に、もっと真剣であって欲しい気がします。「ワード放置」じゃ、普通のヒトには多分伝わりませんね、何か言いたいことがあったとしてもさ。