一昨日のハナシなのだが、思い出したので記す。
私は普段(日本語を用いて)ヒトと会話するときは、言葉を聞きながらも、相手の仕草や表情も見ている気がする。まあそれは心理学者なら「あったりまえ」のことなのであろう。
視線を向けずに話を聞くってのは真面目に聞いていないことを表しているのだろう、意識的あるいは無意識的に。また、時には自分や相手がそうしていることに気づくこともあるでしょう。
で、本題である。勤務先で行われた「(英語による)スピーチ・レシテーションコンテスト」の入賞者のお披露目会@全校集会では、生徒の発表(暗記した文の暗唱)を真面目に聞こうとする私がいた。が、その際、何とかその発表を理解しようとした私は、喋っている壇上の生徒から視線を外し、脳の何らかの部分にアクセスしようとしていたのである。
これは本来のコミュニケーションではないのであろう。生徒の英語がスラッと頭に入ってくる生徒や先生もいることであろうが、私の頭には入ってこなかった。メッセージを認識しようとすると、頭のある場所を使おうとしてしまうようだ。「三つ子の魂百まで」って感じ。
ってことで、私は小学校での英語教育に賛成するかと言えば、そんなことはない。まずは母国語の習得であろう。