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平成17年度原子力体験セミナー【産業コース】報告

はじめに

 2005年8月9日から11日にかけて、念願であった「原子力体験セミナー」に参加してきた。これはその報告である。
 このセミナーhttp://www.rada.or.jp/taiken/は文部科学省の委託事業として、財団法人放射線利用振興協会という団体が実施している教育関係者対象のイベントであり、年間40回開催されているそうである。私は2004年度にこの研修の存在を再発見し【理科コース】に申し込んだのであるが、その年は受講対象者から外れてしまった。2005年度は、計14コースの内容を記した募集案内が本校に届いたので、日程と内容を精査した上で、表題に記した【産業コース】に申し込んだ。本年度は幸いにして受講対象者に選ばれ、先に述べた日程で参加することができた。この【産業コース】は茨城県の東海村にある日本原子力研究所を主な研修会場としたコースであった。
 結論を述べると、この研修は大変有意義なものであった。この「原子力体験セミナー」は小学校から高等学校の教員を主な対象者としているため、理科教員に限らず、様々な体験をすることができる。宿泊費・交通費のみならず、日当まで支給されるこの研修は、全ての教員にお薦めする。高い税金を払っている我々であることだし。

チェレンコフ光@日本照射サービス
図1 日本照射サービス株式会社のプール内 コバルト60によって生じるチェレンコフ光

研修内容概略

 (★以外は日本原子力研究所東海研究所にて)
1日目:8月9日(火)
 開講式・オリエンテーション
 講義1「原子力・放射線の基礎知識」
 施設見学1「原研・東海研究所」
 実験1「手作り教材による放射線実習」
2日目:8月10日(水)
 講義2「放射線の産業への利用」
 講義3「原子力発電」
 施設見学2「研究用原子炉とその利用」
 実験2「簡易型GMカウンターを用いた放射線の測定」
3日目:8月11日(木)
 施設見学3「放射線照射による滅菌処理施設」
  ★日本照射サービス株式会社にて
 原子力科学館自由見学
  ★社団法人茨城県原子力協議会の施設
 講義と実験「放射線利用による新材料の開発」
 レポート作成・閉講式

1日目詳細

 「旅費は規程により支給」ということではあったが、無駄遣いを好まない私である。交通費を節約するために、8月9日早朝、自宅に近い西日暮里駅へ向かった。5:48発の京浜東北線に乗り、5:53には上野駅4番ホームに到着した。自宅からは日暮里駅も楽に歩ける距離であり、その日暮里にはこれから乗車する常磐線も停車する。特に上野駅まで移動する必要は無かったのかも知れないが、「上野発の列車」で小旅行に出かけたかったのである。その方が気分?が出る気がしたので。上野駅9番線には6:03発の常磐線鈍行列車が入線していた。海側(進行方向右側)のボックス席を確保し、ホームの自動販売機で茶を購入して出発を待った。本当は缶ビールの方が「旅気分」となるのだが、これから通勤時間帯であり、研修が控えているわけでもあり、ビール購入は断念した。程なく電車のドアは閉まり、そこからはひたすら電車に揺られた。幼少時代の6年間を過ごした団地に一番近い神立駅を通り過ぎたあたりから、居眠りと曖昧な覚醒を繰り返す。車窓からの朝日に照らされて北へ進むうち、車内には通勤客や学生が増えていった。県庁所在地水戸で乗客がかなり入れ替わったが、その列車が再び多数の乗客を降ろしたのは東海駅であった。東海駅到着は8:33、2時間半にわたる鈍行列車の旅であった。
 東海駅東口には、日本原子力研究所東海研究所勤務者用の通勤バスが2台停車していた。自宅に郵送されてきていた「身分証明書」を運転手に提示し、無料のバスに乗り込んだ。そのバスには、私と同じく「身分証明書」を提示する人と、顔パスで乗り込む人がいた。「原研通り」と呼ばれる県道62号線を進むことおよそ10分、バスは国道245号線との交差点である「原研前」にたどり着いた。

