世界報道写真展行ってきた

先日、『世界報道写真展2005』とやらに行ってきた。
この写真展に行くのは、昨年度に続き2回目であった。前回は職場に置いてあった「招待券」を貰って行ってきたのだった。学校という場所は結構「招待券」がやってくるところなのである。昨年初めてその写真展を見たときの印象は「紛争というのは世界の至る処で起こっているのだなぁ」というものであった。かなりヘビーな写真展である。あの写真展を見ると、自分の無力さを感じ、自分は平和な世界にいるなぁ、と思うのです。少なくとも「簡単に命を落としてしまうような場所に居ない」ということを認識します。ま、この文章を作成している数秒後にこの東京に巨大地震がやってくる可能性もあるのでしょうけれどね。
今年、職場ではタダ券がどこかに置いてあるコトは無かったのだが、写真部顧問の理科の先生がタダ券をくれたのだった。再び、写真展を見ての感想は、「昨年は「いろんなところで紛争が起きているのだなぁ」というコトを思ったっけなぁ」でしたとさ。ヒトというのは忘れっぽい生き物なのだと改めて思いました。
その写真展では「ポートレート部門」というのがあるらしく、入選した作品集の中には「イラク戦争で負傷した、アメリカ合衆国軍の帰還した兵士(の肖像)」がありました。また、「現代社会の問題(だったかな?)部門」では、「中国の工場で働いている最中に、体の一部を失った青年たち」というのもありました。写真というメディアによって「物理的に傷ついた人」を見ると、生き長らえて写真に収まったヒトの裏に、死んでしまったヒトが居ることが連想されます。(実際には写真展の作品に「この後、写っている兵士は殺された」というものもありましたが。)ニュースの報道による「数十名(数百名・数千名・数万名)の死者」というフレーズを、スッと聞き流してしまうような日常を送っている私ですが、死というモノをもっときちんと想像し、戦争や紛争といったデキゴトに慣れないようにしたいと思うのでした。ただ、あんまり本気で見知らぬ人の死を悼みすぎていると、ココロが辛くなってしまうでしょうね。また、地球上に生まれた人が皆んな天寿を全うできたらば、食料はもっと大幅に足りなくなり、さらに紛争も頻発してしまうことになってしまうのかも知れません。

ここにあるのは2005年7月27日 21:00の日記です。

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