普通教科「情報」不要論

先日「東京都高等学校情報教育研究会」「平成18(2006)年度研究大会」に参加してきた。

その基調講演では鈴木寛なる人物が、情報科全般について語った。
彼の喋ったことの一部は、「私の解釈」によると以下の通り。

教育が育む「生きる力」というのは、時代とともに変遷している。
高度経済成長下では、「生きる力」=「暗記力と反復力」だった。
しかし、高度情報化社会においては「判断力とコミュニケーション力」が必要となっている。私達はその育成に力を注ぐべきであろう。
判断力とは「情報編集力」とも言える。普通教科「情報」は、この「情報編集力」の育成を目指したら良いだろう。

この話を聞くコトにより、何となく「ぼーっ」と考えていたことが、さらに明確になりました。

それは、「情報科」の意義は最初から存在していないのでは、ってコト。
もしかすると、前述の教科における「目標」そのものに、既に表出していたのかも知れません。
「学習指導要領」ってヤツは、かなり高級な頭脳を持った方々によって作成されているはずです。にもかかわらず「情報科」に於いては、あのような「ぼやけた」目標しか策定できていません。結果的に、情報科を担当する先生は非常に苦労を重ねてしまったワケです。


スズキカン氏の仰るように、生徒に「情報」を「編集」する「力」を付けさせようと思ったら、「基礎的な知識」が必要になるはずです。

昨今流行の「あるあるの捏造」に引っかかった輩ってのは、自然科学をきちんと勉強しなかったヒトたちなのでしょう。きちんと自然科学を勉強してこなかったから、自然科学的な知識や、実験の基本的な進め方、実験結果を解釈する能力に欠けていた。
また「グラフリテラシー(ググリンク)」なる能力は、小学校の算数で、きちんと手書きの棒グラフや折れ線グラフを作成する授業を受けてくれば、自ずと身に付いているはずだと思うのです。別に情報科で教えるべき内容とも思えない。ただ、私が情報科の授業を行うなら、参考にさせて頂きます(笑)。
また「メディアリテラシー」なる能力。これは、個性と情熱あふれる先生による、旧態依然とした国語算数理科社会の教科教育を受けることにより、徐々に身に付いていくものだと思うのです。「あの先生はあんなコト言ってるけど、この先生はまたちがうこと言ってる。変だなぁ…」って。そして社会科を勉強し、本や新聞を読んでいけば、自ずとその人なりの「思想・価値観・判断基準」は形成されていくと思えます。
情報科の教員が「メディアリテラシー」の全てを生徒に伝えようなんて考えちゃダメだと思うのです。おこがましいコトこの上ない。

なにしろ、ヒトの能力というのは、あくまで「内発的」にしか開発されないと思うのですね。

なお、ウィキペディアの「メディアリテラシー」には、面白い文章がありました。一部引用。

物心ついたころからテレビがどこかにあった世代(団塊の世代後期~)においては、テレビや新聞は絶対であり、テレビや新聞など大手の情報源以外の情報は取るに足らないとする風潮が強く、メディア・リテラシー教育の必要性は子供だけにあるものではない時代と言える。読売新聞(2006年10月20日)によれば、新聞を「大いに信頼できる」、「だいたい信頼できる」と答えたのは、50歳代で最も高い92%、20歳代で最も低い83%という結果であり、高齢層のメディアリテラシー教育の必要性を示唆する結果となった。


しかしまあ、また私が情報科の授業を受け持つコトがあれば、それなりには頑張るつもりであることも事実です。様々な先生方の実践報告は参考になりました。ありがとうございました。

しかししかし、謎の教科「情報」よりも、目標が明確であり自分が好きな「理科」を生徒に教える方が楽しいのも確か。

ここにあるのは2007年3月29日 15:28の日記です。

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