今朝、私が職場最寄りの阿佐ヶ谷駅ホームに降り立った直後、中央線快速はしばらく運転を停止した。御茶ノ水駅近くで線路内にヒトが入ったらしい。線路内に猫や犬が入り込むなら分かりやすい。少し譲って、鹿とか猿とかでも許そう。しかし、線路内にヒトが入るって、どういう状況なのだろうか? そういった車内アナウンス等を聞く度、「線路内に入り込んだヒト」を見てみたいものだと思う。そして、その願いは未だ叶っていない。
線路内に入り込むってのは、もしかすると「レールの金属内」って意味だったりするのかしら? 実はカミオカンデみたいなシステムが線路のレールには備え付けてあり、「ニュートリノみたいな素粒子並みに小さいヒト」がレールの金属内に発見されるのかも知れない。だったら、電車を止める価値もあるでしょうね。多分相当な発見だろうから。
で、行列ができている駅の改札を横目に、私は職場へ向かって歩き出した。そのトキ「良かった、電車の中で足止めを食わなくて。ラッキー」って思ったのだ。
でも、さらによく考えてみた。この「嬉しさ」というのは、本当に本当に相対的なものであるコトに気付いたノダ。
普段の通勤ならば、何事もなく電車に乗り、何事もなく電車を降りる。そして、特に何事もなく職場へ向けて歩き出し、特に喜びを感じるコトも無く、職場に到着する。今日はたまたま電車が止まってしまった。私の乗った電車に乗り続けて先の駅まで行くヒトは、阿佐ヶ谷で足止めを食らった。阿佐ヶ谷まで来たかったのに、高円寺で足止めを食らったヒトもいた。そのヒトビトに比較すれば、確かに「ラッキー」である。でも、この喜びは本当に自己中心的で、つまらない喜びらしいコトに気付いてしまったのだ。自分のココロの小ささにアホらしさを感じるとともに、やはり嬉しさもあったりして。
「喜びというのも哀しみというのも、結局は他人との比較によって生じるものなのかもなぁ」って、今朝改めて思っちゃったわけである。
自分より悲惨なヒトを見て、指さして笑うってのはあんまり良いオコナイでは無いのだろう。しかし、私の今日の喜びも、本質的には「哀れなヒトを見て、自分の優位さを確認する」という、程度の低い喜びであると気付いた。そんな自分が、なんだかとても酷いヒトのように思えた。
なので、そんな心の動きを告白してみた。ケータイが繋がったり、繋がらなかったり、また繋がったりする今日である。明日こそ修理に出そうと思う。