トップページ >> 著作集 >>

私の高校時代

1994年作成

 私が高校を卒業したのは、七年程前のことである。今はこの学校で理科を教えているが、理科は幼い頃から好きな教科であった。そこで今回は、私の高校時代について文章を書こうと思う。(あまり関係無いか)

 私が通った高校は都立の小石川高校という、部活が盛んな汚い学校であった。だいたい校庭が土でできているにも関わらず、上履きというものが存在しないのである。舗装された道路上を通学してくる生徒はともかくも、サッカー部やラグビー部までもがスパイクのまま、平気で教室に入ってくるのだ。それで教室が綺麗に保たれるわけが無い。数少ない掃除は学期末と入学試験前及び文化祭終了後に行われるが、特に入学試験前は「新入生を気持ちよく迎えてあげよう」ということで、念入りに掃除をし、在校生である我々から見ると、非常に(まさに常ならぬ程)美しい教室が出現するのである。が、受験生から見ると、この世のものとは思えない、地獄絵図に映るのだ。普段の教室は、白い消しゴムを落としただけで真っ黒になるのだが、落とした消しゴムが薄汚れるだけで済む受験生は幸福なのである。しかし、その汚い教室に違和感を感じた受験生も、一年生活し、次の受験生を迎える頃には、土の積もる教室で平気で勉強をしているのである。慣れとは素晴らしい、いや、恐ろしいものである。ただし、現在の小石川高校は上履きを用いる二足制の学校となっている。少々残念な気もする。

 この高校で私は合唱部に入った。入学式で校歌を歌う彼らの姿に興味を覚えたのである。昼休みに新入生歓迎コンサートが開かれるというので、ついふらふらと音楽室の前に足を運んだ。結局そのまま仮入部、いつの間にか部費を払う存在となっていた。この合唱部はほとんど顧問が関与しない、活動自体が生徒の自主性に委ねられている部活動であった。指揮者が生徒であるため、年ごとに演奏のレベルはまちまちとなってしまうが、何かを成し遂げたときの喜びは、また格別のものであった。また、卒業生が数多く訪れ、高校十年生(ちょうど今の私の年齢である)などといった人たちと関わる機会があるなど、変化に富んだ部活動であった。

 結局、私自身は高一の四月から高三の十一月までの長きにわたって、合唱部に所属した。特に派手な部活動では無いが、なかなか充実した学校生活であったと思う。特にその合唱部では、NHKの「全国学校音楽コンクール」に入賞することと、年一回の「定期演奏会」を成功させることが、大きな目標であった。学期中は毎朝昼の練習と月水金の放課後練習、長期休業中は日曜日以外のほぼ毎日を部活動に費やしたのである。また、私はテレビゲームをライフワークとしているため、家での暇な時間はテレビ画面に向かっていたこともあって、部長を務めていた高校二年の時などは、クラス四十七人中四十三番などという評定を頂いてしまったこともあった。毎朝の東長崎駅までのダッシュ(七時三十三分発に乗るため)や二、三時間目の間の早弁(その学校では合法行為)、部活動後に巣鴨駅前の喫茶店でぐちゃぐちゃ話し込んだこと(同じく合法)、通学路の「ご自由にお飲みください」というグリーンティ(砂糖入り緑茶の粉末)を飲み過ぎて怒られたこと(倫理的に問題あり?)など、思い出は尽きない。

 こうした様々な思い出の中で一番印象に残っているのは、高三の時、英語のリーダーと数学の微分積分で零点をとったこと、ではなく、最後の夏休みでの出来事である。

 高三の夏休みと言えば、一般的には受験勉強の真っ最中であるはずだが、その高校は卒業生の半数以上が浪人するという、なかなか気合いの入った学校であった。そして私も全力で夏休みの部活動に参加した。大学受験は何年間でも好きなだけ(?)参加できるが、コンクールに出られるのは留年しない限り三回だけなのだ。最後のコンクール、気合いの入らないはずがない。朝の八時半に集合して、腹筋背筋発声練習に水鉄砲でのバトルとメニューをこなし、パート練や全体練、卒業生による発声練習などを行ううちに夕方五時になってしまうのであった。

