「ボタンの掛け違え」と飛鳥涼

「ボタンの掛け違え」って云う表現、結構耳に、眼にする。政治屋までもが使っている。
私は、この表現を生み出したのは「CHAGE and ASKA」の飛鳥涼氏だと観察している。

もちろん、衣類にボタンという仕組みが加わった時から、物理的な「ボタンの掛け違え」は起こっていたことだろう。また、辞書を見てみると「(ボタン等の)掛け違え」という語句もきちんと載っている。
ただ、「初期の意志の疎通がうまくいかず、その食い違いを残したままに状況が進展してしまうこと」を表す表現として「ボタンを掛け違える」という比喩を生んだのは、飛鳥涼氏であると思うのだ。そして、そのコトバが入っている歌の題名は『僕はこの瞳(め)で嘘をつく』である。私の記憶では、この歌以前に「ボタンを掛け違える」っていう風な表現を見た、聞いた気がしないのだな。
歌詞の一部を引用してみる。

心のリズムは散らばるようなタンブリン
話の何処かできっと 掛け違えたボタンがある
君が僕を見つめている

だから君の顔 見つめたよ
だから君の顔 見つめたよ

どんなに君の瞳が僕を疑っても
僕はこの瞳で嘘をつく


この歌は1991年に発売されたアルバム『TREE』の1曲目に収録されているのである。

このアルバムは劇的に売れた作品らしく、私も持っている。2曲目の『SAY YES』を知らないヒトは居ないだろう。
『SAY YES』は場面設定が具体的だから、分かりやすい歌である。『僕はこの瞳で嘘をつく』は、恋の始まりの歌である気がするが、ちょっと浮気とか不倫みたいな雰囲気もある歌詞だ。アルバムに収録されている他の曲も、恋愛にまつわる何らかの情景を描いたモノが多い気がする。
そんな中、私が好きな歌は3曲目の『クルミを割れた日』と11曲目の『BIG TREE』である。この2曲は特に比喩が多用されているようで、様々な解釈が成り立つ気がする。特に『クルミを割れた日』は基本的に飛鳥涼というヒトの個人的な体験に基づく歌なのだろうが、そこには普遍的な何か(宗教的体験?)が語られている気がするのだ。まあ、歌詞が難解だから、その上に私の下らない解釈を垂れたところで無意味だろうからこれ以上は記さない。とりあえず印象的な曲である。

話は戻る。
「ニホンゴを作りかえた、つまり確実に歴史を塗り替えた」飛鳥涼は凄いなぁ、って尊敬しちゃう私なのだった。数年間、ずーっとそう思っている私なのだが、勘違いなのでしょうか? もっと前から「ボタンの掛け違え」って比喩は使われていたのでしょうか? ずいぶん調べてきた、そして今日も調べてみたのですが、分かりませんでした。

ここにあるのは2006年6月 8日 20:40の日記です。

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