原研正門
図2 原研東海研究所入口

 正門の検問を通過し、1つ目のバス停で乗客の半分弱が下車した。原子力体験セミナー参加者は2つ目、終点でもあるバス停で下車した。集合場所である研修講義棟へ向かうのは、ほとんどがセミナー参加者であるはずなのだが、私のように大きな荷物を抱えている人はあまり居なかった。大半の受講者は前日から水戸市内に確保されたホテルに宿泊していたのだろう。
 講義室内の受付では4万円を越える現金が入った封筒を受け取った。これは交通費・宿泊費(3泊分)・日当(!)ということらしかった。さすがにクニは太っ腹である。夏休み中も月給(その半分は税金?)を頂いているハズである私なので、「日当は要りません!」と受け取り拒否をしようかとも思ったが、大人である私は事務処理する方々の手を煩わせる事を恐れ、素直に封筒を受け取った。腐りかけている元官僚や元議員などの手にする金に比べれば可愛いものであろう、と自分を納得させて。また、受付後には研究所内で使用できる1枚70円の「食券」を合計12枚、840円分購入させられた。後で判明するのだが、この研究所内の食堂は恐ろしく廉価であるのだ。

 参加者も全員揃い、開講式が始まった。放射線利用振興協会の方からの話があり、全日程の説明を中心としたオリエンテーションが行われた。

 休憩後、最初の講義「原子力・放射線の基礎知識」が10:10から開始された。講師は東京ニュークリア(nuclear)サービス株式会社の室村忠純氏。この会社が何を生業としているのかは後日Web上で検索しても今ひとつ分からなかった。私が参加した【産業コース】は「主として理工系の先生を対象として企画」されているらしいが、最初の講義は本当に「基礎的」なものであった。ただし、その中で特に印象的だったことが2点ほどあった。
 「人体の放射能(放射線を出す能力)は7000Bq(ベクレル)である」
 「原子炉は自然界に存在した事がある」
 1つめを言い換えると「人体では1秒間に7000個の原子核が崩壊(壊変)している」となる。人体は約60兆の細胞から成り、10^27(10の27乗)を越える原子からなっているので、それに比較すれば遙かに遙かに小さな数であるが、平然と日々を過ごしているヒトにとって、「自分の体から毎秒7000個の放射線が発生している」というのは驚きなのでは無かろうか。
 また、2つめの「自然の原子炉」というのはアフリカ大陸にある赤道直下の国、ガボン共和国で発見されたそうである。ほとんどの原子力発電所で使われるウラン235(地球上のウラン全体のうちの0.7%)は半減期が7億年である。私はここまでは知っていた。半減期が7億年ということは、7億年前にはウラン235は現在の倍の量が存在し、14億年前には現在の4倍の量が存在した事になるわけだ。ここまでは「そういわれればそうだなぁ」と感じた。ここから先の話は今回の研修で初めて知る。「太古には天然の原子炉が存在しても良いはずだ」と、1956年に黒田和男という人が予測したそうだ。そして、1972年には「原子炉の化石」とも言えるものが発見されたとのこと。それは現在のガボンのオクロという場所にある。そこでは約20億年前に自然にウランが濃縮して臨界に達し、60万年その状態を保った形跡が残っているそうだ。オクロの天然原子炉については以下のサイトが詳しい。
  https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_04-02-01-10.html
私がこの世に生まれた直後に、そのような発見がなされていたとは知らなかった。

 午前中の講義が終わり、我々40名弱の参加者は、放射線利用振興協会の人に引率され、東海研究所内の食堂へ移動した。その食堂は食券制であり、3枚だとカレーライス、4枚だと日替わり定食、1枚でスープ類などと交換できるシステムになっていた。つまり、カレーライス等は210円で、日替わり定食も280円で食べられるのである。量も適度で味も普通であった。これは市場価格からすると、かなり低廉であると感じたわけだが、研修参加時に「何故、内部者と外部者(我々セミナー参加者)の食券の色は違うのだろう」と疑問に感じたのだった。
 後日、Web上の「とあるサイト」を発見し、食券の色の違いの理由を知る事ができた。そのサイトによれば、原研職員は食券1枚が50円であるらしい。つまり、市販価格は400円を下らないような日替わり定食を、原研職員は200円で食べる事ができるのである。私たちは税金で彼らの給料を払い、税金で彼らに安い昼食を食わせてやっているのである。
 私の給与の一部となっている私学助成金なぞ、電力会社などを含めた原子力関係に流れる金額に比べれば端金であるのは確かなのだろうが、それを貰っていることについて、以前より気が楽になった。

