「動機の解明」という妄想

猟奇的な犯罪などがあったりして、かつその容疑者が身柄確保されたりする。すると、まず間違いなく、テレビニュースではこういうフレーズが流れる。
「動機の解明が待たれます」

そのフレーズを聞く度に思う。「動機の解明」ってのは、可能なことなのだろうか?

ヒトのココロってのは、闇だらけだと思う私だ。
様々な刺激に対する個人個人の感受性には、相当な差異があることは間違いない。分かりやすい例で言えば、色覚(シノビズム)だとかね。分かりづらいか。
何しろヒトの個体間では、同じ物理的刺激を与えても、神経のパルスが生じるか否かという「科学的に測定できる」違いがある。もちろん、神経の集合体である脳の回路にも違いがあるはずだ。
脳の回路によってココロというものは作られる。「我思う、故に我有り」である。
その回路がどのように発達し、どのような個性を発揮するようになるかは、育つ環境によっても左右されるはずだ。私のココロは私しか持たない。アナタのココロはアナタしか持っていない。

そんな「同じものが二つと無い」ヒトのココロだ。
普通の人間だったら、自分の感情の制御にすら困ることだってあるでしょう。自分の感情が自分で理解できなかったりするコトもあるハズ。
そんな「理解不能」なココロの動き、他人が推測するなんて不可能じゃなかろうか。

だから「動機の解明」なんて、軽々しく口にすべきでは無いと思うのだ。
「動機の解明」ってのは、単に心理学者と名乗る「部外者」が犯罪の経緯をカテゴライズし、「悦に入っているだけ」である気がしてならない。


話は変わる、ってか変わらない。
国政にしろ、都政などの地方行政にしろ、その重要なポストに存在しながら、自らの身内に便宜を図ったりする輩には枚挙に暇がない。シンゾーとかシンタローとか。

心理学者にお願いしたい。まずは、そいつら売国奴の動機解明を。

ここにあるのは2007年3月30日 18:58の日記です。

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