 小石川高校音楽研究会(合唱部の正式名称)は毎年コンクールに出場していたのだが、私が三年生の時点で、過去十年間ほど入賞を果たしていないのであった。そのコンクールはまず東京都A地区大会(東京二十三区と島しょ部)があり、その後東京都大会、関東甲信越ブロック大会を経て、全国大会へ出場できるのである。県によっては、参加校が数校しか無いため、出場しただけで入賞してしまうところもあったように思う。しかし我々の所属する東京都A地区は、二十校以上が参加するという大激戦区であった。その中から金賞、銀賞、銅賞が選出され、金賞受賞校は上の大会へ進むのである。高一の時などは、まだ自分たちの演奏しか知らないため、地区大会の前から全国ネットのテレビに出るつもりでコンクールに参加したものであった。しかし現実は厳しく、そう簡単に入賞できるような代物では無いことを知るのである。実力校などと呼ばれる学校は、参加定員の四十名を越える部員を擁し、演奏の曲目によって生徒を入れ替えるなどといった芸当を見せるのだが、我々の合唱団は過去数年間にわたって総勢二十名弱という規模なのである。

 しかし、私が高三の時はちょっと違っていた。私達の下の学年は、最終的に十名以上が入部したことや、その時の指揮者がなかなか音楽的な素養とカリスマ性を持ち合わせていたこともあり、自分でもかなりいい線行くのではないかと思っていた。その時はなんと総勢三十名に近い合唱団であったのだ。ちなみにその時選んだのは課題曲が「時代」という曲(もちろん中島みゆきの「時代」ではない)、自由曲が「旅の途の風に」という組曲の中の「晩秋の里で」という曲であった。

 コンクールは西武池袋線の練馬駅前、練馬文化会館で行われた。普段ほとんど着ることのない制服ならぬ標準服を着込み(ちなみにその学校は私服でかまわない学校である)、慣れないネクタイに首を絞められ、緊張のうちに出番を待った。数ヶ月間の練習の成果がほんの十分弱の演奏によって評価されてしまうのだ。緊張しないはずがない。舞台袖の暗がりの中で今までの練習や気をつける点を思い出そうとするのだが、大事なことを何ひとつ思い出した気がしないうちに発表の順番がまわってくる。そして、強烈なスポットライトの中、合計八分ほどの演奏は終わる。後は、結果発表を待つばかり。閉会式の最初に全体の講評があるのだが、講評を述べる人が何か誉めるようなことを言うと、「今のは、俺達のことだ」「うん、きっとそうだ」などと、誠に自分勝手な解釈を行う。しかし講評が二分、三分と長引くにつれ、「早く発表してくれよ」と、またもや自分勝手な意見を述べるのだ。このあたりは、今の高校生と変わらないのだろう。

 結果的には、我々小石川高校音楽研究会は堂々銅賞に入賞した。その時の感動(というより驚き)を紙面に表すことは到底無理なことだろう。我々ベース(男声の下のパート)五人などは、「過去十年間で最も偉大なベース」などと自画自賛したものである。全国レベルの学校から見れば、地区大会銅賞入賞など大したこと無いかも知れないが、我々から見れば、とてつもなく凄いことなのである。自分の中でも、過去二回のコンクール参加はそれなりに価値のあるものであったと思うが、やはりコンクールに出場する以上、入賞したいと思っていたことは確かである。その願いが最後のコンクールで叶えられたことが、高校生活を通じての一番の思い出である。

 以上、長々と部活動について書いてきたが、高校時代の友人で、今も付き合いが続いているのは、同じ合唱部であった者が多い。私は授業中寝入ってしまうような、あまり優等生とは言い難い高校生であったが、(好きな理科の時間は真面目であった、念のため)合唱部に所属していなかったならば、とても味気ない高校生活を送ったことだろう。部活動に時間を費やすことによって、何かしら出あい損なったものがあったのかも知れないとは思う。しかしそれ以上に目に見えない、言葉で言い表せないようなものを、三年間の部活動を通じて得たことは確かだろう。