 セミナー初日には食券の色の謎に気付かなかった私は、普通の速度で歩いて5分を軽く越える散歩の後、研修講義棟へ戻った。

 12:50集合の後、「施設見学」ということで40名が2班に分かれ、東海研究所内の見学に移った。私の班の見学場所は、JRR-1と呼ばれる原子炉跡地である。これは「Japan Research Reacter No.1」の略であるとのこと。この場所で我々は別の研修団体と遭遇した。それは「SCIENCE CAMP」である。簡単に言うと「高校生向け科学技術体験合宿プログラム」である。(公式サイトは https://www.jst.go.jp/cpse/sciencecamp/ )本校にもこの通知はきちんと届いており、ここ2年ほどは教科主任として、理科室前の掲示板に「SCIENCE CAMP」の告知ポスターを貼り続けている。もちろんその他の科学的な催し物のポスターもまめに貼り替えているのであるが、残念ながら本校生徒から「理科室前にあった催し物に参加したいんですが…」という申し出を受けた事は一度も無い。しかし、これからも種を蒔き続ける(ポスターを地道にチェックし、貼り替え続ける)のみである。
 話は戻り、JRR-1について。説明してくださったのはモロズミさんという方だった。この研究用原子炉は、日本で最初に稼働した原子炉であるとのことであった。原子炉は国外から輸入し、原子力発電の実用化と放射線の利用が主な目的であったそうだ。原子炉建屋内にはマニピュレーターを操作できる展示もあり、技術者気分を味わう事ができた。

 13:55にJRR-1を出た我々は、所内バスに乗り込み、放射性廃棄物処理施設「解体分別保管棟」へ向かった。東海研究所には、過去約50年の原子炉稼働によって、合計14万本ものドラム缶入り放射性廃棄物が存在するそうである。日本国内での最終処分場が決定できていない現在、過去に所内で発生した放射性廃棄物の減容を行うのが主な目的となっている。

地下倉庫とそれを眺める頭
図3 解体分別保管棟の地下倉庫
黄色いドラム缶のラベル
図4 地下倉庫内のドラム缶拡大図

 放射性廃棄物の減容を行った場合、確かに容積は減少するものの、質量はほとんど変化しない。そして、日に日に放射性廃棄物は増加していくわけである。こうした技術(ガラス固化など)を目の当たりにすると、大深度地下での地層処分が適切であるようにも思える。しかし、実際にその地層の近くに住むこととなった場合、やはりいい気がしないのも事実であろう。誠に身勝手な都市生活者である私だ。そして、都市に生活する以上は好むと好まざるとに関わらず、原子力発電所からの電気も使っている私達である。このような大量のドラム缶の存在は知っていても良いことであろう。何とも言えない空気に包まれたまま、バスに再度乗り込む我々であった。

 15:10からは、最初の実験となる「手作り教材による放射線実習」となり、国際医療福祉大学の油井多丸氏を講師として、霧箱および放電箱を作成した。
 「霧箱」とは放射線の飛跡を可視化する装置であり、主にα線(ヘリウム原子核)を見ることができる。セミナー後に調べてみたところ、霧箱の作り方についてはWeb上にもたくさんの情報があることが分かった。今回私自身も簡単に作成できたことから、数人の選択授業などの機会があれば、是非生徒にも作らせたい。同じ時間に作成した「放電箱(スパークチェンバー)」は、かなり強力な放射線源が必要であり、なおかつ材料も揃えづらいため、生徒実験には不向きであろう。霧箱に現れる放射線の飛跡は、見ていて飽きないものであった。この講習で私の隣の席となった方は、練馬区に勤務されている小学校の先生だった。私と同じ感想を持ったようで、「見ていて飽きませんねぇ」とおっしゃっていた。

 セミナーの募集案内にも記されていたのだが、初日の17:30からは「交流会」が予定されていた。最初のオリエンテーションで「交流会は近くのアコギ云々で…」とのアナウンスがあった。「アコギとはふざけたような、洒落が効いているような名前の飲み屋だなぁ」と思ったのだが、実は「アコギ云々」は正式には「阿漕ヶ浦クラブ」という歴とした建物で、前述の「SCIENCE CAMP」の宿舎としても使用されていたのだった。阿漕ヶ浦クラブの交流会会場からは、阿漕ヶ浦(周囲1km強)のほぼ全貌を望むことができた。
 しばらくすると交流会も始まり、協会のサイトウさんの司会によって、全国から集まった人々のスピーチが始まった。なにしろ本当に全国から集まっているようで、北海道から沖縄県の方が集合していた。たまたま私の近くにいた方は、北海道と高知県の方であり、北海道の先生は過去にも同じようなセミナーに参加したことがあるとのことだった。協会のサイトウさんによれば、意図的に全国から教員を呼び寄せているということであった。数えてみたところ、都道府県で言えば東京都の教員が一番多かった。恐らく生徒数か何かに比例するように参加者を選んでいるのであろうが、セミナー参加希望者から単純にクジ引きなどで参加者を決める方が公平である気がした。なお、そのことは意見として協会へ伝えた。
 この交流会の会費は確か2000円だったが、費用の割には豪華な会であった。ちなみに高校生対象の「SCIENCE CAMP」の参加費はどのキャンプに参加しようとも一律8000円であり、交通費は自己負担となるそうである。日本原子力研究所としては、「うちに来てくれる生徒さんは、交通費も何も要りませんよ」と言いたいところかも知れない。
 2時間弱続いた会も終了し、タクシーに相乗りして東海駅へ向かった。そして酔っぱらい達を乗せた電車は水戸駅へと向かった。その車内で判明したのだが、講習で私の隣にいらっしゃった小学校の先生は、大学では地学専攻であった。しかも、岩石学研究室に所属していたとのこと。
 大学時代の研究室での知り合い以外には、岩石学を専攻した教員に出会ったことが無かったので、かなりの奇遇に驚いた。その先生は埼玉大学出身だということだったが、岩石学を学んだという学校の先生にお会いし、少々興奮した私であった。その先生は幼い頃、気が付けば石に心を奪われていたそうだ。そしてそのまま岩石学を志したそうである。成り行きで地学を勉強するようになった私とは純粋さがかなり異なるが、同じ岩石学専攻の先生に遭遇し、嬉しいと感じた。

 水戸駅で電車を降り、ぞろぞろと同じホテル(ホリデイ・イン水戸)へ向かい、他の先生とは「お疲れ様でした」ということでロビーで別れた。ほとんどの先生はやはり前泊していたそうで、私と同じようにチェックインする人は少数だった。
 ここで初日の研修も終わるのだが、実はこの研修に参加するに際して、計画していたことがあったのだ。大学時代に私が所属した徒歩旅行のサークルの先輩の実家が水戸市内にあるのだ。私も彼もそのサークルの会長を務め、彼は私の1つ上の代であった。サークルでの友人の結婚式2次会で数年前に会ったきり、茨城県内で教員をしているはずの彼とは会っていなかった。ただ、携帯電話の番号だけは控えてあったので、とりあえずその番号へ電話をかけてみた私だった。携帯電話は留守電となっており、「お久しぶりです、大学時代に…」とメッセージを残した。「やはり会うのは難しかったか」と思い、部屋のシャワーを浴びた。22時を回り、留守電にメッセージを入れたことも忘れていた頃、私の携帯に着信が入った。「おぅ、小川かぁ。久しぶりだなぁ。俺は今○○に住んでんだよ…」という彼だったが、水戸市内の地名を知るほど茨城に詳しい私ではない。結局彼はホテルまで来てくれることになり、その後ホテル横にあった「つぼ八」で旧交をあたためた私達であった。私自身は入籍して約1か月だったわけだが、彼も2005年3月に入籍したとのことであった。互いに驚き、それぞれが知っている友人の状況などを伝え合ったのだった。彼は結局奥さんに車で迎えに来て貰い、私がホテルの部屋に戻ったのは、日付が変わってしばらくしてからであった。彼はその9日に遺跡発掘の研修が終わったばかりだったそうで、かなり疲れていたはずなのだが。

2日目詳細

 前日の酔いも残っていたので朝食をキャンセルし、なるべく多くの時間を睡眠に充てたが、それでも駅に向かうのは辛い朝だった。徒歩で水戸駅へ向かい、JRの電車に13分ほど揺られ、通勤バスに身分証明書を提示して原研内へ到達した。

 2つめの講義「放射線の産業への利用」が9:00から開始された。講師は財団法人放射線利用振興協会の棚瀬正和氏。放射線の利用というと、「植物の品種改良」くらいしか思い浮かばない私であったので、この講義は有意義であった。様々な場面で現代社会の生活は放射線の世話になっているのだが、その講義の中から、特に身近なものを何点か紹介する。

1:医療器具の放射線滅菌
  https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_08-02-03-01.html
 病気と無縁であるような人でも、予防接種や採血をしたことはあるはずだ。その際に使用されるプラスチック製の注射器やチューブ類は、使用前に滅菌されている必要があるが、その滅菌にγ線(電磁波)照射が行われているそうである。また、人工透析のカラムや医療用中空糸の滅菌にもガンマ線が用いられているそうである。

2:中性子照射によるケイ素Siの半導体化
  https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_08-04-01-25.html
 半導体の元となるケイ素Siには微量の不純物を混入させる必要があるが、近年は純粋なケイ素に中性子neutronを照射し、ケイ素単結晶のインゴット内にリンP原子を均一に分布させる技術が確立しているとのことであった。この半導体化されたケイ素はコンピュータの中枢部となる大規模集積回路の基板に用いられるものである。

3:ラジアルタイヤの製造
 ゴムの改質方法として、以前は加硫(硫黄の添加)が主な方法だったが、現在ではゴム分子間の架橋の手段として、β線(電子)照射も広く行われているそうである。また、タイヤに限らず、プラスチック製品の加工に際しても、β線の照射は改質の方法として有効であるそうだ。

 3つめの講義「原子力発電」は10:40から12:00まで行われた。講師は日本原子力研究所の中島照夫氏。私にしてみれば、内容については特に新鮮味はなかった。逆に言うと、原子力発電の仕組みについてはかなり啓蒙が進んでいるとも言えるのだろう。なお、今回改めて気付いたのだが、2005年現在、国の公式的な見解では、高速増殖炉という存在は「核燃料サイクル」には組み込まれていない様子である。

 昼食を挟み、施設見学「研究用原子炉とその利用」に移り、13:00からJRR-3の見学を行った。なお正確に記すと、図5に示した原子炉は2代目JRR-3であり、「国産第1号原子炉」となる初代JRR-3は、「総重量2200トンの廃棄物」として、この2代目JRR-3から34m離れた地下のプールに沈んでいるのである。その作業時の写真はJRR-3の建屋内展示コーナーにあった。初代JRR-3の廃棄(移動)に際しては、まず原子炉の周囲のコンクリに、ボーリングによって連続した穴を開けたそうだ。次に原子炉全体をクレーンで持ち上げて移動し、原子炉全体が収まるプールに沈めたそうである。そして「国産第1号原子炉」は、今も自分の後釜を地下から上目遣いに睨みつつ、プールに沈んでいるというわけである。その記録写真群を見ていた時、私は「研究それ自体が目的の、やたらに大がかりで高価な研究」という印象を受けた。具体的にはアホらしさを感じたのだ。この作業の詳細は以下のサイトにある。
  http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=05-02-04-08

原子炉の外観、周りには各種機関の実験機器
図5 JRR-3原子炉外観

 なお2代目JRR-3では、様々な大学や研究機関が中性子ビームを用いた各種実験や測定を行っていて、発電は一切行われていない。前述の「半導体用ケイ素」製造や医療用などの「ラジオアイソトープ(放射性同位体)」製造も行われているそうである。
 14:00からは、引き続きJRR-4の見学を行った。今回の3日間の研修のうち、初めて核分裂によって生じるチェレンコフ光を目にすることができた。私自身は数年前に私学協会主催の原子力発電所見学に参加した際に、商用の原発(東海発電所)でチェレンコフ光を見たことがあったので、この青白い光を見たのは2回目であった。チェレンコフ光(またはチェレンコフ放射)とは、電子などの荷電粒子が水などの物質中を運動する際、その物質中における光速度よりも速い速度で荷電粒子が移動する場合に発生する光だそうである。身近なところ?では1999年のJCO臨界事故の際の「青い光」がある。また、小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞するきっかけとなったのもチェレンコフ光が関係している。岐阜県の神岡鉱山に造られたカミオカンデの光電子増倍管が1987年2月に捉えた「光」とは、超新星由来のニュートリノが水の電子を叩く際に発生した「チェレンコフ光」のことである。

ウランの核分裂によるチェレンコフ光、青いです。
図6 JRR-4のチェレンコフ光(ウラン235の核分裂によって生じている)
稼働している原子炉の出力が表示されています、その下に扉
図7 JRR-4地下の中性子照射設備(壁の向こう側が炉心となっている)

 チェレンコフ光の説明が長くなったが、JRR-4ではケイ素等への中性子照射の他に、癌治療としての中性子照射も過去数十例行われているそうである。この治療では、予め癌細胞にホウ素を取り込ませておき、中性子照射によって起こるホウ素の崩壊エネルギーによって細胞を破壊するそうである。

 15:10からは実験2「簡易型GMカウンターを用いた放射線の測定」であった。なおGMとは「ガイガーミューラー(管)」の略であり、俗に言う放射線測定器「ガイガーカウンター」の心臓部分のことである。放射線にはα線(ヘリウムHe原子核)、β線(電子)、γ線(電磁波)や中性子線などがあるが、それらはどれも人の眼には映らないものである。GM管は真空管内部に直流の高電圧(今回の実験で用いたものは550V)をかけてあり、荷電粒子が管内に突入した際に起こる放電を増幅・検出するために最適な構造となっている。そのため、基本的には荷電粒子であるα線・β線を検出し、γ線などはほとんど検出できない。なお、γ線や中性子を検出するための機器は別に存在するが、今回の実験では比較的安価(とは言っても、恐らく万単位の価格となるであろう)であるGM管による検出器が、参加者1人に1台ずつ配布された。
 実験は「バックグラウンド線量の測定」「距離によるβ線の減衰(拡散)」「アルミニウムAl厚と透過するβ線量の関係」「物体によるβ線の反射の違い」を行った。ここでは実験の詳細は述べないが、実際に放射線に被曝しそうな場合に必要な対処方法を、実験で用いたテキストから引用する。

放射線防護の3原則
 1.放射線源を遮蔽する
 2.放射線源からの距離を確保する
 3.放射線被曝の時間を短くする
 放射線源が気体である場合はこれらの防護が難しいが、線源が分かっている場合は上記の1~3が有効な対処方法となる。
 以上で2日目の研修は終了した。バスと電車で水戸駅まで戻り、駅近くの食堂で夕食を摂った。ホテルへ戻った私は、不足していた睡眠時間を確保するため、早めに床についたのだった。

3日目詳細

 この日は健全な朝を迎えた。ホテルの朝食を摂り、チェックアウトを終え、重い荷物を背負って日本原子力研究所へ向かった。

 その日最初は3つめの施設見学「放射線照射による滅菌処理施設」であった。東海駅東口に停車していたバスに乗り、8:42に駅前を出発した。見学先は同じ東海村にある日本照射サービス株式会社であった。この会社はγ線の照射によって、医療機器・食品用包装材・食品容器・理化学機材・医薬品原料などの滅菌を行うことを仕事としている。到着後、講義室にて簡単な説明を受けた後、3班に分かれて施設内を見学した。

アルミ製の容器です。ヒトも入れそうです。
図8 滅菌されるものを入れる容器

 そこでは金属製容器に、滅菌したい製品が包装(製品を直接包むフィルムや、その周りの輸送用段ボールなど)ごと収められ、コンピュータ制御されたコンベアに乗って照射施設内を進んでいく。通常の状態であれば、照射施設内には図1(最初のページ)のγ線源であるコバルト60(放射能量200万Ci:1Ci=370億Bqなので8×10^16Bq)が空中に持ち上げられた状態になっており、そこから発せられた強力なγ線によって、容器丸ごと滅菌されることになる。なお、線源が空中に持ち上げられた状態で至近距離にヒトが入った場合、数秒で被曝が致死量に達するそうである。

工場内部の画像です。
図9 照射施設の入り口と出口(写真中央付近から容器が入り、その左側から出てくる。小さなものはフック(見学者の頭上パイプ)に付けられ、吊り下げて照射室に運ばれる)
コンクリの狭い通路です。意図的に狭くしてあるそうです。
図10 照射施設内の通路(基本的にヒトが照射施設に入ることは無いが、お盆前のその日は年に1度の定期検査時であった。右側のワイヤーは非常停止用のスイッチ)

 滅菌されている具体的な品物としては、前述の使い捨て医療器具(身近なところでは救急絆創膏)の他に、食品用包装材(例えばハムを巻くたこ糸や網などもある)・食品容器(切り餅やだしつゆ用のフィルムその他)・理化学機材(シャーレやピペットその他)・医薬品化粧品原料などがあり、変わったところでは養蜂箱の殺菌なども行われるそうである。
 今回の3日間の研修を通して、この見学が一番有意義であった気がする。「確実に私達は放射線の世話になっているのだ」ということを感じられたからだ。社員の方々も非常に丁寧であり、説明も分かりやすく親しみが持てるものだった。この日本照射サービス株式会社のサイトは以下の通り。
  http://www.jisco-hq.jp/

 10:40過ぎ、社員の方々に見送られた私達は、約20分バスに乗り、日本原子力研究所へ戻り、その後研究所の敷地外にある原子力科学館の見学へ向かった。この施設の一番の目玉は「世界最大の霧箱(クラウドチェンバー)」である。確かにとても大きなものだった。たとえて言うなら、実験で我々が作成した霧箱が線香花火、この科学館の霧箱はナイアガラ(仕掛け花火)くらいだろう。しかし、「どちらが美しいか」というと、花火と同じく「大きいから美しい」というわけでも無いような気がする。この科学館は小学生なども対象として運営されているようだが、その内容はかなり高度なものも含まれており、時間があればゆっくり見て回りたいところであった。また、この科学館の近くには多数の見学場所がある(なにせ原子力への国民の理解は、クニとして重要課題である)ので、機会があればそれらの施設にも行ってみたい。

 (異常に廉価な)昼食後、13:00から講義と実験「放射線利用による新材料の開発」が行われた。講師は日本原子力研究所高崎研究所の吉井文男氏。吉井氏が自分で言っていたのだが「開発した商品の営業」のようなことを行っているとのことだった。日本原子力研究所は国の機関であるが、「ただ税金を使うだけ」では世間的にも国家的にも許されなくなりつつあるそうだ。γ線などの放射線を利用した物質を開発して企業に売り込み、それによる利潤を上げたり、最終的にはクニのためになるような研究を要求されているらしい。その講義ではいくつかの「商品(カネのなる木)のもと」を見せてもらった。例えば放射線処理した多糖類(デンプンからなる溶けづらいゼリーのようなもの)の使い道として、家畜の排泄物を発酵させる際に必要となる「おがくず」の代用品としての普及を狙っているそうだ。
 実際に商品化された例として、「ハイドロゲル創傷被覆材」を紹介していた。この透明ゲルのシートは擦過傷などに貼ると、以下の利点があるとのことであった。

1.傷の治りを観察できる
2.剥がす時に痛くない
3.傷に物質が残留しない
4.治癒が早い
この商品を私達が薬局で購入することはできないが、病院などでは既に使用されているそうである。また、同じ製品は「靴擦れ防止シート」として市販されているそうであり、数年のうちには当初の予定通り絆創膏として売り出したいとのことであった。
 この講義を聞いて、放射線というのは様々な利用法があることを知るとともに、「半公務員も大変だなぁ」ということを強く思った。この講義をもって、研修のほとんどが終了した。

 その後、受講レポートを作成した後、参加者全員が修了証を受け取り、3日間のセミナーは終了となった。

 初日に受け取った手当から宿泊費その他を差し引いても、かなり金額が余ることが確定したため、予定通り今度は特急ひたちに乗って東京へ帰った。私は今回初めて知ったのだが、特急車内では生ビールが飲めるようになっていた。これにはびっくりした。

 後日談となるが、2005年10月1日、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構は統合され、独立行政法人日本原子力研究開発機構となったそうだ。具体的には何がどう変わっていくのか、変わらないのかは分からないが、これらの組織の動きなどに気を付けていこうと思う。

さいごに

 研修最終日に作成した受講レポートを一部改変したものを付け加え、この研修報告を終わる。

 「正確な知識の伝達」を今後も心がけようと思ったことが、今回の受講での最大の収穫である。
 「何となく分かったつもり」とか「何となく信頼できる」「何となく危なそう」といった観点で物事を判断していることが多いのが、私を含めた多くの日本人の実態であろう。空気中に出してしまうと人体にとって有害なコバルト60は、水中にある限りは数mの距離にいてもほとんど人体に影響を与えないということ。これは、今回の体験セミナーに参加しなければ知り得なかった、知ろうともしなかった「事実」であろう。そのことを知らないまま、私は数多くの注射器や採血のための真空容器の世話になってきていた。
 今後も可能な限り、この類のセミナーに参加させて頂き、「正確な知識」を自らに導入するとともに、「なんとなく」をなるべく排除して、公平で公正な判断を下せるようになる努力を続けたい。また、そういった意識を持った生徒を育てていく努力を続けていこうと思う。
 資源の少ない日本にとって、エネルギー問題は避けて通れず、「原子力」をただ避けるだけでは現代社会を生きていけないことも確かであるし。